10 キスがしたいんです
毎晩寝る前は決まって読書をするのが旭の楽しみだった。
今夜は先日義姉に貰った伯爵令嬢が同じ学校に通う婚約者の第三王子に舞踏会で婚約破棄をされてしまう話を読んだ。理由は彼が子爵令嬢と真実の愛に目覚めてしまったかららしい。だからといって公衆の面前で婚約破棄を言い渡すなんて中々性格が悪いと旭は顔を顰めた。
ヒロインの伯爵令嬢はその後心配してくれた王太子に求愛されて紆余曲折の末結ばれて王太子妃になった。ちなみに第三王子は子爵令嬢に唆されて王室の財宝を横流しした事がバレて王位継承を剥奪された上に子爵令嬢共々未開の北の大地に追放されてしまった。
「…ざまぁ」
最初から印象が悪かった第三王子と子爵令嬢の結末を嘲笑ってから、旭は伯爵令嬢と王太子の想いが通じ合った末のキスシーンを読み返して目を蕩けさせて自分の唇に指で触れた。
「私もサクちゃんとキスしたいな…」
梢の結婚式以降、旭はキスに対する憧れが強くなっていた。普段は自分からサクヤに頬や額にキスする事はあったが、サクヤからキスされる事は無かった。
最近はいっそ唇を奪ってしまおうかと思う事もあったが、初めての口付けはサクヤからして欲しい願望があった。しかしそうなるとキスをするのは結婚式までお預けとなりそうな気がした。
何かいい誘い文句は無いものかと小説のページを捲っていると、本のそでの部分に栞がささっている事に気がついた。旭は栞を手に取り眺めると、押し花らしき物体がポロポロと落ちて来た。ずいぶん昔に作られた物のようだ。
掛け布団の上に落ちてしまったので手で払いながら栞の裏も見てみると、そこには色褪せたインクでお世辞にも綺麗とは言えない字で「愛してる」と書かれていて、旭は全身の血が沸騰したかと思うくらい身体が熱くなった。
「何これ…もしかしてラブレター⁉︎お義姉ちゃんに⁉︎」
興奮で足をバタバタさせながら旭は再度栞の文字を確認した。字の拙さからして子供が書いたものだと思われる。どうやら義姉が少女時代に貰った物のようだ。
「まさかこれ、お兄ちゃんが…いや絶対無いな」
兄夫婦がいつ出会ったのか知らないが、兄がこんなロマンチックな事をするわけがない。そう判断した旭はならば一体誰から貰ったのか、今度義姉に会ったら問い詰めてみようと決めて、ベッドから出ると、栞を紛失しないように義姉に渡すとメモ書きをした封筒に入れて引き出しに保管した。
「私もサクちゃんに愛してるって言われたい…そんでキスしたい…むふふ」
もうそろそろ寝ないと朝の礼拝に遅刻すると判断した旭は本を片付けてベッドに潜り込み、ドキドキと鳴り響く心臓の音を聞きながら恋愛への憧れを胸に眠りについた。
***
翌日、旭は朝寝坊をしてしまい礼拝が遅くなってしまった。風の精霊達からは夜更かしを咎めるというより揶揄われてしまった。
「ねえ、紫さんはキスした事ある?」
遅めの朝食にベーコンを齧ってから旭は好奇心を側近にぶつけた。紫はまた本にでも影響されたのかと予想をつけながら額に手を当てた。
「風の神子はあるんですか?」
無難に質問を質問で返せば、旭は語りたかったのかフンと鼻息を荒くした。
「知ってると思うけどサクちゃんとはほっぺとおでこでしかした事ないの!」
「まあ微笑ましい」
「茶化さないで!私もサクちゃんも許嫁だしそろそろ唇と唇でキスしてもいいと思わない?私はそう思うの!」
「はあ…」
「紫さんは人生経験豊富なんだから、いいアドバイスしてよ!」
「いや、私は人ではなく精霊ですから人生経験はちょっと…」
紫は普段神官として風の神子に仕えているが、本来の姿は風の精霊で、古から風の神子と契約を交わして来ている。彼女の正体については一部の人間しか知らない。
基本神子と契約を交わした精霊達は水鏡族の村の何処かで様々な姿で暮らしているのだが、紫は好んで人の姿をして風の神子に仕えていた。
「でも色んな人達を見てきたんでしょ?だったらなんかいい感じの話とかあるんじゃないの?」
「そう言われてもな…基本私は代々風の神子の人生を支える事に徹して来たから、風の神子の恋愛事情しか知りませんよ?」
「興味ある!聞かせて!」
旭の無茶振りに紫は溜め息を吐くが、大人しくさせる為にも歴代の風の神子達の痛々しい過去を暴露する事にした。
「今から十代程くらい前の風の神子の話なんですけど…」
「うんうん!」
「彼はかなりの女好きでした。既に奥さんがいるにも関わらず7人もの愛人を囲っていました」
「何それ!最低!」
純真な旭は嫌悪感を示して眉を顰めて頬を膨らませた。
「しかも奥さんと愛人達を神官にして神殿内に住まわせてイチャイチャ三昧でした」
「そんな事って許されるの?私は許せない!」
両親が仲睦まじく一途なので旭は昔の風の神子が許せなかった。
「ところがあの時代は深刻な神子不足だったので、風の神子が妻と愛人にバンバン子供を産ませて後継者不足を解消させたので、神殿にとっては救世主扱いでした。銀髪持ちで魔力が高かったから、生まれてきた子供達も神子の素質は十分でした」
もしかしたらあの時の風の神子は神子不足解消の為わざと好色家を装っていたのかもしれないと思いつつも、相当お楽しみだったよなと当時子守でてんてこ舞いだった事を思い出した紫はその説は捨てる事にした。
「こんなんじゃなくて、もっといい話は無いの?」
「いい話ですか…ご存知かと思いますが、風の神子を務めるような人間にロクな輩はいらっしゃいませんからその様なことを求められても困ります」
「…それってさり気なく私も入れてるよね?」
「ええ勿論。色気付いて朝寝坊するような神子ですからね」
にっこりと即答してから皮肉を言う紫こそロクでもないと思いつつ、旭は目玉焼きの黄身を潰してパンにつけて食べた。
「風の神子よ、体調でも悪いのか?」
ランニングの時間になっても訓練場に現れないので、上下黒の運動着に手足と首とじゃらじゃらとアクセサリーを付けたサクヤが風の神子の間に様子を見にきた。
「ごめんサクちゃん、寝坊しちゃった」
「そうであったか」
まだ食事をしている旭を待つ為にサクヤはソファに腰を下ろして脚を組んだ。旭はそんな許嫁の形の良い唇に視線を移した。
「どうした?」
視線に気付いたサクヤが問いかけてきたので、旭は思い切って自分の気持ちを伝える事にした。
「うん…あのねサクちゃん…私達許嫁同士だし、そろそろ大人のキスをしてもいいと思わない?」
とびきりの甘い声でおねだりをする許嫁に対して、サクヤは思考が停止して一瞬、固ってしまった。
「…大人のキスというのは唇と唇で接吻を交わすという事だよな?」
確認をしてくるサクヤに旭は何度も頷いて期待に目を輝かせた。
「ならば風の神子よ、我々にはまだ早過ぎる」
「ええ!何で⁉︎私達許嫁同士なんだから遅いくらいだよ!」
首を振るサクヤに落胆の声を上げる旭に紫は思わず吹き出した。
「遅くはない、何故ならば年頃の男女が唇同士で接吻を交わすと、子供を授かってしまうからだ!」
「な、何ですってー!」
サクヤの力説に旭は頭を石で殴られたような衝撃を受けた。まさかサクヤがそんな子供騙しを信じていると思わなかったのだ。
「それウソだよ?キスじゃ赤ちゃん出来ないよ?」
「否、確かな筋からの情報だ。間違いない」
決して冗談で言っているわけではなく、サクヤは至極真面目な表情だった。
「誰からの情報なの?」
「そなたの父からの情報だ。経験者の言葉なら確実だろう?」
情報源に紫はもう一度吹き出して笑いを堪えた。恐らく可愛い娘に手を出させない様に娘の許嫁に嘘を教えたのだろう。純粋なサクヤはそれを信じて守っているようだ。
「えー、パパが言うならそうなのかな?私が知ってる赤ちゃんの作り方と違うんだけど…」
「ほう、参考までに聞かせてもらえるか?」
朝からこいつらは一体何を話し合ってるんだと思いながらも、紫は笑いを堪えつつ、少年少女を見守る事にした。
「私の読んだ恋愛小説によると、年頃の男女が夜に同じベッドの中で手を繋いで『赤ちゃんが出来ますように』ってお願いしたら3000分の1の確率で授かるんだって!確率が低いから毎晩お願いする事でようやく授かるらしいの。だから私達は奇跡で出来ているのよ!」
「もうやめて…」
素っ頓狂な旭の知識に紫の腹筋は笑いで痙攣し始めた。そしてもしや彼らは性教育を受けてないのではと疑問を持ち、これは急ぎ関係者を集めて今後の方針を決めなくてはならないと危機感を覚えた。
「なるほどな、もしかしたら子を授かるのには様々な方法があるのかもしれないな」
「つまりは結婚まで大人のキスはお預けか…」
心底残念そうに呟く旭にサクヤはソファから立ち上がり隣に座ると、旭の手を取った。
「お互い急いで大人になる必要は無い。今後も共に一日一日を歩んで行こうぞ」
「サクちゃん…好き…」
大人の世界に憧れすぎてサクヤと共に生きていくという一番大事な事を忘れてしまうところだったと旭は反省すると。青白いサクヤの手から伝わる体温に愛おしさを感じて目を細めた。
登場人物メモ
紫 ゆかり
見た目45歳位 風の精霊 髪色 灰 目の色 赤(人間時)
旭の側近の1人。その正体は風の精霊で代々風の神子と契約を交わして好んで神官を務めている。