99 甥っ子は犬を飼いたいそうです
来月の武闘会の予選が行われた。旭も次こそはと張り切っていたが、対戦相手が運悪くサクヤに当たり、武闘会に出場したいが、彼に勝ってもらえないとキスが解禁にならないという葛藤から、実力を発揮できなかった。サクヤも旭を傷付けたくない気持ちで動きが鈍く、婚約者対決は引き分けとなってしまった。
志願者が多く、引き分けの場合は予選敗退扱いになるので、またもやキスが遠のいてしまった旭は、悲しみに打ちひしがれてしまった。
このままでは結婚式の誓いのキスさえ中止になってしまうので、いっそ武闘会で勝利ではなく、前回サクヤが負けた対戦相手の祈に勝ったらという事では駄目なのだろうかと、旭は悶々としながら、アラタとの予選を勝ち抜いた兄に質問を投げかける。
「お義姉ちゃんはお兄ちゃんに勝った事ある?」
「勝ち負け以前に戦った事が一度も無い。怪我されたら困るからな」
戦闘狂の兄の事だから、ありとあらゆる人々に勝負を挑んでいると思っていたので、旭は意外に感じた。
「我もそなたとは戦いたくなかった。守りたい存在と戦うなど本末転倒だ」
サクヤから守りたい存在と言われて、旭は嬉しさが込み上げてきた。それに自分も彼を守りたいと同じ気持ちだったのだ。
「おとうさん、おしごとおわった?」
「ん、終わったよ」
今日は幼稚園が休みだったらしい。父親と神殿に遊びに来ていたセツナが待ちくたびれたのか、遊んでもらっていたディアボロスと共に駆け寄ってきた。抱っこをせがまれたので、トキワは軽々と抱き上げる。
「ねえ、おとうさん。やっぱりぼくワンちゃんがほしい!」
セツナは犬が大好きだ。母方の叔母の嫁ぎ先の牧場では牧羊犬に夢中だし、神殿に遊びに行く度サクヤにディアボロスに会わせろとせがんでいた。そんな次男のおねだりにトキワは苦い顔をする。
「動物が飼いたいなら雌鶏にしよう」
雌鶏なら卵を産むから食費の足しになる。そんな考えが透けて見えて、旭は兄のドケチぶりに吹き出しそうになる一方で、セツナは悲鳴に似た声を上げる。
「嫌だ!ディアちゃんみたいなかわいいワンちゃんがいい!」
「自分の世話も出来ないのに、どうやって犬の世話をするんだ?お父さんは手伝わないからな」
父親の正論にセツナは押し黙り、今にも泣き出しそうになっていた。そんなセツナを見て、ディアボロスはサクヤに何か訴えかける様に鳴いた。
「…ならば、お試しというのは如何かな?」
サクヤの提案にトキワは嫌そうに睨みを利かせるが、セツナは救世主を見る様に丸い瞳を輝かせた。
「今から1ヶ月、闇の眷属弟にディアボロスの世話を任せて、全う出来たら犬の飼育を認めると。ディアボロスも協力すると言っている」
「人の家庭の事情に首突っ込むな」
我が子が近くにいなければ舌打ちをしていただろうと思う位、機嫌が悪そうな兄に旭は肝が縮む。
「おねがいおとうさん!ぼくがんばるから!」
掴んだチャンスを離すまいと、セツナは父親にギュッとしがみついて懇願した。この天使の様な愛らしさに大抵の大人はメロメロになって二つ返事で受け入れるだろうが、トキワは渋い顔のままだ。
「せっちゃん、今日のところは諦めて優しいママにお願いしたら?」
努めて小さな声で入れ知恵をするも、兄に気付かれてしまい、鬼神の様な顔を向けてきたので、旭は短く声を上げた。
「…仕方ない、1ヶ月だけだからな。自分と犬の世話をちゃんとするんだぞ?」
「やったー!ありがとうおとうさん!」
粘り勝ちしたセツナは父親に頬擦りをして感謝を伝える。この美しき親子の触れ合いをブロマイドにしたら売れまくるのにと思いつつ、我が子に甘えられて、少し嬉しそうな兄の横顔に旭はつられて微笑んだ。
「よろしくね!ディアちゃん」
次に父親の腕から降りて、セツナはディアボロスに抱きついた。これもブロマイドにしたら、母性本能をくすぐられたご婦人たちがこぞって買いそうだと思いながら、旭は甥っ子の挑戦を応援した。
***
「セツナ、起きろ」
「うーん…」
同じ部屋で寝る兄に揺り起こされ、セツナは顔を顰めるが、ディアボロスの鳴き声が聞こえてきて、目が冴えた。いつもならこの時間はまだ夢の中だが、今日からディアボロスの散歩をするため、早起きする必要があった。
「おにいちゃん、ディアちゃん、おはよう」
「おはよう、散歩に行くんだろう?着替えよう」
「はーい!まっててねディアちゃん」
せかせかと服を着替え、兄と洗濯物を抱えて、階段を降りる。ディアボロスも後ろをついていく。
昨日、ディアボロスが一家に迎え入れられると、思いの外クオンが喜んだ。彼もまた犬好きで、動物を飼いたいと考えていたが、物分かりの良い性格が仇となり、諦めていたのだ。
1階では妹をおんぶ紐でおぶった父親とエプロン姿の母親が忙しなく朝食と弁当の準備をしていた。兄弟とディアボロスは挨拶をして、洗濯カゴに洗濯物を放り込んだ。
飼い主(?)のサクヤから借りた黒革に鋲が敷き詰められた首輪がついたリードをディアボロスに取り付けて、散歩の準備は完了だ。
「おさんぽいってきます!」
「少し待って」
今にも家を飛び出す勢いの息子達に、父親はストップをかけ、手をかざして彼らの周囲に魔物避けの結界を張った。
「これでよし」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
父と作業の合間を見つけ駆けつけた母に見送られて、兄弟とディアボロスは散歩に繰り出した。
爽やかな朝の心地よさに目を細めて、兄弟は父親が事前に決めた散歩コースを嬉しくて走り出したい気持ちを抑え、やや早足で歩く。ディアボロスもご機嫌に尻尾を振って、歩調を合わせる。
15分ほど歩けば、大叔母が運営する診療所と祖母の家が見えてきた。家の前では箒を手にしたマリーローズとヒナタが立ち話をしていた。
「マリーローズせんせい、ヒナちゃん、おはようございます」
「おはようございます」
元気に挨拶するセツナとクオンにマリーローズは微笑ましく感じて口元を緩める。ヒナタはセツナを抱き上げて高く掲げる。
「闇の神子から聞いたぞ、お世話頑張れ」
「私も以前犬を飼っていましたので、困った事があったら聞いてくださいね」
2人の応援に兄弟は感謝して、祖母と大叔母にも顔を見せてから、祖母の家からおよそ2分程の距離にあるヒナタの家に顔を出した。
家の横の空き地では伯父と伯母が鍛錬を行なっていた。挨拶を交わしてもう1人の従兄弟のカイリの姿が見えないので尋ねると、朝食を作っているらしいので、台所に顔を出して、少しだけ朝食をつまみ食いさせてもらってから、自宅へと戻った。
「ただいまー!」
「おかえりなさい。まずはディアちゃんの足を洗ってから手を洗ってね」
迎え入れてくれた母親に従い、セツナは用意した布をバケツの水に浸してから絞り、ディアボロスの足を拭いてから兄と共に手を念入りに洗った。
ダイニングテーブルには朝食が所狭しと並び、直ぐに飛びつきたい所だったが、先にディアボロスのご飯を用意した。サクヤによると雑食らしいので、朝食を皿に盛り付ける。
家族でテーブルを囲んで、これでようやく朝食だ。カイリからつまみ食いをさせてもらったものの、空腹には変わりなく、セツナとクオンは勢いよくパンに齧り付いた。
「こら、よく噛んで食べないと喉に詰まらせるよ」
螢の世話をしながら母親はセツナ達を注意する。言われた通りにセツナは咀嚼して、牛乳を流し込んだ。
大方食べ終え、セツナは皿に残った嫌いなトマトと睨めっこをした。
「セツナ、無理に食べなくて大丈夫だからね?」
優しく話しかける母にセツナは意を決して、トマトを口に放り込んだ。酸味に身震いがしたが、飲み込み、本日の朝食は完食となった。
「すごい!セツナすごいね!お兄ちゃんみたいにちゃんと食べれたね!」
「えへへ」
母に褒められて悪い気がしないセツナは、その後食器も自分で片付けて、更に褒めて貰った。
「いってきまーす!」
支度を整えると、父と兄と3人で家を出て、セツナは幼稚園へと登園する。その間ディアボロスは母と妹と家で留守番だ。
幼稚園が終わると、母と妹、そしてディアボロスが迎えに来てくれた。セツナは胸を弾ませ、リードを受け取って帰り道、少し遠回りをして散歩をした。
家に着くと、手洗い等を済ませ、みんなでおやつを食べてから、セツナは最近サボりがちだった勉強をする。その間ディアボロスはソファで母にブラッシングをしてもらい、ご満悦の様子だった。
夕方になり、放課後神殿でマイトに槍の指導を受けていた兄が父と帰ってきたので、セツナは晩飯の時間まで、兄とディアボロスで庭先でボール遊びをした。投げた方向に飛び上がり、華麗にボールをキャッチするディアボロスに気分は高揚する。
晩飯の後、セツナは初めて1人で風呂に入った。父に言われた、自分の世話を出来る様になるという言葉を受けてだ。耳の裏に石鹸の泡が残っていたが、後は問題なしと父から太鼓判を貰い、思わず小躍りをした。
***
それから1週間が経過したある日、セツナは幼稚園の帰り道、母親と妹に付き添ってもらい、ディアボロスと共に神殿を訪れた。
「久しぶりだなディアボロス」
ディアボロスはサクヤを見つけるなり、キュンキュンと鳴きながら一目散に飛び付いて、再会を喜ぶ。その様子をセツナは寂しそうに見ていた。
「闇の眷属よ、ディアボロスとの生活はどうだ?」
問い掛けに、セツナは俯いて黙り込む。ディアボロスが何か粗相をしたのか。サクヤは急かす事なく言葉を待つ。
「あのね、うちにディアちゃんがきてくれて、すっごくたのしかったよ。まいにちディアちゃんとなにしてあそぼうって、あたまがいっぱいになった」
「ほう、それは愉快だな。して、風の神子代行に犬の飼育は認めてもらえそうか?」
約束の1ヶ月はまだ先だが、サクヤは手応えについて尋ねる。
「おとうさんはこのちょうしでがんばれるならいいよっていってた」
金にならない事に消極的なトキワが前向きなだけ、良い傾向だ。これなら彼らの家に新しい家族がやって来るのもそう遠くないだろうとサクヤは想像した。
「でもね…ぼくきづいたんだ」
明るい話題のはずなのに、セツナは暗い表情を浮かべた。
「ぼくがいっしょにいたいのは、ワンちゃんじゃなくディアちゃんなんだ。でもディアちゃんはさっくんのワンちゃんだ」
正確にはディアボロスは闇の精霊で契約関係にあるのだが、大体合っているので、サクヤは訂正しないで、セツナの話を聞く。
「ディアちゃんもさいしょはたのしそうだったけど、きのう、さっくんにあいたくて、よるにないてたんだ」
普段ディアボロスは召喚されない限り、自由行動を取っているが、夜はいつもサクヤの添い寝で眠っている。それがこの1週間いつもと違う生活になった為、寂しくなったのだろう。少なくとも自分も多少心細かった。そう推測して、サクヤがディアボロスを見遣ると甘えた鳴き声で肯定した。
「なるほど、ディアボロスは闇の眷属達との生活は愉快だったが、我と離れ難かったようだな」
「…だから、ディアちゃんをかえすね。いままでありがとう」
セツナの苦渋の決断に感謝する様に、サクヤは彼に目線を合わせて、優しく頭を撫でた。
「言葉なき者の心を思い遣れるそなたなら、いつでも動物達と仲良くなれる。天晴れだ、我が闇の眷属よ。そしてありがとう」
「うん…」
「またいつでもディアボロスと遊んでやってくれ」
サクヤの申し出に、ディアボロスも元気に鳴いて、セツナの頬を伝う涙を舐めた。
こうしてセツナは犬を飼う事を断念した。しかし、ディアボロスと過ごした1週間は、彼を大きく成長させたのだった。




