103 知ってしまったのです
たまには登校するようにと、両親と兄からの達しが出たので、旭は久々に東の集落の学校に来ていた。
護衛には雫とマイトが付き添ってくれている。雫は旭のお世話係として採用された神官だが、兄が選考しただけあって手練れで、道中現れた魔物もマイトと力を合わせて瞬殺していたので、旭は彼女を本気で怒らせてはいけないと肝に銘じた。
教室では同級生達からの大歓迎を受けて、良い気分になった所で授業が始まった。
村の学校の授業は読み書きや計算などの一般常識と、大半の生徒が冒険者登録をするので、魔術や体術、ギルドの依頼の受け方や依頼先での振る舞いや、魔物について、野営の方法、危険予知など、生きていく上で必要な事を中心に学ぶ。
以前マリーローズがこの村の生徒達は進学する為の勉強をしていないだけで、学ぶ意欲は充分にあると褒めていた事を思い出し、旭は確かにそうかもしれないと感じながら、板書された魔物の魔核の場所をノートに写し取った。
昼休みは巴と響と机を並べて食べて弁当を広げた。一口大に焼かれた好物のハンバーグと、ワックスペーパーに包んで端にリボンが結ばれたサンドイッチに座学で疲れた体も癒される。
「旭ちゃんのお弁当可愛い!」
「美味しそう!誰が作ったの?」
「えへへ、お義姉ちゃんが作ってくれたの!」
口々に弁当を絶賛する巴と響に旭は踏ん反り返り、鼻息荒く自慢して、和気藹々とおかずを交換した。
***
そして午後の授業を終えた旭は学校を後にして、馬車に揺られて神殿を目指した。
「………」
馬車内は沈黙が漂い、旭と雫は会話を交わす事無く神殿に到着した。
風の神子の間では、トキワが机に向かって奨学金関係の書類を処理していた。
「帰ったか。早く証を回収しろ」
「…………」
旭は帰宅するなり近寄ってきた兄の手を払い、そのまま自室に駆け込みドアを閉めると、鍵が掛かる音がした。
「は?引きこもるのは勝手だけど、証回収しろよ⁉︎」
このままだと家に帰れないトキワはドアを乱暴に蹴って、旭に出てくるよう促した。
「あれー、どうしたんですか?」
螢との散歩から戻ってきた紫は状況が掴めず、それでいて面白い事が始まったと言いたげに尋ねる。
「バカ旭が証を回収しないまま部屋に引きこもってしまったんだよ!ああ、面倒臭い!ドア蹴破っていいかな?」
「お嬢さんがびっくりされるから、暴力はおやめ下さい」
頭を掻きむしりながら苛立ちを露わにするトキワに紫は益々面白そうに口を弧にした。それとは対照的に雫は気不味そうな表情で口を開いた。
「じつは、午後から自己防衛の授業だったのですが…避妊の魔術について学ばれたんです」
「へえ、学校でそんな事を学ぶのですか?」
神殿暮らしの紫は興味深げに、かつて学校に通って学んで来たであろう雫とトキワに尋ねると、静かに頷かれた。
「病気や望まない妊娠を防ぐ為だよ。日常生活は勿論、冒険者になったら貞操の危機なんてよくある事だから、生きていく為に習得必須なんだよ」
「なるほど、となるとやはり風の神子は真実を知ってしまった様ですね」
「確かあいつキスしたら、子供が出来ると思っているんだっけ?」
「流石にそれは違うと気付きましたが、小説の受け売りで、年頃の男女が一緒に寝て願えば、低確率で授かると思っています」
周りの大人達のせいで、同年代の少年少女に比べて純真無垢な妹にとって、真実を知った反動が大きかったようだ。そう思うと、トキワは少し不憫になる。
「…仕方ない。紫さん、あとで俺の家に事情を説明しに行って」
苛立ちを抑える為に、トキワは乳母車から降りて、掴まり立ちをしている娘を抱き上げて、気持ちを落ち着かせ、今すべき事を頭の中で整理した。
「かしこまりました」
紫に指示をした後に嘆息し、長期戦を覚悟したトキワは引きこもった妹の代わりに、夕方の精霊礼拝を行う事にした。
***
塞ぎ込んだ勢いのまま眠ってしまったが、旭は空腹で覚醒した。ルームランプをつけて時計を見ると、夜の8時を回っていた。
「どうしよう、お兄ちゃん絶対怒っている…」
自分が証を回収しなかったせいで、兄と姪は家に帰れずにいるはずだ。恐らく部屋から出たら、真っ先に責め立てられてしまうだろう。
しかし空腹には勝てない。証さえ回収すれば許してもらえる筈だと、旭は意を決して自室を出た。
誰もいない夜の風の神子の間は静寂に包まれていて、旭は身震いをした。とりあえず照明を片っ端からつけて、恐怖を和らげる。
ひとまず口に何か入れたいので、パンやお菓子が常備している棚を漁るが、ナッツの1粒さえ存在しなかった。もしかしたら、兄がやけ食いで食べ尽くしたのかもしれない。
仕方ないので、旭は食堂に向かう事にした。この時間帯は大人達が酒でも飲んでいるだろうから、何か恵んでもらう事にした。手櫛で髪を整えてから風の神子の間を出て、食堂へ急いだ。
食堂では兄とアラタ、そして環と比較的歳の近い神子達が酒を飲み交わしていた。
「ようやく出て来たか。さっさと証を受け取れ」
兄と顔を合わせたら真っ先に怒られると怯えていたので、あっさりとした対応に旭は肩透かしを食らいながら、兄の左胸に触れて契約の証を受け取った。
「るーちゃんは?」
「じいちゃんとばあちゃんが見てる」
突然のひ孫の滞在に、小躍りしていたと戯ける兄の姿に、旭の緊張は解れる。
「…怒ってないの?」
「怒る時間が惜しい。それとも怒って欲しいの?」
旭は首を大袈裟に振ると、トキワは行儀悪く席を立ったまま残りの食事を済ませて、旭に席を譲った。
「あれから何も食べてないんだろう?アラタにでも奢ってもらえ。じゃあ帰るから」
そう言ってトキワは一刻も早く家に帰りたいのか、何も追及する事なく食堂から出て行き、愛娘の所へと向かった。
「あーちゃん、何食べる?」
「うーん、スパゲティにしようかな?」
アラタに差し出されたメニューを目で追ってから、旭は厨房で明日の仕込みをしている料理長に注文した。
「お兄ちゃんと何話してたの?私の事?」
「それもあるけど、大半は奥さんの惚気話と子供の自慢話しながら、早く帰りたーいって…」
自分のせいで兄が家族の元に帰れなかったので、旭は申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。
「学校での話はトキワさんに聞いたわ。もし私達で良ければ、いつでも相談に乗るわ」
「環さん…」
こういう話は同性の方がしやすいかもしれない。彼女なら揶揄う事も無いだろう。しかしアラタが同席しているので、旭は躊躇ってしまった。
「とりあえず今はご飯を食べましょう。そのあと一緒に私の部屋に行きましょう」
そんな気持ちを察した環に旭は感謝して、腹の虫を収めるべく、料理長自慢のトマトスパゲティを堪能した。
***
「私の考えている事が間違っているのは、薄々気付いていたの」
環の自室にて、旭はソファに腰を沈めて胸の内を明かす。環も隣に座り、耳を傾ける。
「そもそも人間だって動物だから、生物の授業で習ったのと同じ生殖方法だよね。冷静に考えたらそうだよね」
将来サクヤとそれをするのかと思うと、恥ずかしくて身悶えそうになってしまうけれど、旭の心を澱ませた原因は別の所にあった。
「…避妊の魔術を習うにあたって、先生が言った『望まない妊娠』て言葉がずっと頭から離れないの。だってつまり…愛が無くても子供が作れるって事なんでしょう?」
胸に縋りつき、教えを乞う旭に環は目を伏せて、遠慮がちに頷いた。
「私はパパとママが愛し合って生まれた子供だって胸を張って言える。でもサクちゃんは…愛されて生まれたわけじゃないかもしれない…」
もし愛があって生まれたのならば、そもそも捨てないし、ましてやいくらお金に困っていても、神殿に売りつける事も無いはずだ。そしてサクヤへ金の無心などしないだろう。
「環さんも知ってるだろうけど、サクちゃんて凄く優しいでしょ?あんなに素敵な人が、私の大好きな人が愛も無く、望まれず生まれてきた可能性があるなんてあんまりだよ!そう思うと私、悔しくて…」
ポロポロと涙を流す旭に環はハンカチを差し出してから、落ち着くまで背中を優しく撫でてあげた。
「私個人の意見だけど、生まれた時に愛されて生まれたかどうかなんて、気にする必要ないと思うの。少なくとも私は気にしていないわ」
まさか泣く程の悩みを一刀両断されると思わず、旭は面食らうも、言葉の続きを待つ。
「だって、生まれた時の記憶がある人間なんて殆どいないし、ましてや自分が作られる前なんて存在さえしてないし、親の気持ちだって分かるわけがないもの」
「言われてみれば…確かに…」
「でしょう?だから両親が愛し合って生まれてきたかどうかにこだわるよりも、今隣にいる人と愛を育む方が素敵だと思わない?」
過去よりも今と未来が大事だ。環の持論に旭は同意して、大きく頷いて目を輝かせた。
「私がサクちゃんのパパとママの分までサクちゃんを愛し続ければいいんだ!そうだよね、簡単な事だったんだ!」
「そうよ、それが一番よ」
すっかり元気を取り戻した旭に環もホッとして、彼女を後押しする。
「となれば、結婚するまでに正しい子作りを勉強しなきゃね!恥ずかしがってちゃいられない!環さん教えて!」
「それはちょっと…私は未婚で知識しかないから…経験者に教えてもらった方がいいわ」
まさかこんなに乗り気になると思わず、環は及び腰になってしまった。そんな様子にも気づかない旭は誰に聞くのが妥当か、しばし考え込む。
「じゃあ梢さんに聞く!まだ起きてるかな?」
「この時間に訪ねるのは失礼よ。双子ちゃん達もおねむでしょうし。とりあえず今夜は…そうだ、これを読んでみて」
ひとまず旭を落ち着かせる為に、環は本棚から生物学の教本と、少し大人向けの恋愛小説を片っ端から取り出して旭に押し付けた。
「貸してあげる。予備知識として少しは参考になるはずよ」
「わあ、ありがとう!早速読んでみるね!」
なんとかこれで勘弁してもらえて、環は安堵して自室に戻る旭を手を振り見送った。
その夜、旭は未知なる世界に身悶えつつも、夢中になり、翌日は大寝坊をして朝の精霊礼拝を昼に行うという大失態を犯すのだった。