20 私が叔母さんになっても
蒸し暑い夏が過ぎて、朝は涼しさを感じる様になったある日の週末。雲一つない青空に目を細めながら旭はサクヤと神殿のバルコニーで朝食を取っていた。
「そういえば今日は風の神子代行が来るな」
「え!?お兄ちゃんが!何で?今日雨降ってないし、休日だよ?」
サクヤの言葉に旭は動揺を隠せなかった。兄が来るという事は地獄の特訓が行われるからだ。それに休日に神殿に来る事は殆どなかった。
「何やら我々に大事な話があるらしいぞ。先月の特訓時に予告があった」
「聞いた覚えが無いんだけど?」
「だろうな。代行が話してた際、風の神子は疲労困憊で地面に伏してたからな」
言われてみればサクヤと共に挑んだ手合わせで兄に完膚なきまでに負かされて、精魂が尽き果ててしまっていたと旭は思い出した。
「…それにしても大事な話ってなんだろう?まさか遂にお義姉ちゃんと離婚!?」
「風の神子は代行夫妻に離婚してもらいたいのか?」
「まさか!?でも思い当たる事があるのよ」
「ほう、例えば?」
「お兄ちゃんはお義姉ちゃんの事を話題にすると機嫌が悪くなるし、こないだお義姉ちゃんが遊びに来た時、お兄ちゃんの事あの人だなんて冷めた呼び方をしていたし、もらった恋愛小説も婚約破棄物が多かったの。それってお義姉ちゃんの心情を表しているものかもしれない!」
旭の力説にサクヤは口に手を当てて何やら考える込んでいる。考え事をしている横顔がカッコいいと旭が見惚れていると、目が合って胸がときめいた。
「なるほどな、そうなると風の神子の推理は無視できない。やはり離縁のようだな。闇の眷属を生みし者は代行との離縁の意思を伝える為に婚約破棄を題材とする書物を風の神子に与えたのだろう」
サクヤの言葉に自分が言い出した事ながらショックを受けた。どこか否定して欲しかったのかもしれない。
「風の神子にこっそり知らせたのは恐らく闇の眷属を生みし者は代行に暴力を受けているからだ。女子供に容赦が無い事で有名な代行の事だ。配偶者に手を上げてもおかしくは無い」
「そんな!?お兄ちゃんがお義姉ちゃんに…酷い 」
確かに義姉は夏場でも露出が少ない服装だし、こないだ一緒に風呂に入った時、旭が義姉の胸に赤い痣を見つけたら、気まずそうに隠したのを今でも覚えていた。
「となると、闇の眷属を生みし者の身の安全を考えたら離縁を認めるべきではないか?」
「そうだね、もしかしたらお兄ちゃんがくーちゃんとせっちゃんにも手を上げようとして、お義姉ちゃんが庇って…!?うう、お義姉ちゃーん!」
まさか身内にこんな悲劇が訪れるなんて…旭が目に涙を溜めていると、サクヤが黙って黒いハンカチを差し出してくれた。優しい許嫁に感激しつつ彼と結婚したら絶対に幸せな家庭を築く事を誓った。
そして朝食後間もなく、兄のトキワが姿を現した。妻子の姿は無く1人できた様だ。旭とサクヤは緊張した面持ちでトキワを迎えると、3人で水の神子の間へ向かった。どうやら叔父の水の神子のミナトと、叔母の炎の神子の暦夫妻にも離婚の報告をするらしい。
「代行のピアスを見てみろ。まだ離縁はしてない様だ。結婚指輪もしている」
サクヤが小さな声で指摘したので、旭は兄の左耳のピアスの水晶に注目した。兄の水晶は義姉と結婚して融合分裂の儀を行っている為、義姉の水晶の瑠璃色が混ざっているのだが、その混ざり方が特異的で兄のエメラルドグリーンの水晶の中心に6本の瑠璃色の光の筋が星の様に輝いている。
そして旭は兄の左手の薬指にプラチナの結婚指輪が光っているのも確認した。水鏡族は指輪の交換の習慣が無いが、両親が結婚指輪を嵌めている影響からか、兄夫婦も指輪を嵌めていた。
「何を見ている?」
見ている事が兄にバレて、旭は思わず奇声を上げた。
「なんでもありません!お、おお義姉ちゃん達はどうしたのかなーなんて思っただけ!」
「家で留守番してるよ」
もしかしたら今頃家を出る準備をしているのかもしれない。今自分に出来ることは兄を神殿に足止めして逃走を支援する事なのかもしれない。旭は使命に燃えると、サクヤにアイコンタクトして頷き合った。
水の神子の間の応接スペースで暦が淹れた紅茶と手作りのマドレーヌが並び、一同が席に着いた所でトキワが口を開いた。
「妻から同意を得たんだけど」
やはり離婚の話なのか、旭は目をギュッと瞑って兄の言葉の続きを待った。隣でサクヤはテーブルの下でゴツゴツとした髑髏の指輪を嵌めた手で旭の傷の無い滑らかな手を重ねて、勇気づけた。
「サクヤをうちの養子にする」
「えっ!お兄ちゃんとお義姉ちゃんの離婚報告じゃないの?」
思ってもいなかったトキワの言葉に旭とサクヤは呆気に取られたが、ミナトと暦は平然としているので事情は知っていた様だ。
「誰と誰が離婚だって?」
離婚という単語を聞き逃さなかった兄は不機嫌に眉間の皺を寄せて問いかけてきた。旭は顔面蒼白で口を押さえて首を振った。
「まあいい…話を続けるけど、養子の件はサクヤが良ければの話だ。嫌ならミナト叔父さんと暦ちゃんの所でもいい」
トキワの説明にミナトと暦は頷くと、サクヤに優しい眼差しを向けた。
「じつは母が自分が死んだら、サクヤの事を誰かに頼みたいって言ってたの。そこで私の所とトキワと、あと姉さんのうちのどこかでサクヤを養子にしようって話になってるの。父も高齢だから任せるのも忍びないからね」
暦の姉とは旭とトキワの母である楓の事だ。つまり3組の家族が光の神子亡き後のサクヤの事について話し合ってた事になる。
兄夫婦の離婚話じゃなかったのにはホッとしているが、旭はサクヤの今後の行く末が心配になり、隣を見ると、サクヤは唖然とした顔をしていた。養母である光の神子に捨てられてしまうのか。そんな表情だった。
「母がそう望むなら致しかねない。だが…我は最後まで父と母の息子でいたい」
滅多に己の願望を言わないサクヤの切実な願いに一同は胸が締め付けられた。じつの両親も知らず、生まれて間もない内から神殿に捨てられた彼にとって、後見人を務めた後に養子縁組を結んだ光の神子とその夫は大事な家族だった。
「それでいいんじゃないかな。ただ、ばあちゃんは自分が死んだ後のお前の心配をしているから、いずれかの養子になる事は考えておいてくれ」
「あいわかった…風の神子代行達には迷惑を掛けるが頼む」
生真面目に頭を下げるサクヤに暦は首を振り頭を撫でた。
「あなたが母の養子になった時から私たちは家族なのよ。言うなれば私はあなたの姉でトキワは甥、旭は姪ね」
暦の言葉にミナトも私は義兄だと言ってから甘いマスクで微笑んだ。暦にサクヤの姪だと言われて旭は不思議な感覚になりながらも、彼と家族だと言う事実に少し嬉しくなった。
「しかし我は…」
「血縁なんて気にするな。知ってるか、家族の中でも夫婦は血が繋がってないんだぞ?だから何ら問題ない」
先手を打つ様にトキワが血縁のこだわりを絶つ様に告げると、サクヤは言われてみればとポンと手を叩いて納得した。
「となると、水の神子と炎の神子の養子になれば、風の神子は従姉妹となり、風の神子代行と闇の眷属を生みし者の養子になれば、叔母になるというわけだな。そして風の神子の両親の養子になれば妹だ」
確認するように口にしたサクヤの言葉に旭はショックを受けた。ただでさえクオンとセツナとの続柄が叔母なのは老けてるみたいで地味にショックなのに、サクヤの叔母になるなんて立ち直れそうになかった。
「サクちゃん!ミナト叔父さんと暦ちゃんちの子になってよ!私、サクちゃんの叔母さんになりたくない!」
「ふむ、我は特に希望は無いが故、許嫁である風の神子の言う事を聞くとするか。水の神子と炎の神子よ、母の亡き後はよろしく頼む」
「こちらこそ、私たちには子供がいないから大歓迎だ」
切実な旭の願いをサクヤはすんなり受け入れると、光の神子の死後はミナトと暦の養子になる事が決定した。
「でも待って!おばあちゃんが死んだら許嫁の話はどうなるの?」
突然湧き上がった疑問に旭は焦りを感じた。旭とサクヤが許嫁なのは、光の神子が独断で決めた事だから彼女が亡き後は無効になるのではないかと危惧した。
「許嫁の話は白紙だな。ざまあ」
「お兄ちゃんのバカ!そんな意地悪ばかり言ってると、お義姉ちゃん達に捨てられちゃうんだからね!」
反撃をする妹にトキワは僅かに口元を歪めるが、直ぐに見下した視線で睨みつけた。
「まあまあ、兄妹喧嘩はその辺にして…安心して、サクヤがうちの子になっても許嫁は解消しないから。ね?」
「よかったー!ありがとう暦ちゃん」
変わらずサクヤと許嫁でいられることに旭はホッと胸を撫で下ろした。日々の執務や修行を頑張れるのは、サクヤとの約束された将来があるからこそだからだ。
「そんな苦労しないで人生上手くいって旭の為になるのか?それにサクヤもそれでいいのか?本当に好きになった相手と結ばれた方が幸せになれるし、ばあちゃんも喜ぶと思うけど?」
叔母の計いに反論する兄に旭は余計な事を言うなと思う反面、サクヤは自分の事をちゃんと好きなのか気になったので黙って返答を待った。
「我は風の神子が許嫁で何ら問題無い。母が決めた相手だから大事にしたい」
いつもならここで胸がときめいて感激でサクヤに抱きつく旭だったが、彼が自分に対して恋愛感情を持っていない事に気がついて、ショックで表情が無くなった。
「つまり旭に恋愛感情は無いと?」
許嫁に意地悪く問いかける兄に旭は吐き気を催した。もしここで否定されたら三日三晩は寝込んで兄に仕事を押し付けようと決めた。
「共に過ごせば愉快な存在だが…それは恋愛感情では無いのか?」
きょとんとした表情で逆に問うサクヤに旭は恋愛感情じゃなくても自分に対して愛情を持って向き合ってくれている事に気付くと、心が温かくなった。恋愛感情については今後芽生えさせてやろう。そう誓った旭は今後も自分磨きに精を出そうと決めた。
「ふふふ、それも小さな恋のかけらね。でも焦らなくていいのよサクヤ。そうだ恋を知りたいならば、色んな人の意見を聞けば良いわ。どんな人を好きになってどんな恋をしたか…みんなの恋話をメモにまとめたら私に見せてね」
優しい声で暦はサクヤの考えを否定せずにどうしたら恋愛感情が分かるのか提案した。その横でミナトは整った顔立ちで苦笑いを浮かべている。
「なるほど、恋愛をするにも情報収集が必要というわけか…ならば風の神子代行よ!そなたの恋話を聞かせてもらおうじゃないか!初恋は何歳で、これまでのどんな恋人と交際したんだ?」
水を得た魚の様に生き生きとした目で好奇心を露わにするサクヤにトキワはめんどくさそうな顔をしてから席を立つと、水の神子の間から出ようとした。
「どこへ行く!?我の師匠なら弟子の疑問に答えるべきだ!」
「師匠だからって何でも答えるわけがないだろう。もう帰る。クオンとセツナと遊ぶ約束してるんだよ」
「ならば一つだけ教えてくれ!風の神子代行は本当に好きになった相手と結ばれたのか?そして幸せになったのか?」
ついでに話し合い前に許嫁が心配していたトキワと命の不仲説の真相を探るべく、先刻の言葉を引用して投げ掛けるサクヤに対して、トキワは少し考えてからまるで悪魔が悪巧みを考えている時の様に左の口角だけをニッと吊り上げた。
「ノーコメント」
肯定にも否定にも受け止められる一言を残すと、これ以上は何も言わずにトキワは水の神子の間を出て行った。
「ううむ、恋とは何と難解な…これは炎の神子の言う通りもっと情報収集が必要だな。よし、水の神子!次はそなたの恋話を聞かせてくれ!」
次のターゲットとなったミナトは困った様に眉を下げながらも、2人きりで話すのならばと受け入れたので、旭は邪魔をしない様に暦と水の神子の間から出た。
「私は旭とサクヤの恋を応援してるからね。何かあったらいつでも相談してね」
「暦ちゃん…ありがとう!じゃあ今から私たちも恋話しよ!」
「いいわね、じゃあ私の部屋に行きましょう」
そして旭は炎の神子の間で暦からミナトとの馴れ初めなどを聞いて胸を焦がしながら、いつかはサクヤと燃える様な恋をしたいと瞳を輝かせて魅力的な休日を過ごした。
登場人物メモ
ミナト
45歳 水の神子代表 髪色 銀 目の色 赤 水属性
旭の叔父。暦の配偶者で容姿端麗で腰の辺りまで伸ばしている美しい長い髪が特徴的で、精霊の化身とよく言われている。物腰が柔らかく怒っている顔を見た者はいない。医学と薬学を研究している。
暦 こよみ
41歳 炎の神子代表 髪色 銀 目の色 赤 炎属性
旭の叔母。姉の楓と正反対に穏やかで優しい性格をしている。積極的に村人達の冠婚葬祭を執り仕切り、図書館の館長も務めているので最も親しみがある神子として有名。