5 あんなに優しかった兄が鬼のように厳しいんです
旭は雨の日が嫌いだった。自慢のウェーブの掛かったふわふわの髪の毛は爆発するし、湿気で肌がベタベタして気持ち悪い。何より雨の日はある人物がやってくるからとにかく憂鬱だった。
「旭姉ちゃん」
「あーちゃん!」
「くーちゃん、せっちゃん」
そんな憂鬱な旭を訪ねて風の神子の間に来たのは、彼女の甥に当たるクオンとセツナだ。2人は兄弟で兄のクオンは8歳で、母親譲りの気の強そうな吊り目とは裏腹に心優しく、弟のセツナは4歳で、旭と姉弟といってもおかしくない位目鼻立ちが似ていて、天真爛漫な性格をしていた。
2人とも旭と同じ銀髪持ちで魔力が高いが、神子にはならず親元で普通の村人として暮らしていた。
「あれ?2人とも学校と幼稚園は?」
「春休みだから無いよ」
学校に通ってない旭は学生の長期休暇に疎かった為、クオンの説明を聞くまで春休みの存在をすっかり失念していた。
「フッ…現れたようだな。我が闇の眷属達よ!」
「サクヤ兄ちゃん」
「さっくん!」
仰々しい物言いで風の神子の間にサクヤが顔を出した。彼の言う闇の眷属とはどうやらクオンとセツナの事で、兄弟は普段からセツナから勉強を教わったり遊んでもらったりしている為、懐いているのだ。
兄弟はスルースキルが高いのか、闇の眷属と呼ばれても特に気にした様子もなくサクヤに近づき、セツナはおんぶをしてもらっていた。
「此度も我が闇の眷属として恥じぬよう勉学に励むがいい。さあ我が領域へ向かうぞ!」
「うん。あ、旭姉ちゃん。母さんがパウンドケーキ作って持たせてくれたから、特訓が終わったら一緒に食べようね」
籠を掲げたクオンの一言で、旭の目がパァッと輝いた。兄弟の母親が作る料理とお菓子は、旭の大好物で癒しだった。
「分かった!パパッと特訓済ませちゃうねー!」
意気揚々と旭は手を振り闇の神子の間に向かうサクヤ達を見送り、鼻歌まじりに動きやすいように髪の毛を2つに結ぼうと、ドレッサーに向かった。
「へえ、パパッと済ませられるんだ」
皮肉混じりに鼻で笑う声の主の方角に、旭は顔を青くさせてぎこちなく振り向いた。
「お兄ちゃん…いつの間に?」
知らぬ間にソファに腰掛けて長い脚を組み、左耳のピアスに触れつつ、冷めた目でこちらを見据えていたのは、旭の兄でクオンとセツナの父でもあるトキワだ。
旭とは16歳も年が離れていて、艶やかな銀髪と、ルビーのように輝く赤い瞳に眉目秀麗な顔立ちで圧倒的な美貌を誇る青年だと、信者達から持て囃されていた。
「クオンとセツナと一緒に入って来たけど、旭もサクヤも全然気づかなかったな」
「それは、お兄ちゃんが気配を消す魔術を使ったからでしょう…今日はお仕事おやすみなんだね」
「だからここにいるんだよ」
兄は先代の風の神子代表だったが、旭に代表の座を明け渡し、神殿を出て一村人として妻子と平凡に暮らしている。しかし風の神子が旭しかいない為、特別措置として風の神子代行という身分に収まっている。
現在の本業は大工だが雨の日に作業が中止になると、こうして旭の魔術の特訓を行い継承させている。
「休みとはいえ俺も忙しいんだ。パパッと特訓するぞ」
「待ってよ、まだ髪の毛結んでない」
訓練場に向かおうとするトキワを引き止めつつ、旭は急ぎ髪の毛を2つに分けて結んでから、タオルなどをバッグに入れると、入り口に控えていた直属の神官である紫に声を掛けてから、トキワと訓練場に向かった。旭は歩調を合わせず早足で歩くトキワの後ろを小走りで追いかけた。以前の彼ならまずこんな事はしなかっただろう。
あの頃のお兄ちゃんはどこに行ったんだろう…
旭がサクヤと生きていくために風の神子次席として親元を離れ神殿で生活する事になった時、兄のトキワは雷が怖くて泣いている旭と一緒に寝てくれたり、時々だが夜寝る前には絵本を読んでくれたり、風の神子の仕事についても辛抱強く教えて、旭が上手くできた時は自分の事のように喜んでくれて、失敗すると出来るまで温かく見守ってくれていた。
それなのに神殿を出て行ってからこうして雨の日に指導に来るトキワは、人が変わったかのように旭に冷たく、特訓はとても厳しかった。
「あと3分、集中しろ!」
今日の訓練は前回習い始めた空中浮遊だった。これは軽量化魔術の応用で、見た目の軽やかさとは裏腹に魔術の制御が難しく、最初にトキワが手本として訓練場が一望出来るほど空高く飛んでみせたが、いざ旭が実践すると、地上30cm位までしか浮く事が出来なかった。
「体幹がなってないな。今日からトレーニング1種目追加だ」
「ええー…」
魔術には身体のバランスも重要だとトキワは旭にトレーニングをするように課題を出している。
確かに風魔術最強の使い手であるトキワの体は逞しく鍛え抜かれているから決して旭を虐げる為だけでは無いと分かっているが、それでも毎日のトレーニングは過酷で、サクヤが付き合ってくれなければ投げ出していただろう。
なんとか10分浮遊する事が出来た旭は肩で息をしながらへたり込んだ。
「はあ、はあ…お兄ちゃんも私くらい苦労したの?」
水分補給をしてから旭が問いかけると、トキワは昔を思い出すように口に手を当てて考えた。
「空中浮遊は1時間で会得した。まあ基礎体力があったし、志が高かったから出来たのかもな。旭に足りないのは力への貪欲さだ。現状に満足してるから全く向上しないんだよ」
図星を突かれた旭は口をギュッと結んで俯いた。風の神子としてちゃんと役目を果たしているし、神殿は凄腕の神官や神子達が…それこそ兄のトキワがいるから危険が迫っても大丈夫だろうと楽観視していた。
「力なんていらない!もしもの時はお兄ちゃんとサクちゃんに守ってもらうもん!」
開き直った旭の主張にトキワは呆れてため息を吐くと旭の鼻を摘んだ。
「悪いがもし今神殿が襲撃されたら俺はクオンとセツナを守るから自分の身は自分で守れ。サクヤも今の実力なら自分を守るので精一杯だろう」
一見トキワは我が子に対して淡々としていて子煩悩では無いように見えるが、優先順位は妹より上のようだ。
「じゃあお義姉ちゃんに守ってもら……ひえっ!」
ならばと口にした旭の言葉に、トキワは鬼の様な目付きで睨みつけてきたので、旭は恐怖で短く悲鳴を上げた。
兄は最近妻と不仲なのか、義姉の事を口にすると、話題にするなと言わんばかりに睨んで来るし、最後に夫婦揃って姿を見せたのは、4ヶ月前光の神子に年始の挨拶に来た時だけだった。
「無駄口を叩く元気があるみたいだから次は30分間浮いてもらおうか?終わったらガンガンしごいてやる」
「そんなぁー!」
追加の特訓内容に旭は絶望まじりに声を上げつつも、これが終わればパウンドケーキが待っていると自らを鼓舞すると、風の力を借りて体を宙に浮かせた。
結局30分間根性で浮いてその後体術の訓練を5本こなした。ハンデとしてトキワには片手で一歩も動かないで相手してもらっているのにも関わらず、旭は5分も持たずにコテンパンにされてしまった。
そしてようやく特訓が終わると、旭は鉛のように重い体に鞭を打ち、サクヤ達が待つ闇の神子の間に向かった。
「遅かったな。風の神子よ」
「お待たせ…はあ、しんどかった」
サクヤが椅子を引いて座るよう勧めてきたので、旭は腰を下ろして目の前の机に突っ伏した。
「風の神子代行はどうした?一緒じゃないのか」
「お兄ちゃんは雑用を済ませてからこっちに来るって。後でサクちゃんもいじめてくれるらしいよ」
「フフ、それはじつに面白いな。今日こそ我が闇の力で我が師である風の神子代行に引導を渡そうぞ。ククク」
トキワとサクヤは奇しくも同じ両手剣使いで師弟関係なので、剣の特訓をしてもらっているのだ。サクヤの口ぶりだと彼が強いように聞こえるが、実際はトキワにまるで歯が立たず、赤子の手を捻るように痛め付けられていた。
「はあー本当に恐ろしいわ。2人ともあんなのがパパで大変だね」
慣れた手つきで人数分の紅茶を淹れるクオンと、行儀良く椅子に座り待っているセツナに旭は同情したが、2人とも首を振った。
「そんな事ないよ。父さんはいつも僕達を大事にしてくれている。滅多に怒らないし、嫌な顔もせず僕達のご飯のお世話とかセツナの幼稚園の送り迎えとか毎日してくれるし、風呂も一緒に入ってくれるし、風邪をひいた時はずっとそばで看病してくれるよ。勉強は教えてくれないけど、体術の訓練にも付き合ってくれるし授業参観も出席してくれる…強くてカッコよくて自慢の父さんだよ」
「ぼくもお父さん大好き!寝る時は絵本を読んでくれるんだよ!」
クオンとセツナが口にするトキワの父親としての姿は、かつて旭が味わっていた兄の姿だったため、旭は思わず目に涙を浮かべて泣き出した。
「私だってお兄ちゃんに優しくしてもらいたいよー!お兄ちゃんの馬鹿ー!」
幼い子供のように声を上げて泣く叔母にクオンとセツナは呆気に取られた様子で眺めていたが、サクヤは切り分けたパウンドケーキをフォークに刺して旭の口に放り込んだ。
「むぐっ…サクちゃんひどっ……美味しい!やっぱお義姉ちゃんのパウンドケーキは最高っ!」
さっきまで号泣していたのにも関わらず、旭はパウンドケーキのホッとする優しい甘さに目を細めて恍惚の表情を浮かべた。
「フハハ!悲しい時は甘い物が一番だ。風の神子よ、悲しみを乗り越えて強くなるがいい」
「サクちゃん…ありがとう!」
言い回しは妙だが優しい許嫁の心遣いはパウンドケーキと同じくらい旭の心を癒し笑顔にさせたのだった。
登場人物メモ
トキワ 28歳 風の神子代行 髪:銀 目:赤 風属性
旭の歳の離れた兄。旭とサクヤに対して厳しい指導を行う。本業は大工。妻子がいる。