没人間、脱皮、やり方はひとそれぞれ
リズンは自身の容貌を嫌う。輪郭の頬を触りながら、質感を確かめる。確か、唇を探すと鼻に人差し指がついて、この窪みを触る人、彼以外にいない、そう思いながら……歩くと割れたガラスがあって、光粒がいくつも地面に転がって、その先見慣れぬ家でありながら、家ではない廃墟であった、黒いカーテンで見えないようになってある、建物。光粒、吸われるように割れた窓に明らかに向かっている。リズン、光粒を見た途端、ガラスの破片だと、どこで刷り込まれたか、知らず知っていた。安心を求めるである。確認する作業である。
うねる煙のように、葉のなし庭木が並び立つ。その奥にちらりと見える黒い逆向きに張られたカーテンに興奮する、部屋の中が見えないように。しかし、見えないと気になる。好奇心なのだから、許せ、と。道徳を抜けて黒いカーテンをめくりた。
部屋らしきもの、そこにあり。リズンの眼に映る。半壊してる部屋の地面は穴だらけ、鼠が通る、蠅舞う、異臭がする。腐りチーズの汚部屋、溶けてしまう方がよい気にさせる。
奥に入れば異臭の正体を理解した。汚れた老人死んでいる。
<< ああ、きっと衰弱したんだろう、可哀そうに >>思ってみるが、しっくりこず、何か違う、と。思うだけであった。リズンは飽き始めていた、彼の集中は長くはない。面倒ごとに巻き込まれるのを避けて逃げようとした、時、目下に糞があった、死ね、糞爺。随分としっくりきた。
ああ、あんまりにも汚物であったから、人っぽく見えないから、同情をできないのかもしれん……ああ、しかし、そう思えば死人に同情するのは、死体は喋らん人は顔くらいしか……最後まで顔ですか……なんだよ、形は違うが、皆美しさを求めるだけじゃないか、自然だの、美人だの、芸術ですら、現代は醜さの皮かぶり美しさ至上市場主義しかいない、文章を読むもの少ない、美術を見るもの知らない、音楽を尊敬するもの少ない、数字しか読めないくせに表現者気取る、殺す、と思うだけ、行動が大事。時間の問題。
それはリズンの体内で破裂する言葉だった。自称をして自傷するのは身を守るためでしかない。死ね、自分自身を、衰弱して腐る枯れ木の爺のように、と。リズンはそう思った。
リズンは帰り際、床にあるノートがあるのを見つけた。それを手にとり読んだ。ノートの表紙に日記帳と書いてあったのだ。人の日記ほど興味をそそられるものはない。パラパラとめくりはじめた。
しかし、つまらなかった。日付もばらばらな人の一生は、こんなものか、と思わせる書き物であった。その中の一文を音読してみた、声に出してわかることもあるからだ。
「飼い犬嫌い、我は飼い犬が嫌い。臭い、汚い、五月蠅い、容貌だって気持ち悪いだろう。特に鼻のあたり。あのような獣を好んで飼うような人は、劣っている存在だと思わざる得ない。確かに彼らは従順だから慰めにもなるだろう。餌を与えるだけで、阿呆のように吠えしっぽを振るのだから。散歩や掃除して、飼い犬に愛情とやらを押し付けるだろう。おお、エゴだ。飼い犬が飼い主よりも劣った存在でなければ誰も好んで飼わんくせしてな。殆どの飼い主、飼い犬の死よりも、飼い犬よりも自身が下の生活なることを恐れているのになぁ。おお、負け犬。首輪に閉まり、リールに引かれるのは、醜い彼らの方が似合うのに、飼い犬の方がまだ純真、神に愛される。ああ、弱者の犬。では、どうすればよいのだ……
おお、飼い犬よ、我は手出しできぬが、その肥えさせられた体に、まだ牙は残っているだろうか、ドッグフードを与えられながら、死の危険をかえりみず、まだ血を求めるものはいるのだろうか……これは比喩ではない、飼い犬、名前のままである。読み返せば我が憎むのは主の方であった、我も強者にどうにか噛み、顔に傷をつけようとする弱者の犬である。ああ、ニーチェの軽蔑の眼がよく見える。だからどうした破り捨てればいいのだ、忘却は私の唯一の才だ。少なくとも私の内で消せばよい……せめて糞して死んでやろう」
日記本を投げ捨てた。厄介な爺、ボケ老人、死んで正解。リズンはそう思う。しかし、こうも思う。リズンが望んでいるものは、降りかかる悪徳であるということ。即ち、憧れの息のすることのできる世界を作り出す、詩人や芸術家たちのすべてに降りかかった……悲劇を待ち望んでいるのだ。没人間では終われないのだ。それは後世に息のする、唯一、未来に蓄えられる資源であるのだから。消費を繰り返した現代人の、力なきリズンの残せるもの、もうそれしかない、と思う。勿論、リズンという名称がつかなければ、納得しない代物であるが、品質の出来はともかくーー
ひとまずリズンは部屋の外にでた。これは比喩である。肉体は外にあるが、精神は今だ十七に囚われて、部屋の中から抜け出せない男。今はまだ若苗である、実よりも花を咲かせたいと思う、それは実に生まれついてないから、と楽に解釈する。水や肥料や手入れは育つ見込みのない者にはこない、ならば奪うしかない。日光、確かに見上げれば平等であるが立地は何処であるか、リズンは老人の死体から羅生門した。同時に芥川……言葉は逃げていった、油かけて燃やした部屋に、逃げ遅れたお爺、ああ、自分大好き。多分、後十年くらい、必死に生きようかナ。リズンは前向きな過去を振り返らない人間であった。