51 兄の愛人が押しかけて来たみたいです
午前中、いつもの様にサクヤと体力作りや魔術の訓練をして過ごし、昼飯時になったので旭はミネストローネと全粒粉のパンを食べていた。最近はお肌に良いという菫の言葉に影響されて、苦手な野菜もだいぶ食べるようになっていた。サクヤも成長期だからと食べる量が増えていて、剣の師匠であるトキワからの肉を食えという受け売りで牛ステーキを口に放り込んでいた。
「あ、いたいた。風の神子、大変でーす」
大変という割には落ち着いた様子で紫が食堂に顔を出した。旭はのんびりスプーンに乗っているミネストローネを口にしてから言葉の続きを待った。
「今、神殿の受付に代行の愛人を名乗る妊婦がいらしてます」
「はあっ⁉︎」
ミネストローネを飲み込んだタイミングで報告してくれたお陰で噎せずに済んだが、衝撃で声が裏返ってしまった。サクヤも目を丸くさせて驚きを隠せずにいるし、話が聞こえていた周囲の神官達も戸惑いを隠せない様子だった。
「どうしますか?」
「どうするって…お兄ちゃん呼んだ方がよくない?」
「それは勿論、現在マイトが馬で報告に行ってます」
つまりその間愛人をどうするかという事である。果たしてその妊婦は本当に兄の愛人なのか。以前の旭なら迷わずそうだと決めつけていたが、ここ1年で兄が義姉に惚れて結婚した事を知ったし、今も愛がある事も窺えた。さらに現在義姉は第3子を孕っていて、超がつくほど過保護になっている。
そんな兄が愛人を、しかも妻と同時期に孕ませるなんてあり得ないというのが結論で、もし、真実ならば人間不信に陥ってしまいそうだった。サクヤもそうなのか、有り得ないと目で訴えかけていた。
「うーん…とりあえず共有スペースの応接室に案内して。ご飯食べたら行くから」
「かしこまりました」
まだ愛人と決まっていないし、不審人物である事には変わりないので、旭は件の人物を神殿関係者以外の人間でも入れる応接室に押し込んでおく事にして、ミネストローネが入った器を手にして残りを流し込んだ。
応接室にはサクヤも一緒に来てくれた。旭は心強く感じながら紫に案内された部屋に入った。
簡素な応接室には大きなお腹をした妙齢の女性がソファに腰を下ろしていた。女性はゆったりとしたワンピース姿に灰色の髪を三つ編みで1つにまとめていて、少し垂れ目の瞳を涙で濡らしていた。
兄の愛人を名乗るからには巨乳なのだろうかとこっそり視線を女性の胸に移すと、義姉には劣るがなかなか豊満な胸の持ち主だと、旭は評してから向かい側のソファに座った。サクヤは当事者じゃないし、2対1では威圧感になるかもしれないと部屋の隅の壁にもたれかかった。紫はドアの横に控えている。
「こんにちは、私は風の神子です。あなたは兄の愛人との事ですが、お名前とお住まいの集落を伺ってもよろしいですか?」
まずは愛人の身元を調査する事にした。言ってしまえば兄が来るまでの時間稼ぎだ。女性はハンカチで涙を拭うと、大きなお腹を愛おしげに撫で上げた。
「こんにちは…私は紬です。住まいは南の集落になります」
女性の名前に聞き覚えも無いし、南の集落に住んでいるというが、兄の住まいは西の集落だから接点は無い。しかし考えてみたら兄の交友関係を知らないので、愛人が嘘とは判断し難かった。
「ええと、兄と知り合ったキッカケを教えて貰う事は出来ますか?」
「それは…その、声を掛けられまして…」
「兄には妻子がいます。思う事は無かったのですか?」
「…以前から風の神子代行は神子の後継者不足解消の為に光の神子から愛人を作る様言われていると噂に聞いていたので、奥様公認だと思っていました」
今まで散々、愛人がどうとか言って兄を揶揄っていたが、いざ現実となるとどうも実感が湧かず、旭は思わず唸り声を上げた。
啜り泣く紬に旭は掛ける言葉が見つからず、助ける様にサクヤを見ると、顎に手を添えて何か考え込んでいて、次に紫を見れば顔を俯かせて肩を震わせていた。こういう時の彼女は大方笑いを堪えているので、旭は呆れてしまった。
「今日ここに来たのは兄に会う為ですか?」
「はい…」
この事態は光の神子の思い描いていた事だった。銀髪の兄の子供なら高確率で魔力が高いだろう。現に甥っ子達は銀髪を受け継いで高い魔力を誇っていた。
これは祖母にバレたらややこしくなりそうだと、旭が考えていると、ドアをノックする音が聞こえた。紫が応対して開けると、渦中の人物である兄が姿を現した。女性は待人に喜んでいるかと思いきや、威圧感満載の兄に怖気ついている様子だった。
「あなたが私の愛人ですか?」
まるで部外者のようなトキワの問いかけに紬は顔を強張らせて、声を出す事も出来ずにいた。事情を知らない人が見たら、いたいけな妊婦を脅す悪者にしか見えない。
「ご存知だと思いますが、私には身に覚えがありません。よってあなたのお腹の子供を認知する気は一切ありません」
もし、紬のお腹の子供が兄の子なら最低な発言だが、違うならば尤もな発言だ。旭は後者だと信じたかった。きっと兄は自分の妻子を守る為に毅然とした態度を取っているのだ。
「私は…」
「もし、正直に事情を話すならばこの件は水に流しますし、力になりましょう」
「どうして…?」
どうして私達を捨てるのかというよりは、何故力になるのか、そう受け取った旭は兄に何か考えがあるのだろうと推測した。
「本来ならこんな馬鹿馬鹿しい茶番に付き合わないつもりでしたが…現在私の妻も妊娠中でして事情を話した所、きっとどうしようもない事情を抱えている筈だから助けてあげてと私を信じて送り出してくれました」
トキワの言葉に紬は酷く驚愕した後に、顔を両手で覆った。
「私…何て事をしてしまったの…」
どうやら紬は義姉の妊娠を知らなかったらしい。同じ立場ならどれだけ傷付くか、痛い程分かるのだろう。それにしても夫を自称とはいえ愛人の元に送り出すとはお人好しにも程があると、旭は義姉の選択に苦笑いを浮かべた。
「申し訳ありませんでした…お腹の子供はトキワ様の子ではありません」
「でしょうね」
嘘を白状して謝罪する紬にトキワは冷めた言葉で切り捨てて、話を聞こうと旭の隣に座った。
「…3日前、夫が父親になる自信が無いと家を出て行ってしまったんです。生きているのは確かですが、水晶で居場所を当たって探そうにも私は身重ですし、両親はすぐ帰ってくるだろうと楽天的だし、自警団に依頼しても同じ様に真剣に取り合って貰えませんでした」
身重の妻を置いて行方不明だなんて酷い夫だと旭は憤慨して頬を膨らませた。その隣でトキワは表情を変えず黙って話を聞く。
「そこで、神子に精霊を通じて夫を探して貰おうと神殿に来ましたが、ただの村人である私が神子に依頼をするのは難しいと思った所で、以前風の神子代行が後継者不足解消の為に愛人を探していると小耳に挟んだのを思い出して、愛人を装って風の神子に会おうと試みました。本当に自分勝手でした…ごめんなさい」
確かに神子と何の関わりの無い村人が急ぎで接見するのは難しく、せいぜい神官を通して意見が届く程度だ。もしかしたら普段図書館にいる暦なら聞いてくれるかもしれないが、確実とは言えないので、今回の紬の作戦は大成功だと言えるだろう。
「分かりました。では、風の精霊にあなたの夫の居場所を聞いて貰います。その後神殿から自警団に捜索を依頼しましょう」
「ありがとうございます!」
慈悲深いトキワの救いの手に紬は感謝して涙を流した。これまで独りでずっと溜め込んでいたのだろうと思うと、旭も力になりたいと強く思った。
紬にはそのまま応接室で待ってて貰い、旭達は一旦風の神子の間に戻って風の精霊達に彼女の夫の居場所を聞く事にした。
「じゃ、帰るから…後は頼んだ」
「は?引き受けたのお兄ちゃんじゃない!」
まさか丸投げされると思わなかった旭は兄に非難の目を向けた。
「…口では強がっていたけど、相当無理してる筈だから早く帰って傍にいたいんだよ」
まるで宝物を愛でる様な優しい口調の兄が自身の妻の事を話しているのかは明らかだったので、旭は批判する事出来なかった。
「分かった。お義姉ちゃんによろしく伝えて」
「覚えてたらね」
兄の背中を見送ってから旭は軽く身なりを整えて準備を始めた。
「もしかしたら我の生みの父が逃げたから、生みの母は絶望して我を捨てたのだろうか…」
「サクちゃん…」
儚げな瞳でポツリと溢したサクヤの疑問に旭は胸が締め付けられた。サクヤの出生については謎が多すぎた。当時発見された時はカゴの中にサクヤと生年月日と名前が書かれたメモと、彼の水晶しか無かったと言われている。
もし、サクヤが親に捨てられなかったら神子になったのだろうか?光の神子と闇の神子は特殊なので他属性とは事情が違いそうだ。これは一度調べてみた方がいいだろうと決めると、旭は気を引き締めて精霊との会話に臨んだ。
***
紬の夫は風の精霊からの情報を元に自警団が捜索した所、崖の下の洞窟で発見された。報告によると、父親になる自信が無いと家を出てからしばらく森の中を彷徨っていた所、足を滑らせて崖の下に落ちてしまい、足を負傷してしまったらしい。
そして怪我で崖の上を登れる状態では無いので、近くに見つけた洞穴に避難して救助を待っていたらしい。幸い夫は水属性だったので飲み水に困らず何とか飢えを凌いだ様だ。
救助される迄の間色々考えて答えが見つかったのか、紬の夫は迷惑を掛けたことを謝り、紬と共に親になる決意を固めたそうだ。
こうして兄の愛人騒動は無事に解決した。しかしこのままだと第2、第3の愛人騒動が起きてしまうかもしれないと、旭は他人事の様に笑いながら紬からのお礼の手紙を折り畳み封筒に入れると、引き出しに仕舞った。