90 マリーローズ先生とお話します
マリーローズとはサクヤが塾開設にあたり雇った講師である。王都出身で歳は20と若いが博識で所作が美しく神子や神官達は勿論、塾に通う生徒とその家族から好印象を持たれていた。
もしかしたら彼女は今、自分の次にサクヤと親しい女性なのでは…旭は講義室で打ち合わせをしているサクヤとマリーローズをドアの隙間から睨みながら嫉妬に燃えていた。
「どなたですか?」
「うひゃっ!」
視線に気が付いたマリーローズが語り掛けてきたので旭は素っ頓狂な声を上げて尻餅を突いた。
「風の神子…そうか、もうそんな時間だったか」
許嫁に気付いたサクヤは部屋の時計を見て、一緒にお茶をする約束の時間になっていた事に気が付いた。そして旭に歩み寄り、そっと手を差し伸べた。
「では塾長、今日の打ち合わせはこれまでにしましょうか」
マリーローズの申し出にサクヤはコクリと頷き机の上の資料を片付け始めた。なんだか仕事の邪魔をしてしまった気がした旭は居た堪れない気持ちになってしまった。
「あの…良ければマリーローズ先生も一緒にお茶しませんか?前からずっと親交を深めたいと思っていたんです!」
嫉妬してしまった事や仕事の邪魔をしてしまった埋め合わせもあるが、親交を深めたいと思っていたのも本音だ。マリーローズに神殿の…村の外の世界を教えて欲しいと思っていたのだ。
「喜んで、私も奨学基金の運営に励んでいらしている風の神子のお話を聞いてみたいと思っていました」
上品に笑みを浮かべて申し出を受けてくれたマリーローズに旭は心の中でほっと溜息を吐いてお茶会の場所であるバルコニーへと3人で移動した。
今日のお茶はローズヒップティーとお菓子はブルーベリージャムが混ぜ込まれたパウンドケーキだ。雫にお茶を淹れてもらってから3人はティータイムを始めた。
「マリーローズ先生は水鏡族の村の生活にはもう慣れましたか?」
思えば普段マリーローズとは塾についての会話しかしていないと気付いたサクヤは故郷から遠く離れて水鏡族の村に来てもらったのだから生活の方を気に掛けなくてはと思い問いかける。
「はい、お陰様で神殿や下宿先で皆さんにとてもよくして頂いております」
口元に手を添えて上品に笑うマリーローズの姿は旭がよく読む恋愛小説の令嬢の様だった。外見も流れる様な金髪に宝玉の様な青い瞳が美しく、ドレスを着れば舞踏会で光り輝くに違いないと想像してしまった。
「風の神子は既に周知かもしれないが、マリーローズ先生は闇の眷属を生みし者の実家で下宿している」
「え!初耳なんだけど⁉︎」
きっと誰もが皆、誰かが話しているだろうと思い込んでいたのだろうけれど、旭は少し取り残された気分になってしまった。
「でもなんでお義姉ちゃんの実家に?」
「うむ、マリーローズ先生に村に移住して頂くに辺り、当初は神官待遇で宿舎で暮らしてもらおうと考えていたが、先生が教え子達と同じ環境で生活したいと希望されたので、神殿外に住まいを探す事となったのだ」
教育者として生徒達と打ち解けたいというマリーローズの姿勢に旭は舌を巻いた。そして心から彼女を尊敬した。
「そこで我は神官ヒナタに神殿に通勤しやすい距離に先生の住まいをと探して貰ったのだが、彼が現在祖母が一軒家で一人暮らしをしているから下宿するのはどうかと提案してくれたのだ」
「そっか、ヒナタさんにとってはおばあちゃんだったね」
ヒナタの家と彼の祖母の家は目と鼻の先にあるので、マリーローズが何か困った事があっても直ぐに対応出来るし、これは中々いいアイデアだと旭は指を鳴らした。
「私は家事が不得手ですし、慣れない土地での1人暮らしは不安でしたのでヒナタの提案はとても助かりました」
「神官ヒナタの祖母も娘3人が嫁いでしまっているから部屋が余っていると歓迎してくれたそうだ」
「紹介して下さったヒナタと住まわせて下さった光さんと部屋を譲って下さった命さんには感謝しかありません」
「へえ、マリーローズ先生は今お義姉ちゃんの部屋を使っているんだ」
「家族会議の結果、絶対出戻りなんかさせないと熱弁を奮った風の神子代行の主張で決定したらしい」
「うわ、私のお兄ちゃん愛が重過ぎ…」
兄の義姉に対する執着がここまでとは思わず旭は口角を引き攣らせる。もし離婚なんて事になったらこの村は嵐が吹き荒ぶかもしれない。
「まあ、闇の眷属を生みし者も最初から部屋を譲るつもりだったようだ。姉妹の中で勉強机が部屋にあったのは彼女の部屋だけだったらしいからな」
義姉は医療学校に通う為に受験勉強を経験していたので部屋に勉強机があるのは納得がいった。普通の水鏡族の子供達は長時間勉強をしないので、自室に机があるのは少数で、現に実家の旭の部屋にも無い。
「命さんの勉強机はとても使いやすいんですよ。椅子と机の高さが調節出来る様に作られています。光さんにどこで買ったのか尋ねた所、亡くなったご主人が趣味の日曜大工で作ったそうです」
村に尽力するマリーローズの為とはいえ、今は亡き父親との思い出が詰まった大切な机を快く譲る義姉はやっぱりお人好しだなと今頃クシャミをしているであろう姿を想像しながら旭は口元を緩めた。
「先生は故郷でも先生だったんですか?」
もっと彼女の事が知りたくなった旭の問い掛けにマリーローズは影のある表情で自嘲気味に笑った。どうやら訳ありの様だ。聞いてはいけない事を聞いてしまったと旭は己の失態を悔やんだ。
「ご、ごめんなさい!踏み入り過ぎましたよね」
「いえ、お気になさらずに。特に隠している事ではないので。そうですね、良い機会ですから塾長にお話ししておきます。風の神子も良ければ聞いてください」
半生を語る前にお茶で喉を潤してマリーローズは姿勢を正した。一体彼女は王都でどんな暮らしをしていたのか、朝とサクヤは耳を傾けた。
「私は前アンドレアナム伯爵の奥様の実家であるアンスリウム公爵家の長女として生まれ、貴族令嬢として礼儀作法や勉学に勤しんで参りました」
まさか本当の貴族令嬢をこの目で見る日が来るなんてと、旭は感激にルビーの様に瞳を煌めかせた。
「12歳の時、私は同い年である王太子の婚約者となりまして学業と並行して毎日妃教育に追われる日々が始まりました。それはもう目が回る忙しさでした」
王太子の婚約者が今こうして辺境の村で塾講師をしているという事はつまり…旭の考えている事が分かっているのか、マリーローズはゆっくりと頷いた。
「あれは学校の卒業パーティーが行われた日の事でした。パーティーが盛り上がって来た所で殿下が私に婚約破棄を言い渡されました。理由はとある男爵令嬢を愛してしまった。ただそれだけのことだと」
まさか恋愛小説みたいな事が実際に起きていたなんてと旭は目を丸くさせた。貴族や王族にとって身近な題材とはいえ、現実と区別は付けるべきである。
「殿下は完全に男爵令嬢にご執心となっていましたので、私は殿下の申し出を受け入れて婚約を解消する運びとなりました」
「そんな…マリーローズ先生は全然悪くないのに!」
将来王妃となるべく相当な苦労をして来たであろうにこの仕打ちはあんまりだ。不条理だと旭が非難すればこれで良かったのだとマリーローズは力無く首を振る。
「きっと殿下の心を繋ぎ止めておく事が妃教育で一番大切だった事なのかもしれません。それを怠った私は妃としての器に値しなかっただけです」
「でも…」
「これで良かったんです。だって私、今の自分が大好きですから。婚約破棄後、私は社交会を退き毎日家で陰鬱としていたんです。家族や使用人達から腫れ物に触れる様な態度を取られて居心地が悪かったので、アンドレアナム家から誘いを受けて水鏡族の村に来てよかったと思っています」
晴々とした表情のマリーローズが嘘をついている様には思えず、心から村を気に入っているみたいで旭は嬉しくなった。
「ちなみに婚約破棄した王太子はどうなったんですか?」
つい好奇心で旭が尋ねるとマリーローズは困った様に眉を寄せた。
「感情的に人前で私を辱めた殿下に陛下は激昂して王位継承権が剥奪されました。王太子には第二王子が立太子される事となりました」
「ちゃんとざまあされたんですね。よかったー。男爵令嬢は?」
「彼女は花嫁修行をした後に去年殿下と結婚されました」
「ほへー、そこは本当に真実の愛だったんですね」
よくある婚約破棄小説の乗っ取り令嬢は王位継承権が剥奪されるなり手の平を返すのに、王太子と男爵令嬢は本当に愛し合っていたようだ。
「つまり王太子が王位継承権剥奪された事以外は皆幸せになったのではないか?」
率直なサクヤの感想に旭は頷くしかなかった。事実は小説の様にならないし、現実にそんな刺激は必要ないのかもしれない。
マリーローズの意外な過去を聞いた後は塾に通う生徒達の話題になった。皆進学試験での好成績を目指し日々邁進中との事なので、奨学基金を運営する旭も忙しくなりそうだった。
「あ、いたいた」
塾が始まる時間が近付き、そろそろお開きにしようかとした所でヒナタが顔を出した。今日は非番だった筈なのでサクヤは首を傾げる。
「マリー、忘れ物してたぞ」
「あら!」
ヒナタが掲げた本にマリーローズはあっと、口に手を当てて駆け寄り受け取った。マリーローズが祖母の家に下宿しているからか、随分親しげだと感じながら旭は2人のやり取りを見守る。
「塾が終わるまで訓練場で遊んでるから」
「はい」
旭とサクヤに深々と頭を下げてからヒナタはマリーローズにひらひらと手を振ってバルコニーを去って行った。
「神官ヒナタと仲良くやっているようだな」
「はい、ヒナタはお母様の祈さんと王都まで迎えに来てくれたその日からとても親切にしてくれています。こうして呼び捨てで呼び合うのも、1人位気さくに話せる人がいた方が肩が凝らないだろうと、ヒナタが提案してくれたんです」
ヒナタと初めて出会った時の事を思い出しながらマリーローズは嬉しそうに語る。そんな事情があったのかと旭は納得している一方で、サクヤはヒナタがマリーローズとの間に痴情のもつれが生じてしまわないか心配になってしまった。しかしプライベートは派手でも仕事はしっかりこなしているヒナタを信じる事にした。
「家から神殿までの道のりは比較的安全だと言われていますが、いつもヒナタを中心に彼のご家族が送迎をして下さるんです」
確かにナイフ一つ握った事がなさそうなマリーローズでは水鏡族の村は危険かもしれない。サクヤは彼女の通勤の事まで気が回ってなかったので、ヒナタ達の手厚いサポートに感謝しつつ、護衛手当を考えなくてはいけないと心に留めた。
「来月からは弟のカイリ君が塾に通うので、帰りは彼に護衛を頼む事になりそうです」
「えー!そうなんだ。カイリ君てヒナタさん同様カッコいいから塾の人気者になりそう!」
まあ、サクヤの方がカッコいいけどと思いつつ旭がサクヤを見やると、少し不機嫌そうな表情を浮かべていたので、もしかしてヤキモチかと旭は口元を緩めながら今度はこの気持ちを口に出して許嫁の腕にしがみついた。
そんな微笑ましい神子カップルにマリーローズは目を細めてやはりここに来てよかったと穏やかな気持ちで授業の準備に向かうのだった。
登場人物メモ
マリーローズ
20歳 髪色 金 目の色 青
王都出身の塾講師。貴族令嬢で現在ヒナタの祖母の家で下宿している。