白銀の翼9
「出来た……」
「はっ、なかなかいいじゃねぇか。こっちに来てみてみろよ、坊」
胴部の外板、最後の一枚を固定し終えた。
甲板から飛び降りて、距離を取る。全体像を視界の中に収められるように。
ジジイの隣まで歩き。大きく息を吸って振り返った。
美しい流線形の胴体に、鋭く伸びる二枚の翼。
左右に二機ずつ、計四基のエンジンは役割に応じた形状で自己を主張している。
片側はプロペラエンジン、もう片側はジェットエンジン。
前者は不純物の多い大気を飛ぶために、後者は短い滑走路で必要な揚力を得るために。
水平に二枚、垂直に一枚の尾翼が、小さいながらも確たるシルエットで機体を飾る。
カーボンナノフラーレンの持つ銀色の輝きが、格納庫内の明かりに照らされて輝く。
「最高だ……最高だよ。だけど」
「これで終わりじゃない、だろ」
「はっ、行こう。世界を貫きに」
「燃料は満タンだ。いつでも飛べる」
完成度の高さで自己満足に浸っている時間はない。
目的は期待を作り上げることじゃないのだから。
飛行機はあくまで手段。本当の目的は、その先にある。
「ジジイ!」
機体にかけた梯子を掴んだ。
夢への最後の一歩を、確かに踏み下ろした。気分はすでに空の上に。
汚れ切った世界の天井を切り裂いて、どこまでもはるか遠くに身体を置いて飛び立っていた。
「動くな!!」
高揚していた魂が大地に引き下ろされた瞬間、その痛みは全身を引き裂かれるように感じた。
声の出どころは、百十七番と百十八番の格納庫を繋ぐ隔壁。
その隙間が空いていることに気付いたのと同時に、
扉を開ける機械音を踏み消すほどの足音が雪崩れ込んできた。
こちらに向けられている銃口は、二十前後だろうか。
通常であれば鎮圧用のゴム弾が込められているはずだが、
その希望的観測に縋るのはあまりにも愚かだろう。
胸に輝く銀十字のワッペンは治安維持課の証。
その隊列の中心にいたのは、よく知っている女性。
「レモン監督官」
「やはりお前たちだったか。手間をかけさせやがって」
「お嬢ちゃん、こんなところに何の用だ」
「この状況でもアタシを馬鹿にするか。糞爺」
この状況でも容赦なく挑発するジジイに舌を巻きながら、隙を窺っていた。
飛行機は運転席に飛び込めさえすれば動かせる。
俺とジジイが昇るのにおよそ十秒。エンジン起動から滑走路の確保に六十秒。
離陸までが二十秒。たったの九十秒が、ひどく遠い。
「タイタン新法、第七項目違反により逮捕する」
「ジジイっ……!」
梯子を二段飛ばしで登ろうとした直後に、目の前で光が散った。
衝撃で地面にたたきつけられたことに気付いたのは、どれ位たってからだろうか。
右腕とわき腹に鈍痛が響く。眩暈と吐き気が同時に襲ってきた。
「坊!? 坊! しっかりしろ!」
うっすらと明けた視線の先に、ぼんやりとしたジジイの顔。
身体が痺れてろくに動かせない。
「馬鹿が、動くなといっただろうが」
身体が引きずり起されるのを感じながら、ゆっくりと意識を手放した。
◆
「痛ぅ……」
痛みに揺り起こされて目を開けると、ここ最近よく見た真っ白い天井が視界に入ってきた。
収まらない吐き気に呻きながら、辺りを見回す。
静かな病室内は普段と変わらないが、扉の外に人の気配がある。
頭痛に苛まれながらも記憶の糸を手繰り寄せていく。
飛行機が完成した直後、格納庫に入ってきた治安維持課に取り押さえられた。
ジジイの姿は見えないが、最後の光景を思い出す限りは怪我はしていないはずだ。
だが、連絡を取れないのはマズい。飛行機の状態も気になる。
身体は酷く痛むが、起き上がれないほどではない。
重たい体を引きずってベッドの淵に座る。一息で立ち上がって、病室の扉に手をかけた。
「なん……」
力をかけても、扉は全く動かない。
内側には鍵が無く、外から閉められていることは一目瞭然。
ここは病室でもあり、檻でもあるのだと理解した。
「くそ……っ」
ベッドまで戻って強張っていた全身の力を抜く。
横になってゆっくりと息を吸えば、痛みが多少楽になった。
強い閉塞感がある部屋の中で、頭を押さえながら思考を回転させる。
病室の出入り口は一つだけ。扉を破れるような道具はないし、体力もない。
思考を巡らせている最中に、腰の辺りで何かが細かく揺れる。
そこでポケットの中に端末があることに気付いた。
取り出して画面を見ると、文字化けしたメッセージが一通。
「なんだこれは……」
普段なら気にも留めずに捨てていたもの。
どん詰まりで打つ手なしだったこともあり、何も考えずに開いていた。
読めない文字で埋め尽くされた文章。
統一性も無く、暗号のようなものにも見えない。
端末を閉じようとした直前に、もう一通メッセージが届いた。
「……ったく、面倒かけちまったな」
送り主は異なる二つ目のメッセージには、見たことのあるタイトルロゴが添付されているだけ。
だが、それで十分だった。
このゲームが俺の知識内にあると知っているのはたった二人。
その中でもアドレスを偽装して送ることができるのは一人しかいない。
となれば最初のメッセージには必ず意味がある。
フィロードは、俺に必要な情報を俺にしか伝わらない方法で送ってきているということ。
取り合えず一枚目を開き、ホログラムウィンドゥで表示する。
平面で表示されているメッセージを睨む。
フィロードと俺の共通点なんてそう多くはない。
出会ってまだ数ヶ月しか経っていないのだから。
「ゆるオト……じゃあねぇだろうな」
名前を知っているだけで詳しくはない。有難いことにネット環境はつながったままだ。
目的のゲームをダウンロードし、起動する。
キンキン声の少女がタイトルを読み上げ、チュートリアルが始まった。
誰も聞いていないはずだが、少し気恥しくなったので音量は出来るだけ小さくしておく。
五×五に分割された直方体の表面を回転させたり、入れ替えたりして揃えればクリア。
単純だが、奥深いゲームだ。
フィロードが俺にメッセージを仕込むとすれば、この手法以外に考えられない。
つまり、メッセージは三次元で見ろということ。
データをよくよく見れば、ホログラムメッセージは六枚分重ねられている。
全てを分離して直方体を組む。前面の文字から奥側の文字を差し引くと、三枚の文章が現れた。
一枚目は、現状報告。
ジジイは逮捕されて拘留中。飛行機は解体を免れてはいるものの接収直前。
俺が今いるのは、タイタン工業エリア第二区画の病院だということ。
二枚目は、地図。
俺とジジイの現在予測位置を示している。
それを見る限りでは、さほど距離は遠くない。
三枚目は、計画指示書。
細かく書き込まれているそれを読んで、我が目を疑った。
依頼はすでに果たされている。俺が彼に頼んだのは飛行機の仮想飛行テストを行うことだけ。
報酬分の役割は十二分に果たしてくれていた。
つまり今回の件に関して、肩入れをするメリットはゼロだ。
知らぬ存ぜぬで乗り切れば、何事もなかったかのように元の生活に戻れたはずなのに。
このメッセージの内容がもし万が一漏洩した時には、
自身の身に危険が及ぶことを理解できないわけがない。
「……ありがとう」
誰にも聞こえないような小さな声で、自然と感謝の言葉が零れた。
この難局を打破するため必要なのは、行動に起こす覚悟。
一方通行の扉が、外から内に開かれた。
「よぉ、生きてるか」
入ってきたのは、今一番会いたくない相手。
夢の前に立ちふさがった最大の敵であり、越えなければならない障害。
痛みを無理やり抑え込んで、目の前に腕を組んで立つ統括官を睨みつける。
「おかげさまで、レイノ・グリングラス」
「はっ、ただの間抜けじゃないらしいな」
驚きの表情が垣間見えたが、すぐに邪悪な笑みに戻った。
敵意をむき出しにした鋭い目線と、真正面から向き合う。
「運がよかったな。連れて行った治安維持課の十八人のうち十人は実弾を装填させてた。
その程度のけがで済んだってことは、ゴム弾だったんだろ」
「性格が悪いのは見た目通りだな」
「褒めたって、この部屋からは出してやれねぇがな。
てめぇのジジイは一足先に統括区に護送される。怪我が治ったらてめぇも同じだ。
一生穴倉の中で暮らしな」
フィロードからの情報の通りだ。正確すぎて恐ろしくなる。
どうやって手に入れたのかは簡単に予想がつく。
タイタン中を探しても、おそらく彼にしかできない裏技だ。
「もともと穴倉暮らしみたいなもんだろうが、こんな息苦しい世界なんてよ」
「馬鹿かお前。タイタンの中じゃねぇと人間は生きられねぇ。
医者に聞いたが、黒灰吸いすぎててめぇの身体がボロボロなんだってな。
そんなに外に出て死ぬのがお望みなら、今すぐ放り出してやろうか」
「外が怖いのか、だからこんな糞狭い空間の中で縮こまってるんだろう。
外に人がいたことを知られたくないのはなんでだ。世間の目が外に向くことを恐れているのか」
「てめぇ、それ以上生意気を口にするんなら二度と立てなくしてやるぞ」
胸元を掴まれて、食いちぎられそうなほど怒りをあらわにした表情を浮かべているレイノ監督官。
残忍な仮面を被った女の本性に確かに届いたと、そう感じた。
キーワードは何だったか、数秒前の自分の発言を振り返る。
今は目の前にいる女を出来るだけ苛立たせることが、今後の計画に必須だ。
腕の二、三本は必要経費と諦めるしかない。
「今はまだ、黒灰降りしきる死んだ土地だろうさ。だけど、いつかは再び人間が住めるようになるはずだ。
それまでの長い間、必ず外に出ようとする人間が出てくる。俺の次も、そのまた次も、必ずだ
お前たちの思惑通りに動くと思うなよ」
「てっ……めぇっ!!」
身体が浮いた。瞬間の無重力と、全身に響く鈍痛。
呼吸がとまり、酸素を求めて身体が足掻く。
「かぁっ……ぁっ……」
「いいか、人間は外に出られない。出させはしない。それがアタシたちに課せられたルールだ」
「はぁっ……っ……!」
息が途切れて言葉が出てこない。
腕を伸ばすだけの抵抗は、虚しく空を切った。
「怪我が治るまで待ってやろうと思ったがやめだ。
てめぇは明日、工業エリアにある犯罪者隔離施設にぶち込んでやる」
統括官は床が割れるほどの勢いで部屋を出て行った。
叩きつけられた扉のノブが大きくねじ曲がっている。
「気が向いたら入って……やるよ……」
何とか絞り出した言葉を、誰もいない部屋の中に投げ捨てた。
身体は、死んだほうが楽じゃないのかと思うほどに痛む。
腕は上がらず、息をするたびに脇腹をアイスピックで突き刺されているようだ。
彼女が怒りに任せて扉を閉めれば、構造が歪むほどの負荷がかかるのは分かっていた。
感情的で衝動的な人間であることは出会った時から分かっていたこと。
さして気にしていなかったところを見れば、どうせ扉の向こうにも見張りがいるのだろう。
今出るわけにはいかないが、逃走する足掛かりは得た。
端末を没収されなかったのはついていた。それだけ甘く見られているということだろう。
計画が失敗に終わった今、無抵抗のままおとなしく連行されるはずだと。
この程度の事で諦めきれるほど、割り切りはよくない。
通信設定をオンにすると、案の定タイタンネットワークと接続された。
計画書に載せられていた起動コードを入力し、ホログラムウィンドウを手元に広げる。
機械の頭部に埋め込まれたカメラの映像が手元のウィンドウとリンクした。
指をスライドさせると、視点が左右に動く。
ゲーム機のボタンに見える十字キーを押すと、指の動きに合わせて前後に揺れた。
何はともあれ、この病室から脱出するのが最優先事項。
フィロードがそのために送ってくれたのは、移動車の遠隔コントロールコード。
簡潔に言うならば、病室の壁ないしは扉を物理的に破壊しろとのことだった。
「全く……大胆な作戦だな」
移動車を俯瞰視点から運転するのは違和感がある。
普段は行き先を設定するだけの簡単な乗り物だが、動かしてみると案外難しい。
何度か壁に本体をぶつけてしまったが、少し走らせていると慣れてきた。
右上に表示されたマップから現在地を見極めつつ、最短ルートを行く。
俺の現在地はネットワークを介してすでに特定している。
商業区の一角を占める巨大病院の別棟。
問題を抱えた入院患者のみを集めている施設の一階一番奥。
正面玄関から廊下を全速力で走行させて扉をぶち抜いてもいいが、人的被害が出る恐れもある。
無関係の他人を傷つけることは望んでいない。
ならば取るべきはもう一つの方法。
別棟の裏側からなら壁は一枚。移動車ほどの質量があれば人ひとり通れるくらいの穴は開くだろう。
速度や角度を誤った時にこちらもお陀仏してしまうが、その程度のリスクなら背負ってなんぼ。
商業区を通り抜けて、まっすぐ突き進む。
目的の建物までおよそ一キロ。道行く人々の視線を一身に浴びて、移動車は暴走している。
工業エリアに治安維持課が集まっていたのは、つい昨日の出来事だ。
彼らが来るまで大して時間はかからないだろう。
扉を壊した後、俺が向かわなければならないのは整備課の準備倉庫。
フィロードから来た連絡によれば、既にヒュペリオンが一機待機しているはずだ。
移動手段は徒歩か、ほかの移動車を捕まえるかどちらかだ。
病室に移動車が突っ込めば派手に目を引く。その隙にうまいこと脱出しなければならない。
「よし……」
移動車は何事もなく病院の裏手にたどり着いた。ベッドから身体を起こして、蹴り倒す。
派手な音がしたが、この程度では外の見張りは動かないのだろう。
シーツを掛けて、ベッドと壁の隙間に身体を隠す。
手元の端末で、移動車のアクセルを全開にした。
車体が持ち上がりそうなほどの急加速で、建物との距離が一気に縮まる。
建物外壁に対して斜めになるように角度を調整して、突っ込んだ。
派手な音と衝撃。
端末を弄っていたせいで耳をふさげずに、破壊の余波は脳を直撃した。
ぐわんぐわんと揺れる視界の中で吐き気をこらえていると、
怒号と一緒に聞こえてきたのは扉がこじ開けられる音。
それ続いて、駆け込んできた足音が二人分。
「おい、何が起きた」
「奴はどこに行った」
「くそっ、壁が。なんでこんなところに……」
「外に逃げたのか。病院の裏手に応援を呼べ! なんとしてでも見つけ出せ」
男の言い争う声と、瓦礫の粉塵のなかを動き回る黒い影。
ベッドと壁の間で息を殺して待つ。
端末で連絡を取って応援を呼んだらしい男たちは、
崩れ落ちた壁の隙間から病院の外へと駆け出して行った。
念入りに三分ほど待って、シーツの陰から顔を出して部屋の惨状を知る。
タイタン内部ではまず起こりえないとされていた交通事故。
その現場は想像以上に悲惨なものだった。
「さて、あまり時間的余裕はないか」
俺が逃走したという情報は、おそらく治安維持課の人間すべてに連絡が行き届いているはずだ。
レイノ統括官も例外ではないだろう。
いつまでも事故現場で油を売っている時間はない。
開けっ放しにされていた正面扉から外に出て、騒がしくなっている病院廊下を歩く。
誰もが轟音の出どころを探して、野次馬根性でうろついている
今はその人混みが有難い。脇腹の痛みを無視して、人ごみの合間をすり抜けて表の玄関に向かう。
角の柱に身を隠しながら外来受付を窺うが、治安維持課の人間の姿はない。
エントランスホールの中を、出来るだけ自然に歩く。
皆が浮足立っているせいか、誰もこちらに注意を払わない。
声を掛けられることなく、商業区に面する道路に出てくることができた。
商業区にいた人々も、病院内で起こった出来事に興味があるのだろう。
普段にもまして、ざわざわと騒がしい。
人だかりを隠れ蓑にして、空いていた移動車に乗り込んだ。
行き先を設定して、ようやく一息をついた。
およそ十数分の間ではあるが、心を休めることができる。
少人数用の移動車は、目的地にたどり着くまでは基本的に止まらない。
誰にも邪魔される心配のない空間で、端末に保存されていたメッセージを開く。
想像よりもだいぶ派手なものとはなったが、計画の第一段階は終了。
フィロードがここまで無茶をする人間だとは正直思ってもみなかったが、
無事に病院から脱出できたのだから細かいことは言うまい。
人々の流れが少なくなり、商業区をいつの間にか抜けていたことに気付いた。
順調すぎて怖くなるくらいだ。
移動車の揺れがとまって、自動でスライドドアが開く。
整備課第三班の準備倉庫。目立つ位置に一機、ぽつんと立ち尽くしていた。
真っ赤な機体は、両肩の部分から中心部に向けて白い線が三本。
機動力を重視した二足歩行方式で、敏捷性を上げるため踵部にはローラーが埋め込まれている。
最も特徴的なのは、上半身から生える六つの腕。
「ったく、憎い演出じゃねぇか」
六腕のヒュペリオン、アラクネ。整備課一の機体だ。
操縦席に乗り込んで、置いてあったメモに書かれた認証キーを打ち込んで起動する。
静かな駆動音とともに、各制御パネルに光が灯った。
起動時に行われるシステムチェックが走る。
全システムに問題がないことを確認し終わって、正面パネルに外部映像が映し出された。
ジジイの居場所を打ち込むと、現在地と目的地までのルートが表示される。
「今行くぞ……」
左右の手でそれぞれの操縦桿を強く握り込んで、アクセルをべた踏みする。
フルスロットルで誰もいない倉庫を駆け抜けた。
ヒュペリオンがギリギリ走れる狭い通路を抜けて、ジジイが拘留されている区画を目指す。
統括区に移送されてしまえば、手も足も出せない。
「無事でいろよ、ジジイ」
あの横暴な統括官の事だ。
立って歩けない程に痛めつけられている可能性だってある。
うまく助け出せたところで、数時間と経たたずにタイタンを脱出しなければならない。
俺自身もそれなりの重傷ではあるのだが、治療している時間は無い。
火花を散らせながらコーナリングを行い、目的地へと急ぐ。
アラクネには初めて乗ったが、その操作は思っていたよりも簡単だった。
足回りは通常のヒュペリオンと大差なく、機体のバランスが少し上部に偏っているくらいだ。
流石にジジイと同じように六本の腕を自在に動かすのは難しそうだが、
そこまで細かい動きを要求されることは無いだろう。
拘留所を襲って、ジジイ一人連れだしてしまえばいいだけなのだから。
ナビに従って製造区画を突っ切る。何が起きたのかと働いている人間がこちらを見ているが、気にしている暇はない。
輸送用のトラックやフォークリフト、足元を歩いている人間にだけ気を付けて走った。
途中何度か腕が構造材や製造機械に当たってしまったが、いちいち気にしている時間は無い。
二つほど区画を走り抜けて、ようやく広い場所に出た。
拘留所まで直線距離で百メートルを切ったところで、前進するヒュペリオンに向けて一斉にライトが点灯された。派手に動き過ぎたのだろう。既に連絡がいっていたとしてもおかしくは無い。
照度補正を入れると、拘留所までの間に一人の人間が立っているのが見えた。
「止まれ! それ以上の暴挙は許さん!」
拡声器によって届いた声は女性のもの。人影に合わせて倍率を変えると、想像通りの人物がそこにはいた。
全速力で走るヒュペリオンの進行を妨げるように拘留所の前に仁王立ちしているのは、レイノ統括官。
その存在を無視して、背後にある三階建てのコンクリート建造物をスキャンをした。
二階中央の部屋にジジイのバイタルを確認。
脅しをかけるように、アクセルペダルを踏みこんだ。
いくら統括官とはいえ、生身の肉体がヒュペリオンの質量をどうこうできるわけがない。
速度を一切緩めずに前進すれば、すぐに道を空けるだろうと思っていた。
残り三十メートルをきっても、統括官は一歩も動かない。残り二十メートル、まだ動かない。
残り十メートル。今更よけたところでもう間に合わない。最後まで動かなかった度胸には舌を巻くが、
目的は復讐では無い。左右のハンドルを動かして統括官の立つコースを躱し、拘留所の建物に腕を突っ込んだ。
「おいおい、殺す気かよ」
「わざわざ助けに来てやったんだから贅沢言うな」
建物の中から引きずり出したヒュペリオンの腕に座っているジジイには、軽口をたたく余裕があるらしい。降り落としてしまわないようにそのままゆっくりと後ろに下がる。
「逃げられると思っているのか」
足元で変わらず仁王立ちをしているレイノ監督官と、その後ろに並ぶ銃を構えた治安維持部隊。
ここまでの暴挙に出た以上、鎮圧用のゴム弾を期待するのはあまりにも愚かだろう。
「逃げるんじゃない、立ち向かうんだ。俺たちの邪魔をしないでくれ」
「あんな出来損ないで空が飛べると、本当に思っているのか」
「いつまでもこんな場所に閉じこもっていたいならそうすればいい。狭苦しくて油臭い箱の中で、盲目な市民相手にふんぞり返ってればいいさ」
「坊! そいつらには話しても無駄さ。言われたことだけを淡々と実行する人工知能みたいな奴らだ。時間を無駄にするな」
元々喧嘩っ早い性格だったが、閉じ込められている間にまた随分と燻ぶっていたのだろう。生身で銃口の前に立っているにもかかわらず、ジジイは挑発をやめない。
「見張りの話を盗み聞きしてたんだが、飛行機は後で回収する予定だったらしい。まだ間抜けにも格納庫に置きっぱなしだろう。ここから工業区を突っ切って真っ直ぐに向かえばすぐだ」
「馬鹿が、そんなに死にたいのなら今ここで死ね!」
監督官の右手が振り下ろされたと同時に発砲音が鳴り響いた。
即座に展開した残り五つの腕でジジイの周囲を覆う。
アラクネの装甲には豆鉄砲だが、人間の肉体には致命的だ。
「しっかり捕まってろよ。一気に格納庫まで行く」
「壊すなよ」
「壊さねぇよ」
一列に並んだ治安維持部隊を飛び越えて、元来た道を全速力で駆け抜ける。
背後からは諦めの悪い銃声が何発か届いたが、アラクネの装甲を数ミリ削った程度。
格納庫までの直線距離はおよそ八百メートル。通路の閉鎖や妨害を考慮しても十分あればたどり着ける。
「おい、寒いぞ。俺も中に入れろ」
「一人乗りだろうが、少しの間くらい我慢しろ」
腕の中でやかましく叫んでいるジジイ。半日以上拘束されていたにしてはやけに元気で安心した。
飛行機は一人でも飛ばせるが、二人でより安全にコントロールするような操縦システムを組んでいる。
ジジイの手が借りれなくなるのは正直痛い。
「坊! 前!」
「わかってら!」
突然、隔壁が下りてきて通路が閉ざされた。ギリギリのところで方向転換をして隣の区画へと進路を変える。
稼働中の工場ラインの隙間を抜けて、百十七番格納庫を目指す。
プレス機を避けて進んでいるときに、タイタンの内部スピーカーから警報音が鳴りだした。
ヒュペリオンの外部マイクが拾ってコクピット内にまで届く耳障りな音。
A級の緊急事態において、タイタン全域に届けられるアラートと案内音声。
情報としては知っていたが、実際に聞くのは初めてだ。
「現在、タイタン整備課第三班の二名が拘留所を襲撃して逃亡中。
対象はヒュペリオン、アラクネを使用しているため、目撃した場合は速やかに退避してください。
各作業員たちは緊急シェルターに避難を、居住区にいる方々は部屋に帰って外に出ないように。
繰り返します」
正義は向こうにあり、か。好き放題言われているが、反論できないな。
拘留所を襲ったのは事実だし、ヒュペリオンで逃亡しているのも事実なのだから仕方が無い。
極力被害を出さないように立ち回っているが、どうしても必要な個所ではシャッターを破壊せざるを得ない。
外殻が破壊されて外気が流れ込んできたときの対策であるため、アラクネのアームなら破壊できる。
「飛行機は無事なんだろうな」
「そう聞いてるが、実際に行ってみないと分からん。今まさに解体されてるかもな」
「最悪の想定だな。そうなったらどうする。アラクネで外まで逃げるか」
装備が無ければ一時間も生きられない。無理やり二人をコクピット内に押し込んだところで、水も食料もない。
一週間もしないうちにミイラになってゲームオーバー、無駄死に。
夢に死ぬなら本望だが、夢見て死ぬのはごめんだ。
「その時はおとなしく牢屋に入るさ。俺は死ぬまでには出てこれるかもおしれない」
「俺は檻の中で死ねってことか。冷たい奴だな」
コンベアを乗り越えて、扉を一枚蹴り破った。区画の責任者には申し訳ないが、ここが最短ルート。
ヒュペリオンがギリギリ通れるだけの通路を両肩を擦りながら走る。
壁に長い傷跡がついてしまったが、この程度の器物破損を今更気にしていられない
丁字路を左に曲がったところで、ようやく百番台格納庫の通りに出た。
格納庫隣接通路らしく、数十メートルもある幅員を閉鎖するように築かれた巨大なバリケード。
ついこの前までは無かったものだ。適当な端材で急造されたものらしく、ところどころに綻びが見える。
バリケードの向こうには数十機のヒュペリオンが待機していた。
見たことがある形のものがほとんどだ。全機が第三班のメンバーに間違いなかった。
「坊、操縦を変われ」
「……その方がよさそうだな」
ヒュペリオン同士の戦闘経験は流石に無い。
俺にアラクネの性能を引き出せるわけもなく、ジジイに変わるのは妥当だろう。
問題はその隙を見逃してくれるかどうかだが、相手方に動く様子は無さそうだ。
ジジイを胸元のコクピットの前まで運んで来た時、前方に立ちふさがる一機から通信が入った。
「ニダラさん! こっちです!早く!」
声の主は第三班の中でもよく知っている男。
酒と煙草をこよなく愛する整備課員。
「モクさん!?」
「誰が運転しているのかと思ったが、君か。いいから早くこっちに来なさい。話はその後だ」
脳内で二つの意見が激しく火花を散らした。罠か、そうではないか。
迷って動きかねていると、背後から走行音が聞こえてきた。
それは通路中に重厚な排気音を響かせて近づいてくるのは、四輪駆動の戦闘車両。
タイタンに配備されている数少ない戦闘系の機体として知っていたが、データだけしか見たことのない代物だ。
「俺が話を聞くから、みんなは少し時間を作ってくれ」
「了解」
数機がバリケードの向こうへと視線を向ける。
モクさんはヒュペリオンを降りてきて、アラクネの前に立つ。
彼らがここにいる理由を理解できていなかった俺たちは、困惑して動けずにいた。
「何でこんなことになってるんですか、ニダラさん」
「俺としちゃあ、どうしてお前らがここにいるのかの方が気になるな」
僕らが百番台格納庫に飛行機を隠していたことはごく一握りの人間しか知らない。
少なくとも監督官や治安維持部の人間が漏らすとは思えない。ならば情報の出どころは必然的に限られる。案の定、モクさんの口からその名前が語られた。
「第四班のフィロード君から連絡があってね、半信半疑だったんだけれどとりあえず動いてみようかなって。彼らも僕に同調してくれて、とりあえず五人が一緒に動いてくれてた」
背後から大きな音がした。振り返ると先頭車両がヒュペリオンによってひっくり返されていた。
無人機とはいえタイタン側の機体に逆らってしまえば、彼らにも被害が及んでしまうのはないかと心配になる。
「気にしないでください。覚悟の上です。みんなニダラさんに昔っからお世話になっているから。
この先の格納庫に飛行機があって、それでタイタンから脱出しようとしたから拘留されたというのは本当ですか」
「脱出っていう表現には納得いかねぇが、否定するわけにはいかねぇな。俺たちはただ確認したかっただけだ。あの汚れた雲の向こうに何があるのか、な」
誰かを傷つけたり、何かを失わせたりするような行為ではない。純粋に空を目指していた。ただ、タイタンではそれが違法であったというだけの事。そして俺たちは例え違法行為に手を染めることになったとしても、夢をあきらめきれなかった。
「そうですか、フィロード君の話が事実なのですね。それなら、私たちはここで時間を稼ぎます」
「やめておけ、不味い飯を食って固いベッドで寝る羽目になる」
「飛行機は完成していて、あとは飛ぶだけだと聞いています。少しくらいの妨害なら大目に見てくれるでしょう」
一体フィロードはどこまでの内容を、何人に話しているのか。あまりにハイリスクな行為に、呆れるしかない。直接会って話をしたいがいまだに連絡が取れない。
「あいつらが手心を加えるとは思えない。モクさんたちはさっさと引き上げて関係ないふりをしてくれ」
「ここで言い争って時間を使うのは無駄です。さっさと行ってください」
「……いいんだな」
「何、うまくやりますよ。流石に殺されたりすることは無いでしょうから」
「行くぞ、坊」
言いたいことはあったが、自分よりも付き合いの長いジジイが決めたことだ。
その決定を覆すようなことは出来ないし、かといってだらだら口答えする意味は無い。
格納庫の通りを奥に向かって走る。
ジジイの操縦技術に舌を巻いているうちに、目的の場所に到達した。
脱出口に予定していた百二十五番から始まって、約八百メートル。
百十七番の扉は固く閉ざされていた。
「遅かったですね、待ってましたよ」
突然ヒュペリオンに無線通信が届く。男にしては少し高めなくらいの声を聞き間違えるはずがない。通信が入ったのと同時に格納庫の扉がゆっくりと開いていく。フィロードは入ってすぐのところに放置されていたキャスター付きの椅子に座っていた。
「色々聞きたいことはあるが、一番気になっていることを最初に聞こう。飛行機は無事か」
「治安維持課の人間も触らないように指示を受けていたので、問題ないです」
「おい、どうやってこの格納庫を取り戻した。ヒュペリオンを持ってきてはいないようだが」
「簡単なことですよ。この部屋を一度遠隔で封鎖して、隣の百十八番格納庫との隔壁を開きました。催涙ガスをたっぷりと流し込んで鎮圧した後、補助機で隣の部屋に移動させて縛ってます。エンジンは温めておきましたが、本格的な操作はわかりません」
「ジジイ、俺は最終調整をする。滑走路の準備をしてくれ」
「いつから命令するほど偉くなったんだか、いいぞ。こっちは俺に任せろ」
簡易パーテーションで区切っただけのコントロールルームにジジイが座った。
それを確認して、飛行機のコックピットに乗り込む。スターターをタップすると両翼外側のジェットエンジンが唸った。低速回転による振動が心地いい。前進負荷を受けて車体を固定しているベルトがピンと張る。
「数値は!」
飛行機には通信機能を含めた余分な機能をつけていない。エンジン音にかき消されないように、大声で叫んだ。部屋の隅からジジイが同じように叫び返してくる。
「問題なしだ!」
エンジンの回転数から各制御装置の起動状況までコントロールルームでモニターしている。
飛行に必要なだけの稼働をしているかの最終確認は終わった。あとは飛ぶだけだ。
「ジジイ!行けるぞ」
エンジンの回転数を落として各部のロックを解除する。機体を固定していたベルトが全て外れ、操縦操縦桿を握って機首をゆっくりと回転させた。格納庫の側面に頭を向けると、百番台格納庫の隔壁が一つずつ開いて繋がっていく。これで滑走路として必要な距離は確保された。
「よし、あとは最終隔壁だけだ。黒灰の流入を限りなく減らすために、離陸直前に開く」
「僕がここからコントロールします。任せてくだ……っ!」
飛行機の全システムが安定稼働しているを確認して飛び立とうとする直前に、
何の前触れもなく格納庫の入り口が爆ぜた。
煙の中から現れた巨大な二枚の扉は大きく歪み、人が通れるだけの穴が開いている。
巨大な重機で破壊したとしか思えない程、砕けた鋼鉄が細かく散らばっていた。
しかし煙が晴れた後に立っていたのは、あろうことか人間が一人。
「レイノ・グリングラス……!!」
「ようやく許可が降りた。貴様らの自分勝手な行動はここまでだ。
全てを諦めて生き延びるか、抵抗して死ぬか、好きな方を選べ」
「ジジイ……!早くこっちにこい……!」
百ミリ以上もある鋼鉄の扉を破壊するのは、ヒュペリオンですら専用装備に換装してから行う。
目の前で現象を引き起こされたところで、それを人間のサイズで行ったとは俄かに信じられない。
緊張と驚嘆で思考と動作が止まっていたジジイを呼んだ時には、もう遅かった。
一呼吸で距離を詰めた統括官は、ジジイを固い地面に叩きつけて首根っこを掴んでいる。
「ニダラさん!」
「動くな、お前から殺してもいいぞ」
近くにいたフィロードが全く反応できていない程の速度。単体での性能を見れば、もはや人間ではない。飛行機のアクセルを踏めば、俺一人離脱することならできただろう。自分だけ逃げるつもりはなく、狭いコクピット内で立ち上がって無抵抗を示す。
「モクさんたちはどうした……」
「自分の事よりも気になることか、それは。バリケードを作っていたヒュペリオンは全て破壊したさ。
中身が無事かどうかは保証しないがな」
「せっかく暴れられるんだ。少しくらい抵抗してくれてもいいんだがな。こっちはそのつもりで頭数をそろえてきたんだからな」
崩壊した扉から入ってきたのは、統括官と同じ服を着た四人の男女。状況から考えれば、マキナリーを受けた強化人間で間違いは無い。銃器を抱えている者も刃物を装備している者も、おそらくは統括官と同等の戦力を保有しているはずだ。
正面切って戦うのであれば、少なめに見積もってヒュペリオンが五機必要になる。
この場にいるのは三人で、なおかつ戦闘ができる機体はアラクネ一機しかない。
どう考えても勝ち目は無かった。協力してくれた人間を犠牲にしてまで夢を追いかける様な馬鹿じゃないつもりだ。抵抗する意欲をなくした俺に対して、つまらなさそうに溜息を吐いた。
「お前、それでいいのか。ん、なんならその機体に乗ってくれてもいい」
ジジイとフィロードを人質に取って、圧倒的に優位な立場にいる統括官。
レイノ含めた強化人間たちがこちらの様子を窺っているのはなぜだろうか。
「っはー……わけわからねぇって顔するなよ。お前らだって新しい玩具を手に入れれば見せびらかすし、工具を手に入れたら使うだろうが。もう知ってるみたいだから隠すつもりもねぇが、機械化手術を受けたからにはその力を使ってみたいと思うのが人間ってもんだろ」
「もう人間じゃねぇよ、お前ら。一緒にするな」
「そんなことはどうでもいい。ほら、乗れよ」
「そいつは俺には動かせない。あんたらを満足させるほどにはな。ジジイの方がよっぽど」
「そうか、ならあんたが乗れ。んで私たちと闘え」
レイノはあっけなく拘束を解く。腰を押さえながら身体の調子を確かめるように立ち上がった。
服の裾を払って埃を落とし、統括官たちを睨みつける
「ヒュペリオンは戦闘用の機械じゃない。鋼鉄の扉を素手で壊すあんたらのお眼鏡にかなうとは思わんがな」
「別にそれならそれでいいさ。準備運動はいらねぇか」
アラクネに乗り込んだジジイの顔が、笑っているのが見えた。
「黙ってかかってこい、小娘」
飛び掛かったレイノの瞬発力はやはり人間業ではなかった。
少し離れたところから観測しているのでなければ、その姿を見失っていただろう。
数歩のうちにアラクネの背後に回り込み、背中側から飛び掛かった。
思わず叫びそうになって口を開けたまま、ファーストコンタクトの結果を見てただ息だけを吐き出す。
目にした光景に対して、思考に追い付いていなかった。
振り向きざまの裏拳が確かに捉え、壁際にまで弾き飛ばしたのだ。
「ひゅぅっ……あの爺さんやるね」
背後で並んでいるだけの一人が口笛を吹く。タイタン側からの任務できているにしてはえらく余裕だ。
絶対的に失敗しないという自負があるのだろう。
「はっ……面白くなりそうじゃねぇか!」
壁に着地したレイノは、凝りもせずその場を起点にして一直線に飛び込む。
ジジイは拳を振るう。単純な動作だが、恐ろしく精度が高い。
およそ時速百キロ近い物体に対して、ヒュペリオンの拳をクリーンヒットさせるのは至難の業だ。
「遅ぇっ!」
直撃したかに思えた拳の上を飛び越えて、ヒュペリオンの頭部に蹴りを入れる。
予めよんでいたかのような動きで脚部をスライドさせ、距離を取った。
着地したレイノはすぐさまその足元に近づいて、自分の身体よりも大きな脚部を狙って拳を振りぬく。
鋼鉄をも引き千切る一撃は、いくらヒュペリオンの装甲でも防げない。
当たれば必殺になりかねない殴打が機体に届く前に、六つの腕が統括官を上から押さえつけた。
「お前さんがな」
見掛け倒しではない性能を誇るアラクネと、それを自在に操るジジイ。
機械化手術を受けた監督官に対して、優位に立ちまわっているように見えた。
「ちっ……」
「諦めろ。いくら頑丈な身体があったとしても動けやしない」
うつぶせの状態で捕まったレイノは最初こそ抵抗を見せていたものの、すぐに諦めて動くのをやめた。
質量差は簡単に覆らない。鋼鉄化手術を受けたとはいえ元は人間。
たとえ鋼鉄を引き千切るだけの膂力があったとしても、
組み伏せられてしまえば身体の構造上その真価を発揮することは出来ない。
後ろで腕を組んだり座ったりしている残りの五人は、それぞれが好き勝手な感想を述べていた。
「おいおい。手伝うかい、レイノの姐さん」
「ねぇねぇさっさと全員殺しちゃおうよ!それで任務は終わりでしょう!いつまでやってんのよ!」
「うるさい……」
「声がちっさくて聞こえねぇよ、引きこもりが!何か文句があるならでけぇ声で言え!」
隙だらけに見えるのは、ジジイが戦っている限り俺が飛び立たないという確信があるからだろう。
事実その通りなのだから仕方が無い。
「ペラペラしゃべってる暇があるなら、アタシの獲物を出せ」
「素手で勝てるとかチョーシに乗ったアホがよく言うよ。ほらよっ」
人間の二倍はあろうかという巨大な鉄塊が投げ込まれた。
刃もついていないただの棍棒をジジイは咄嗟に避ける。自由になったレイノは武器を受け取って軽々と振り回す。
風を切る音がこちらまで聞こえてくる。
「さって、ここからは本気だ」
「身の丈に合わない装備は怪我の原因になるぞ」
正面からぶつかった。六本の腕のうち二本が、鉄塊と激しく火花を散らす。
押し負けたのはやはり統括官。武器の重量が加わったところで、そもそもの質量が違う。
軽く飛びながら後退したが、その顔には笑みが浮かべられていた。
「ほう、ちょっとはやるじゃねぇか」
アラクネの装甲もまた大きくゆがんでいた。
可動に問題のない箇所とはいえ、外での活動を前提とした強固な装甲だ。
生半可な威力では傷つけることすら敵わない。
「お嬢ちゃん扱いは訂正する必要がありそうだな」
ヒュペリオンの内部から聞こえてきたのは、意外にも嬉しそうな声。
戦闘用の機体ではないとはいえ、ヒュペリオン乗りとしての血が騒ぐのだろう。
負けたくないという思いが整備課の中で一番強いジジイだからこそ、メンテナンスの技術面でも誰かに後れを取ることは無かった。
棍棒による横薙ぎを受け流す。あまりに流麗に鉄の塊をいなしたアラクネ。
図体がでかい分、標的になりやすい箇所をよく知っている動きだ。
返す刀で登場部を狙った突きを、四本の腕で受け止めた。均衡を崩したのはジジイから。
レイノの武器を掴んで彼女ごと持ちあげる。そのまま振り回して放り投げた。
格納庫の壁に突き刺さった鉄塊。鉄屑の欠片の中に、監督官の姿は無い。
「ジジイ!後ろだ!」
武器を手放し宙に浮いたままになった彼女は、落下の勢いを加算して放った蹴り。
咄嗟に腕を防御に回して屈んだアラクネの腕関節に、鋭い一撃が突き刺さった。
右背部の三番腕が火花を上げて宙に舞う。
「ちっ……!」
「これで……終わりだっ!」
腕の隙間を縫って搭乗部に拳を振り下ろした。強力な一撃を避けるためにジジイのとった行動は退避とは真逆。
スラスター機能を全開にして、レイノに向かって飛びあがった。
拳の出だしよりも早く、機体ごと体当たりをしてその体を浮かせる。
「がっ……」
衝撃で出来た隙を見逃すジジイではない。無事な腕でなでるように振り払った。
生身の人間なら打ちどころが悪ければ死んでいるだろう。
壁際に叩きつけられた統括官は数度バウンドして立ち上がらなくなった。
「油断してるからだバーカ」
「ここは素直に相手の手腕を称えようや。で、どうするよ。
一応、レイノの姐さんの次に階級高いのは俺だが」
「さっさとぶっ殺して帰るに一票!」
「同じく……」
「俺は少しくらい遊びたいんだが、レイノの姐さんもつれて帰らなきゃいけないだろうからな。それじゃあ、鎮圧ってことで」
四人がアラクネに向き直った。全員が獲物を構えて飛び掛かる。
「坊! さっさと飛べ阿呆!」
「だけど……!」
一瞬だった。巨漢の男が正面切ってアラクネの両腕を押さえ、小柄な女がその背後から残りの腕の関節を破壊していく。
後ろに回った長髪で細身の男が脚部を砕き、金髪のガラが悪いのがコクピットの装甲を剥がす。
「さて、終わりだ。抵抗しないのであれば命は保証しよう」
「はぁ! 殺さねぇの? 詰まんねー!」
「気狂いが」
「黙れ根暗! てめぇから殺すぞ」
「流石に無抵抗のヤっちゃまずいでしょ。それとも抵抗されましたとでも報告するんすか」
「バレなきゃいいんだよ。それとも無駄口も叩けねぇようにしてやる必要があるか?」
「フラウは少し落ち着け。俺はレイノの姐さんを回収してくる。
そこで立ち尽くしてるガキと飛行機に乗ったままのガキ、それからジジイを拘束しておけ」
初めてこちらに敵意のある視線が向けられた。一歩一歩近づいてくるのは分かっていても、動けない。
ジジイを捕まえようと女が手を伸ばした瞬間に、中途半端に開いていた格納庫の扉が大きく震えた。
「っ……!」
「なんだ、あれは……」
煙の向こうに見えたのは輝くような蒼い装甲。見たこともないヒュペリオンだった。
その姿を確認した瞬間、ジジイはこちらに向けて走り出す。
「てめぇ……! 抵抗すんなら……」
「フラウ! 避けろ!」
「あ……っ?」
スラスターによる高速起動で一気に距離を詰めて、掬い上げる様にして女だけを吹き飛ばした。
すぐ隣にいたジジイには掠りもせずに。それだけで乗り手の実力が計り知れる。
そのまま一回転して背後に迫っていた大男の拳を受け止めた。
頭部を狙った銃による一撃を身体を反らして躱し、同時に男を蹴り飛ばす。
「坊! エンジンをふかせ!」
「あ、ああ」
戦闘音が響く。ジジイのアラクネすらも容易く破壊した四人の統括官をまるで子供と遊ぶかのようにあしらう機体。
エンジンを本稼働させる。後はアクセルペダルを踏むだけだ。
銃弾が飛び交う格納庫の中を走ってきたジジイが、梯子を上ってコクピットに転がり落ちてきた。
「ぐっ!!」
「ジジイ!?」
「いい! 飛べ!」
コクピットを閉めてアクセルペダルを思いっきり踏み込んだ。
加速用のジェットエンジンが高速で回転し、高熱を排出しながら一気に加速した。
急加速による慣性がかかり視界が狭まる。最終隔壁はきちんと開かれていた。
フィロードに感謝をしながら、格納庫を横に貫いてタイタンの外へと飛び出す。
即座にジェットエンジンを切り、プロペラエンジンに切り替えた。
「よし、飛んだ!」
「喜ぶのはまだ早いだろが」
黒灰の吹き荒れる暗い空に一歩を踏み出した。視界は悪い。
ヘッドランプを点灯させても数十メートル先が見えず、勘に頼って機首を上に向けた。
「何かが飛んできたら終わりだな」
「そうならないように願うしかないさ。ところで、さっきの蒼いヒュペリオンって」
味方なのは間違いないが、あれほどの操縦技術を持つ人間も蒼い機体も見たことが無い。
ヒュペリオンに一般的な二足歩行タイプだったが現行の人型とは明確に違う。
構造は獣に近い。長い尾を持ち、両腕は必要以上に厚みがあった。
機能性重視の最近のヒュペリオンとは違い、デザイン性重視の機体。
「あれか、あれは長老の機体だ」
「長老の?」
動揺が操縦桿に伝い、左右に機体が揺れた。慌てて進路を戻し確認する。
黒雲に突入するまであと三十秒くらいか。それが残り寿命かと思うと少し震える。
ジジイもきっと同じ気持ちだったのだろう。俺たちは恐怖を誤魔化すかのような会話を続けた。
「蒼龍。最後の第六世代機。最強のヒュペリオン」
「あんな状態ならもう乗れないだろ」
「何で動いていたのか、どうやってあのタイミグで来たのか。それはわからん。
だけど当時の機体は生体認証が必要だったから、長老以外には動かせないはずだ。
無事に帰ってくることがあれば、その時に確認しよう」
飛行機が大きく揺れて、分厚い雲に突っ込んだ。
プロペラエンジンの調子は良好だが、機体は強く上下に揺れる。
視界はかなり悪い。前方がほとんど見えず、高度計だけが現在地を示している。
雷鳴轟く黒雲の中、操縦桿を握る手に汗が滲む。
ただでさえ悪いコンディションの中、粘りつくような黒い雨が降り始めた
コクピットの強化ガラスが次第に塗りつぶされていく。
「ジジイ、第三スイッチを入れてくれ」
コクピットの前面を水圧で強制的に清掃する機能だ。
油分が混ざった雨を取り除くために装備しておいたが、正解だった。
「おいジジイ、聞こえてるか」
「ん……あぁ……すまん。なんだって」
「第三スイッチのクリンアップだ」
コクピット内は狭く、シートベルトで身体が固定されている。
加えて全身に降りかかる重力のせいで振り向くことすら容易じゃない。
後ろの様子を窺うのに、精一杯身体を引き延ばした。
「おい、ジジイ……!」
血まみれのシート。顔の色は不気味なくらい青白い。
脇腹の衣服が乱雑に千切られている。
「はっ……しょうもない一撃をもらっちまったぜ……。」
「糞ッ……何か止血するものは……」
食料と飲料のほかには、余分な荷物は何一つ積んでいない。
飛行機に乗っていて怪我をするときは死ぬときだ。
当然救急箱やそれに類するようなものもない。
「前を見ろ坊! 前だけを見ろ!」
「だけど……っ!」
「お前の席から後ろには何もない。前にしかないんだよ。
だからがむしゃらに進め。出来る限りのサポートはする」
「っ……!」
機首の角度をさらに上げた。出来るだけ早く空の向こうにたどり着く。
機体が呻くように震える。吹き荒れる大風と泥の塊のような雨が進路を塞ぐ。
プロペラエンジンの効率は既にニ十パーセント近く落ちていた。
「坊……角度を上げ過ぎるな。風に押されて機体が折れるぞ」
「わかってる……わかってるが……」
操縦桿が重い。密度の高い雲の中を前に進むには、プロペラの推力だけでは足りない。
とはいえ、ジェットエンジンを起動して固形物が混じり込めばその場で爆散して終わり。
高度計が指し示している数値は八千と少し。事前の予測ではまだ半分にも届いていない。
時間だけがゆっくりと過ぎていく。過酷な空の旅は快適とは言い難い。
操縦桿を握っている腕は痺れてきたし、揺れ続ける座席のせいで疲労は溜まる一方。
いつ飛んでくるかもわからない飛来物を常に警戒しながら、ほとんど見えない前を見ながらただ耐える。
対物センサーは完全に死んでいる。
熱感知システムは辛うじて動いているが、仮に察知できたとしても前方百メートル圏内程度だろう。
時速七百キロ近いスピードを出して飛んでる状態で、目視した飛来物を反射神経で躱すなんて芸当は不可能だ。
「ぐっ……」
強風に煽られて機体が大きく右に流れた。出発点からの飛行ログは取ってあるが、この悪天候下ではあまりに頼りない。
案の定通信関係は軒並みダウン。磁気関係の現在地情報も怪しい。
必要以上に備えていたつもりだったが、黒雲の複雑さが遥かに上回っていた。
速度は一定のまま、高度だけが少しずつ上がっていく。
指示系値が九千の壁を越えた時、いくらかハンドリングが軽くなった。
大気中の成分がいくらか安定していたのだろう。速度が上がって安定性が微かに増した。
「ジジイ、大丈夫か」
「ん……あぁ、なんとかな」
返事は弱々しい。出血量から考えれば意識があることさえ奇跡的だ。
もはや、手の打ちようは無い。せめて、一瞬だけでも青空を見せてやりたい。
その思いでペダルを踏み続けた。可能な限り早く、出来るだけ高く。
「ん……なんだ」
飛び始めてから一度も動かなかった対物センサーが一瞬だけ点灯した。
一秒にも満たない短い時間。全身の温度が確実に下がった。
確かな悪寒。根拠なんてなく、口で説明することは出来ない。
咄嗟に操縦桿を捻った。急旋回の起動を描いて機体が傾く。
次の瞬間には熱源スキャンで前方が真っ赤に染まった。
「なん……だこれ……」
汚れたコクピットの隙間から辛うじて見えたのは巨大な断崖絶壁。
機体が壁面に近づきすぎたせいで激しく振動する。
力を振り絞って握り続けた。永遠にも思える数秒間がようやく過ぎ、巨大物質を乗り越えたことを知った。
機体の真下、半径数キロの範囲が真っ赤に染まっている。
人工物。この黒雲の中を飛来し続けるだけの能力を有し、なおかつ確たる目的を持った何か。
それ以上のことは何も分からない。ただ無事障害を乗り越えたことに安堵し、気が緩んだ。
「なっ……しまっ……!」
機体が大きく震えた。慌てて操縦桿に力を入れなおしたが、遅い。
速度は半分ほどに落ち、高度は何とか維持しているのがやっと。
原因は見えなかったが、何が起きたのかは分かった。
コクピット内の電子制御端末のディスプレイをアラートが埋め尽くす。
小型の飛来物によって右翼のプロペラエンジンが破損したせいだ。
幸いにして機能は失われていないが、電力系統の断裂が二カ所。
エンジンの出力が十五パーセントにまで低下していた。
「坊……右三番エンジンだな」
「ああ、だがジジイは動くな。このまま一か八か、ジェットエンジンに切り替えて一気に上昇する」
「駄目だ」
否定が返ってくるのは分かっていた。ジェットエンジンは清浄な空気の元でなければ稼働にリスクしかない。
取り込んだ空気を高温高圧にして排出する構造ため、不純物が混じり込めば即座に故障。
最悪の場合はノータイムで爆発する。
いくら頑丈に設計していても、この空域では三十秒と持たないだろう。
黒雲さえ抜けられるのなら賭けてみるの価値もあるが、先行きは全く不透明。
一体何千メートルまで飛翔すれば青空に至るのかもわからない状態で、リスクを取るわけにはいかない。
「ジジイ、まだ動けるか」
「はっ……誰だと思ってんだ……もうやってら」
コクピット内に備え付けていた工具を取り出して、足元の配電ボックスを開いていた。
激しく振動する機内で簡単じゃあない。
「右エンジンの二系統が完全に死んでる。切り離して、予備系等に繋ぎなおしてくれ」
「くそ……手が震えやがる……」
これだけ振動する機内で作業することは簡単じゃない。ましてジジイは万全の状態ではないのだ。
無理をさせているのは分かっていたが、後部座席からでなければ電気系統は触れない。
これ以上の被弾を受けるわけにはいかず、各種計器から一秒たりとも目を離すことは出来ない。
飛行機の角度は約十五度。ゆったりと上昇はしているものの、風に煽られて大きく左右に揺れている。
横殴りの風のうちは辛うじて大丈夫だが、向かい風になった時には失速して墜落しかねない。
ただ風向きが変わらないようにと祈りながら、操縦桿を強く握り続ける。
後ろでジジイが無理をおして頑張っている。出来るだけ作業しやすいように飛ばしてやるのが俺に今できること。
雷鳴と泥雨が生み出す音の合間に、背後から配線を弄る音が聞こえる。
高度は九千五百。分厚い暗雲に阻まれて依然として空は見えない。
通り過ぎているはずの風景はずっと変わらず、前に進んでいるのかわからなくなってくる。
方向感覚はとっくに失われた。計器の横につけたタイマーだけは正確に時を刻んでいる。
「……出来た」
荒れ狂っていた風がピタリと止んだのと、ジジイが臨時接続を完成させたのは全くの同時だった。
エンジンを全開にして機首を大きく持ち上げた。飛行機は願いに呼応して急加速する。
七割の力を回復させたプロペラエンジンは唸りを上げた。
「バランスが悪い……左二番エンジンの出力を少し落とせ」
「了解」
ジジイの指示の通りに燃料を絞って左右の推進力を同等にした。
揺れが収まり、飛行機は安定して飛ぶ。一万を超えてもまだ、光は届かない。
「くそっ……一体どれだけ高く飛べばいいんだ」
黒雲の正確な厚さは測定されていない。それでもタイタンにいる多くの研究者が計算をしてきた。
七千から一万メートルというのがいつの間にか定説となっていたが、残念ながら違うらしい。
帰ったら飛行データを提出してみよう。何かの役に立つかもしれない。
治安維持課に堂々喧嘩を売って出てきたのだから、すんなりと受け入れてもらえるかは怪しいが。
上昇していくにつれて次第に黒雲の粘度が下がっている。
操縦桿は少し軽くなり、機体の細かなコントロールが効く。
ジジイの負担にならない程度の速度で左右に少し揺らせて、操縦の感覚を得ておく。
先程と同じように急激な方向転換を行えば、そのまま速度を失う恐れがある。
とはいえ視界は確実に良くなったし、センサー系統も機能を取り戻しつつあった。
黒雲の知識は無い。飛行の経験も無い。だけどなんとなく感じていた。確実に近づいてきているんだと。
「ジジイ、もうすぐだ。きっとすぐそこにまで来ている」
「ん……あぁ……」
真っ暗だった空がいつの間にか明るくなっている。飛んでいるうちに、雲間から微かな光が見えてきた。
太陽の輝きが漏れる雲の薄い場所を目指して機首を傾けた瞬間、大きく飛行機が揺れた。
汚れ切った風防の合間から、トラブルは目視で確認できた。
左二番のプロペラエンジンが大量の黒煙を噴き出している。
翼から伝わる衝撃のせいで、機内は操縦桿を握っているのがやっとなほど激しく揺れる。
左から右へと波及した振動。先ほどのダメージもあってか、右三番エンジンゆっくりと回転を止めた。
バランスが崩れたせいで、旋回軌道を取りながら惰性で何とか飛んでいる。
二基のメインエンジンがいかれてしまった以上、これ以上の高度にはたどり着くことができない。
「ここまで来て……諦めてたまるか!」
切り替えレバーを押してジェットエンジンに動力を供給し低速回転させる。
機体中に響く金属が軋む嫌な音。黒雲を飛行中に相当な量の不純物が混じり込んでいたのだろう。
粘性の高い液体を吐き出しながら、左右のエンジンが回転し始めた。
少しだけアクセルペダルを踏み込んで高度を保つように飛ぶ。
現在の高度帯における大気中の成分はさほど悪くないはずだ。
コクピットから見える世界はねずみ色。
タイタン内部ほどの清潔性は無いにしても、浮遊しているのは微粒子程度。
この程度の不純物であれば、エンジンの障害足りえない
ゆっくりと、踏み込む足に力を入れていく。
回転するタービンが固形物で詰まったら終わりだ。
ペダルにかかった足が強張る。今以上の加速を拒否しようとする身体を無理やり動かした。
計器を見ながら少しずつ押し込んでいく。
十分な速度が出ていることを確認して機首を上に傾けた。
下がり始めていた高度計の数値が逆転する。心音に比例して着実に数字は大きくなっていく。
エンジン内の温度センサがエラーを告げていた。
それでも緩めずにさらに速度を上げる。各種センサが限界値を示すエラーを次々と表示していく。
機体の限界が近い。もってあと数分だろう。
安全率は十分に加味した性能だが、この悪環境下でよく持った方だ。
いつの間にかタイマーはゼロになっていた。当初の限界予測値であった三十分はとっくに過ぎている。
前方数十メートルの範囲に探索できる障害物が内の確認して、目をつむって大きく深呼吸した。
たっぷりと時間をかけて息を吸い込み、不安や悩みと一緒に全て吐き出した。
最後にこの身体に残ったのは覚悟だけ。
「突っ込むぞ、ジジイ」
「……あぁ、てめぇの好きにしやがれ」
全力でペダルを踏み込んだ。一歩遅れてやって来た急加速に座席に押し付けられる。
加速度に歯を食いしばりながら耐えて、機首を一気に持ち上げた。
スペック上の最高速度は時速千五百キロ。音速を超える数字だ。
速度計は振り切っていてわからないが、機体が通る前に雲が裂けた。
細いが確かな道ができる。狭まった視界の中心、灰色の世界に光が見えた。
「届けえええええええええええええええええ」
力の限り叫んだ。声が身体を前に押し、身体が飛行機を前に進ませる。
永遠にも感じられた数秒間。少しでも高く飛べるように祈り続けた。
薄目で睨み続けた光は次第に強くなり、機体の中ではエラー音と異音が響き続ける。
鉄底を打ち抜いたような音がして、機体が一度激しく震えた。
機体は投げ捨てられるように、灰色の海から飛び出す。
銀色の翼は、ついに薄汚れた世界を貫いた。
一面に広がるのは無限に続く青と灰色。境界線は遥か前方で一直線に結ばれている。
頭上で真っ白な太陽が輝き遍く世界を照らす。タイタンの人工灯とは違う、力強い暖かさ。
ともすればこちらを焼き殺そうとするほどの苛烈すらも感じられる生きた光。
言葉にならなかった。この世界を表現する言葉を俺は知らない。
ただ心の中にしっかりと光景を焼き付けておく。
タイタンに帰ったところで、たった百分の一だって誰かに伝え聞かせることなんかできやしない。
澄み渡る青空の美しさも、心を慈しむ優しさも、包み込むような厳しさも。
ありとあらゆる側面を、同時に見せるこの青空の姿を、どう形容すればいいのか。
ありのままの全てが、せめてこの心にだけでも残るように。
言葉を持たない生き物のように、ただ眺めていることしかできなかった。
とめどなく溢れ続ける涙を拭うこともできず、ただ茫然と自我が溶け出していく。
飛んでいるのか、落ちているのかが認識できなくなった。
もう何も必要ない。ここが俺の還るべき場所。
消えゆく自意識の中で、最後まで自分に言い聞かせた。
大いなる青空は、確かにここにあったのだと。
◆
「坊……生きろよ……」
声が聞こえた。外界からではなく、身体の底から。
はるか上空で霧散していた意識は、その一言によって呼び戻された。
「ジジイ……?」
固定された身体を無理やり捻って後部座席をのぞき込む。
そこには、穏やかな笑顔を浮かべたジジイが眠っていた。
とめどなくあふれ出ていた血も、いつの間にか止まっている。
「そうまでして俺を生き残らせたいかね……」
ぼやいてから、現状を確認する。
両翼は無事だがエンジンは殆どまともに動いていない。
もはや飛行は不可能。滑空でのみ荒れ狂う黒雲を超えてタイタン付近に着陸しなければならない。
とんでもない難易度の任務だ。
加えて、戻ったところで待っているのは法律違反の罰則のみ。
残された三年間の人生に、きっと楽しいことなんて何一つないだろう。
だけど……。
操縦桿を握る両手に力を入れる。
ここで終わるなと、ジジイの激励が聞こえる。
機体の半回転させて、機首をゆっくりと下に下げた。
うまくいくとは思わない。百回挑戦すれば、きっと百回失敗するだろう。
それでも、ここで何もせずに終わるわけにはいかない。
これが、最後の親孝行だ。
「見てろよ、ジジイ」
敢えて言葉にして口に出し、黒々とうねりを上げる雲海の中に飛び込んだ。