17 温泉を掘ります
外は雨がざあざあと降り頻っていた。旭とサクヤが仲良く午後のティータイムを楽しんでいると、昼から仕事が中止となったらしい兄のトキワが顔を出した。
これから地獄の特訓が始まってしまうのかと旭は身構えていたが、いつもツンケンしている兄の態度が今日はどこか穏やかで機嫌が良さそうだった。
「これ、温泉旅行のお土産な」
そう言って兄が差し出したのはピンク色の巾着袋だった。サクヤには黒色の巾着袋を渡している。その土地の名産の織物で作られた物だそうだ。
「成る程、確か先週風の神子の両親が代行の招待で闇の眷属を生みし者と闇の眷属達と温泉旅行に行くと言っていたな」
貰った巾着袋の紐をぎゅっと引っぱって口を絞りながらサクヤが呟くとトキワはにっこりと頷いた。久しぶりの爽やかな兄の笑顔に旭は何か裏があるのではないかと疑いの眼差しを向けた。
「いやー、初めて温泉旅行に行ったけど最高だったよ!日々溜まっていた疲れとかストレスが一気に吹き飛んだ」
どうやら兄は温泉旅行をいたく気に入った様だ。旭は疑った事を反省して邪気の無い兄から温泉街での観光の話や、温泉の効能に充実した旅館の施設に美味しい食事、大浴場の豪華さと部屋に備え付けてある露天風呂の雰囲気の良さなどを聞いていく内に、なんだか旭は羨ましくなってきた。
「これもみんな旭が俺の代わりに風の神子を務めてくれているお陰だよ。本当にありがとうな」
慈しむ様に頭を撫でてきた兄に旭は強い衝撃を受けた。こんなに優しい兄は一体何年振りだろうかと頭の中で思い出そうとするが、悪辣な姿しか浮かばなかった。
「サクヤも、いつもクオンとセツナと遊んでくれてありがとう。2人ともいつも嬉しそうに報告してるよ」
次にサクヤの頭を撫でて感謝を伝える兄の姿に旭は何か変な物食べてしまったのでは無いかと心配になってきた。
その後トキワは祖母や叔母達にもお土産を渡すからと風の神子の間から出て行った。結局、特訓のとの字も出なかったので旭は安堵したが、兄の豹変ぶりに戸惑いしかなかった。
「どうやら温泉には荒んだ心を浄化させる効果がある様だな…」
顎に手を添えて考察するサクヤに旭も肯いた。いつも旭とサクヤを虐げる事に全力を注ぐ兄が日頃の感謝の気持ちを口にする程までに優しくなったのは温泉の効果に違いないと確信していた。
「ねえサクちゃん、もし神殿に温泉があったら素敵だと思わない?」
「奇遇だな、我も今しがた考えていた所だ。そうと決まったら実行あるのみよ!」
「でも温泉ってどうすれば出来るの?」
「知らぬ。図書館で禁書を漁ろう」
夕方の礼拝までの間、温泉に関する資料を探す事になった旭とサクヤは早速神殿の図書館へ赴いた。
「あら、2人ともお勉強?」
神殿の図書館の館長を務める叔母の暦がサクヤと旭の来館に気付いて声を掛けてきた。今の時間帯は村人にも解放されているので、暦とサクヤと旭3人の神子の集結に視線が集まった。
「否、此度は神殿に温泉を掘ろうと思ってな。資料を探しに来たのだ」
小声で壮大な目的を口にするサクヤに暦は先ほどトキワが温泉旅行のお土産を持って来てくれたので、その影響だなと直ぐに理解した。
温泉を掘るなんて無理だと普通の大人なら鼻で笑うかもしれないが、暦は知識を求める者を否定しない主義だったので、頭の中で資料がある場所を検索した。
「それなら北12の本棚に関連書籍があると思うわ」
「ありがとう暦ちゃん」
暦の進言で旭とサクヤは該当する本棚へ向かった。そこには地質学や世界の温泉地などについて記された資料がいくつかあり、とりあえず気になるタイトルをピックアップすると貸出許可のカウンターに並んだ。
「あっれー、さっくんとあーちゃんじゃん?」
背後から馴れ馴れしく2人を呼ぶ声がしたので、旭とサクヤが振り返ると、土の神子のアラタが本を片手に立っていた。
「土の神子よ、図書館では静かにすべきだ」
地声が大きいアラタにサクヤは冷たい視線で注意した。基本的に物静かなサクヤは底抜けに明るいアラタが苦手なんだろうなと旭は何となく感じていた。
「ごっめーん、以後気をつけます。それで何借りたの?」
声のボリュームを下げて問いかけるアラタに旭は神殿に温泉を掘る為に資料を借りたと説明すると、アラタは目をキラリと輝かせた。
「いいじゃんそれ!俺も仲間に入れて!」
「静まれ、土の神子よ」
舌の根も乾かぬ内に大きな声ではしゃぐアラタをサクヤは再び咎めた。そして確かに土属性の魔術の使い手なら温泉堀りの戦力になりそうだと判断して、仲間に入れてあげる事にした。
「俺、温泉の資料なら他にも心当たりがあるよ。それを借りに行くから後で落ち合おう」
待ち合わせ場所を闇の神子の間に指定してからアラタと別れると、旭とサクヤは先に貸出の手続きを済ませ図書館を出た。
闇の神子の間で旭とサクヤが温泉の掘り方を探す事10分、アラタが何冊かの本を抱えて合流して来た。
「どう?温泉掘れそう?」
「まだ読み始めたばかりだから分かんないよ」
「それもそうか。じゃ、俺も調べますかね」
アラタは借りて来た文庫本を開きにんまりとページをめくった。一体どんな資料なのかと旭が背表紙に視線を移すと「劣情温泉〜今宵だけは貴方の妻になる〜」と記されていた。
「それってもしかして恋愛小説?面白い?」
恋愛小説を読むのが好きな旭が無垢な瞳で興味津々に問い掛けると、アラタは読んでいるのがウケ狙いで借りた官能小説とは言えず、気まずそうに視線を逸らした。
「そ、そうだねえ…温泉地が舞台の大人の恋愛小説、かな?」
「大人の恋愛小説ってなんかロマンチックな響きだなあ、次読ませて!」
「いやいやこれはあーちゃんやさっくんにはまだ早いから!ほら、この年齢制限マークを見て!こういうのは大人の俺に任せて!」
まさかここまで純粋な興味を持たれると思わなかったアラタは冷や汗をかきながら話題を変えようと考えを巡らした。
「2人はさあ、何で神殿に温泉を掘ろうと思ったの?」
「あのね、さっきお兄ちゃんが家族とパパとママで温泉旅行に行ったお土産を持って来てくれたんだけど、いつもは眉間に皺を寄せているのに、すごく機嫌が良くて優しかったの。だから温泉があればお兄ちゃんはいつも優しくなるんじゃないかなーって思ったの。あと私も入ってみたくなったから」
神子は精霊との契約の都合上神殿の外には出られないし、次席以降に証を預けて出ても長旅で温泉地まで赴くのはリスクが予測できず叶わない夢だった。そこで無いものは作ればいいという発想になったのだ。
「なるほどねぇ、確かに温泉の露天風呂でしっぽりとか最高に癒されるだろうな…あー羨ま、俺も早く結婚したい…」
トキワの気持ちを理解したアラタは小説のページを捲りながら温泉と結婚に思いを馳せる。
「アラタさんは温泉に行った事あるの?」
「あるよ。とはいっても神子になる直前に家族で思い出作りに行った時だから、だいぶ前だな」
「いいなー、じゃあ温泉経験者としてのアドバイスをあてにしてるね!」
「あはは、責任重大だー」
旭達が資料を読み進めていると、あっという間に夕方の礼拝の時間となった。読んでる資料は各自持ち帰り、明日は全ての用事をキャンセルして源泉を探す事を約束して解散となった。
***
翌朝、闇の神子の間にはサクヤと旭、アラタの他にタイガと環もいた。
「此度の作戦は彼らにも協力を要請した」
タイガは炎の神子次席で暦と共に図書館の運営を行う56歳の大柄で明るくて気のいいおじさんで、旭はどことなく母方の祖父と似ているので親しみがあった。
環はミナトの姪で水の神子三席だ。歳はトキワと同じ28歳で、普段はミナトと薬草や病気の研究を行なっている。最近は村の診療所の設備の充実や労働環境を整える為に定期的に視察をしたりしている。美貌の神子と崇められるミナトの姪なだけあり、優しくて整った顔立ちをしている。
そして2人とも髪は灰色で銀髪持ちには劣るが、強い魔力を持っている。
「資料に目を通した結果、源泉を探す事が必要だと言う事が分かった。そこで炎の神子次席と水の神子三席に熱源と水源を感じ取ってもらう運びとなった」
「なるほどね、タイガさん、環さんよろしくお願いします!」
自分で言うのもなんだが、こんな子供の考えた事に付き合ってくれるタイガと環の人の良さに旭は感謝した。
源泉を探す為5人の神子達は建物の外を歩き回った。タイガと環はそれぞれ慎重に温泉の気配を探っていた。
「元々神殿は地底湖があるからでしょうか…水の気配は多方面から感じられるのですが…タイガさんの方はどうですか?」
言われてみれば神殿の地下には亡くなった水鏡族を水葬する地底湖が存在する事を旭は今更思い出した。
「ううむ、やはり地底湖の影響か…熱は感じられないな」
「そんなあ…」
早くも計画は頓挫かと思われたが、サクヤは何か奥の手があるのか不敵に笑みを浮かべていた。
「もし源泉が冷たいならば沸かせばいい話だ。昨晩読んだ資料によると加温している温泉地は多々存在するようだ」
「へー!さっくん良く調べたね」
自身は結局官能小説しか読まなかったのでアラタは真面目に調べたサクヤに感心した。最近は闇の力がどうとか変な事に興味を持ち始めて様子がおかしかったが、持ち前の勤勉さは変わらないようだ。
「つまり多少温くても沸かせば温泉として利用出来るわけだね!」
「その通りだ風の神子よ。だが熱い源泉であるに越した事はない。炎の神子次席よ、引き続き調査を頼む」
「了解した」
その後もぞろぞろと神殿中を散歩して温泉の気配を探ったが、水の気配はあるが温泉である可能性は無かった。
「む…この下に熱を感じる」
そろそろお昼ご飯にしようかと話していた所でタイガが厩の近くで熱源を感じ取った。旭達は遂にかと興奮しながら足下を見る。
「水の気配もありますね。位置的に神殿の地下部には当たらない」
神殿の地図を確認しながら環は温泉の可能性を示唆したので、旭の瞳に期待が宿る。
「じゃあお昼ご飯食べたら早速掘ってみようよ!」
「昼からは俺の本領発揮て訳だね。たまちゃん俺に惚れちゃうかもよ?」
「そうですねー。頑張って下さい」
絶賛結婚相手募集中のアラタの言葉に現在独身の環は社交辞令で返す。村の若者は結婚が早く、10代で結婚するものが多いが、神子の結婚はお見合い結婚が殆どなので20代後半から30代になる者が多かったので、環の年齢で独身なのはそう珍しく無かった。
神子達は事前に食堂で用意してもらっていた弁当を広げ、昼食を取った後、早速掘削の作業へと移った。
「で、温泉てどの位掘れば出るの?」
木の枝でマーキングされた地面の前にしゃがみ込んでアラタが問うたのでサクヤは資料に記された数字を思い出す。
「最低でも1000mは掘らねばならぬらしいぞ。頼んだぞ土の神子よ」
「は?ちょっと待って!そんなん無理でしょ⁉︎」
予想外の深さにアラタは目を丸くして抗議した。
「険しい道かもしれないが土の神子なら出来ようぞ」
「何?俺一人で掘るのは決定事項なの?俺は人間掘削機じゃないんだよ!」
「だが神殿に温泉が出来たら、そなたは未来の花嫁と露天風呂でしっぽりとやらを体験出来るのではないか?」
抗議に対してサクヤが昨日彼が話した温泉への憧れを口にすると、アラタは目の色を変えて両手を地面に付けた。
「うおおおっ!目指せしっぽり!いっちょやってやるぜー!」
その気になったアラタによりマーキングされた地面の土が高速度で掘削されていった。掘られた土はどんどん積み上がり壁のようになっていく。
「しっぽり!しっぽり!しっぽりーっ!」
掛け声のようにしっぽりを連呼しながら怒涛の勢いでアラタが土を掘り進めると、突如湯気を纏った水柱が噴き上がった。
「で、出たー!温泉だーっ!」
念願の温泉に旭は歓声を上げて、サクヤに抱きつき喜んだ。
「よっしゃー!しっぽりーっ!」
大役を果たしたアラタは両手を掲げて狂喜乱舞する。その近くでタイガと環は呆気に取られていた。
しかし喜びも束の間、ジリリと喧しい警報のベルの音が聞こえて辺りは騒然となった。
「何これ?一体何が起きたの⁉︎」
警報音に旭は怯え、許嫁の腕を強く掴んだ。サクヤは周囲を見回し原因を探ると、近くにあった建物に目が止まった。
「クッ…そういう事か。どうりでこんなに早く温泉が見つかった訳だ」
「どういうことなのサクちゃん?」
状況が飲み込めない旭にサクヤは失策だったと自嘲してから建物を指さした。
「恐らくこの温泉はあの温室の暖房に利用されている温水だ!」
「あ…」
サクヤの推理に真っ先に声を上げたのは環だった。何故ならばこの温室を管理しているのは環とミナトだからだ。
環は顔を真っ青にさせて急ぎ警報音が鳴り響く制御室で温水を止めた。そしてタイガと協力して温室内の温度を保持することに徹した。
「一体何の騒ぎですか?」
「な、なな何でもないですよー?」
警報音を聞きつけた神官達に旭達は慌てて掘った穴を背にして隠したが、隠せる訳もなく早々に見つかってしまい、神殿の敷地内に無許可で穴を掘った事と、温室と厩で利用している温水暖房を壊した事で5人の神子達は光の神子から強い叱責を受けてしまったのであった。
そして後日雨の日にやって来たトキワはこないだは浮かれ過ぎたと謝り、いつもの様に厳しい特訓を始めたので旭は優しい兄も温泉も、ひと時の甘い夢だったなと、眦に涙を浮かべて特訓を受けるのだった。
登場人物メモ
タイガ
56歳 炎の神子次席 髪色 灰 目の色 赤 炎属性
生まれは普通の村人だったが、魔力が高かった為神子として神殿入りした。大柄で気の良い中年男性。
環 たまき
28歳 水の神子三席 髪色 灰 目の色 赤 水属性
水の神子代表ミナトの姪。薬の研究と並行して化粧品も開発している。




