98 おねだりをします
芽吹いた植物に恵みの雨が降り注ぐある日の午後、旭は義姉とティータイムを楽しんでいた。姪の螢も最近は離乳食を始めているらしく、すりおろしたりんごに挑戦していた。なお、義姉達と一緒に来た兄はサクヤにしつこく手合わせを懇願されて、訓練場に行っている。
「お姉ちゃんは最近港町に買い物とか行ってるの?」
「螢を妊娠してからは行ってないな。どうしたの?何か買って来て欲しいものがあるの?」
「うん、こないだママが家出した時にお姉ちゃんの黒いレースのネグリジェを借りてたんだけど、それがすごく可愛くて似たのが欲しいなって思ったの。あれってどこで買ったの?」
「ん?そんなの持ってたっけ…」
心当たりが無かった命は一旦トキワが風の神子代行として割り当てられている部屋へ行き、着替えを置いてある引き出しを探り、手にした黒い袋から、薄い布切れを手にした。
「もしかしてこれ?」
「そうそうこれこれ!可愛いよね!私も欲しいの」
義姉から受け取った胸元がレースで胸下が薄いオーガンジーで透けた黒いベビードールの両肩紐を摘んで自分の体に当てて、旭はご機嫌に一回転した。するとその場に居合わせた雫は瞠目して、紫は懸命に笑いを堪えていた。
「…それ、私のじゃないんだよね」
「え、そうなの?じゃあ何でお兄ちゃんの部屋にあったんだろう…あ、もしかして…お兄ちゃんが着るため⁉︎」
旭の解釈に紫は堪えきれず笑い転げていた。雫も苦笑いを浮かべている。命も思わず想像してしまって、吹き出してしまった。
「ええ…と、多分旭ちゃんにプレゼントするつもりだったんじゃないかなー?だってこれを私が着たら丈が短すぎるでしょう?」
「確かに、お義姉ちゃんが着たらミニ丈になるね」
旭は自分に当てていたベビードールを背伸びして、義姉に当ててみると、確かに丈が短かった。ならばやはり兄は自分の為に買ってくれたのかもしれない。
「ちなみにこれもあるけど…いる?」
大喜びする義妹に命はつい悪ノリして、袋から出して机に並べたのは、ベビードールと同じ黒レースのショーツと、ガーターベルト、ニーハイ丈の網タイツだった。セクシーなラインナップにようやく笑いが収まった紫はまた吹き出し始めた。
「うわー大人っぽい!今からちょっと着てみよう」
「ご自分の部屋で着替えて下さい!」
すぐ様服を脱ごうとする旭を雫が制して、部屋へと誘導した。ついでに着替えも手伝ってもらう。
「じゃーん!どう?可愛い?」
「可愛い!お人形さんみたい!」
嬉々として披露した旭のベビードール姿に妹大好き人間の命は歓声を上げた。褒められて気分がいい旭はその場でターンをする。
「網タイツって案外あったかいんだね、これなら今の時期着ても、風邪をひかないね!早速これ着て寝ようっと!」
「はあ、うちの義妹が可愛すぎる…あの人もたまにはいい買い物するなあ」
義妹を鑑賞しながら、命はハーブティーを啜り、筋金入りのシスコンぶりを隠さず、うっとりとしていた。
「まあ…色気の欠片もありませんが、似合ってはいますね」
「そうですね、ただこの格好で人前に…特に闇の神子の前に出てはいけませんよ?」
口々に感想を述べる紫と雫に旭は益々調子に乗る。しかし、サクヤに見せられないのはやや不服だった。
「ちょっとだけでも見せちゃだめ?サクちゃんの色だし、きっと気に入ってくれるよ!」
「それは駄目、大体それネグリジェじゃなく下着だからね?嫁入り前の女の子なんだから慎みなさい」
「えっ、そうなの?でも全然下着ぽくないから大丈夫だよ」
「それでも駄目」
可愛いと言われたら、一番好きな人に見せたいのが乙女心というものだ。それは命達も分かっていたが、首を縦には振らなかった。
「あー、お腹空いた。何かある?」
そろそろ服に着替えようとした矢先に兄が帰ってきた。旭はお礼を言う為に、軽い足取りで駆け寄った。
「お兄ちゃん、素敵なプレゼントありがとう!」
妹のベビードール姿にトキワは面食らった様子だったが、次第に虚無感に襲われて、死んだ魚の様な目になった。
「すごい…エロ下着に込めた俺の煩悩が一気に霧散した」
「えへへ!」
冒頭の3文字だけしか聞こえず、褒められたと勘違いした旭は嬉しそうに足をクロスさせて、可愛らしくポーズを取った。
「ていうか、何で旭がそれ着てるの?俺のロマンを返して」
「これ以前お義母さんが泊まった時に着たらしいんだけど、それを見て、旭ちゃんが欲しくなったって言うからあげちゃった」
説明を求められた命は面白そうに答える。図らずも、母親のベビードール姿が頭に浮かんでしまったトキワは口元を手で押さえるジェスチャーで吐き気を表現して蹲った。
「おとなしめのデザインなら、着てくれると踏んで買ったのに…次はえげつなくエロいのにしよう…」
小声で新たなる野望を呟く夫を命は白い目で一瞥してから、今度こそ旭に着替える様促す。旭は口を尖らせて、渋々と自室に入って服に着替えた。
「ちえっ、サクちゃんに見てもらいたかったな…」
「結婚したら、毎晩見せて差し上げたらいいじゃないですか」
トキワにお茶とお菓子の用意しながら、挙げる雫の妥協案に旭は大きな溜息を吐く。
「はあ、なんかあれもこれも結婚したらって言われて息が詰まりそう…」
「あなた方はまだ子供なんですから、節度あるお付き合いをなさって下さい」
厳しい口調の雫に旭の背中は丸くなる。そして早く大人になりたいと切実に願った。
「みんなも節度あるお付き合いしてたの?」
自分ばかり我慢なんて理不尽だと感じて、大人達に尋ねると、少年少女時代を回顧しているのか、沈黙が流れた。
「私は…初めて異性とお付き合いしたのは17歳の時でしたが…まあ程々に節度はありましたよ」
17歳となれば、村では大人扱いなので、自己責任である。そうなると、雫の言葉は説得力がある。
「俺が旭と同い年の頃なんか、我慢しかしてなかった。連絡手段は手紙のやり取りだけで、触れられないし、顔も見れないし、声も聞けなかった」
昔の自分について語ってから、トキワは隣にいた妻の頬にそっと触れた。そういえば2人は遠距離恋愛の時期があった事を思い出した。それを考えたら、会いたいと思えば、すぐ会える自分達は案外恵まれているのかもしれないと、旭は珍しく義姉に甘い兄を横目に考えを改めた。
「はあ、この場にサクヤ様がいなくて本当によかった…」
調子に乗ってこのまま頬にキスしようとする夫の口を手で塞いで、命はサクヤの不在に安堵した。
「あっ…」
何かを思い出したかのようにトキワが入り口に視線を向けたので、一同も同じ方向を見ると、サクヤが床に倒れていた。
「サクちゃん!」
顔を真っ青にさせて、旭はサクヤの元に駆け寄った。そして体を起こそうとしたが、重くて上手くいかない。彼もまた成長期、逞しく育っているのだ。
仕方なく旭はサクヤに軽量化の魔術を掛けてから、今度は雫と協力して体を起こしてあげた。サクヤは虚な目で鼻から血を流していた。
「酷い…一体誰がこんな事を…」
ハンカチで鼻血を拭いてあげながら、変わり果てた許嫁の姿を旭は嘆く。
「お前のエロ下着姿を見て興奮しちゃたんじゃないの?ウブな少年には貧相な体でも、刺激が強すぎた様だな。うーん、サクヤとは女の趣味が一生合いそうにないな」
まあそっちの方が助かるけどと言いながら、トキワはサクヤを担いで、神殿内の診療所へと向かった。
「え、嘘…サクちゃんが見てたの?」
あれ程見て欲しいと思っていたのに、いざ見られたと分かると、急に恥ずかしくなって、旭は顔を耳まで真っ赤にさせた。
「ようやく風の神子にも恥じらいというものが身に付いた様ですね」
「これが良い傾向となればいいですけど」
今まで無知が故に大胆な言動が悩みの種だったが、これをきっかけに、少しは大人しくなるかもしれないと紫と雫は希望を持った。