白銀の翼3
「……っうぅん」
うっすらと目を開けて最初に見えたのは、見慣れた天井。
鼻をついた消毒液の臭いで、現実へと引き戻される。
五体満足なままの自分の身体が、真っ白な布団の中で横になっていた。
両手両足の感覚がゆっくりと蘇る。指先を握ろうとして、僅かに傷んだ。
点滴の針が引き延ばされたせいだろうか。
腕から出ているチューブが頭上のパックに繋がっている。
生きていた、ようだ。
あの後どうなったのかは覚えていないが、ここがタイタン内部の療養棟だという事はわかる。
生活区のすぐ隣に併設されていて、怪我した時や病気になった際に何度か来たことがあった。
「お、目を覚ましたか」
ノックもせずに病室内に入って来た年寄りは、手に持っていた幾つかの袋を枕元の台に置く。
茶葉を缶から取り出してカップに取り、給湯ポットから湯を注ぐと、
慣れた様子で来客用のパイプ椅子を取り出してそこに座った。
「ジジイ……か……」
「はん、死にかけたってのに生意気な口は治らなかったんだな。
ったくよ、悪運の強い奴だ。俺はもう駄目かと思ったぜ」
「残念だったな……厄介払いできなくて」
強がってはみたが、言葉に力がないのは気づいていた。
喉が掠れて声がうまく出てこない。
「坊よ、いろいろ聞きたいだろ。俺も幾つか気になることがある。
起きたばっかりみたいだが、話は出来るか」
しんどくないと言えば嘘になる。
だが、自分の身に起きたことを知りたいという興味が勝った。
「お前がいたのは第百三格納庫の扉の前だった。おかげで回収は楽だったな。
ヒュペリオンと、何処で手に入れたかわからねぇプロペラを纏めて格納庫に放り込んである。
元気になったら修理してやんな。で、お前さんの容体はよくなかったからすぐに療養棟に搬送した。
医者の話を聞いてりゃあ、ヒュペリオンから出て活動したらしいじゃねぇか」
「仕方がなかった。吹き飛ばされた後は殆ど無事だったんだが、タイタンに戻ってる最中にもう一度飛来物がぶつかったせいで、バッテリー関係がやられた。修理するために外に出たからな」
たった十数分間の作業だ。
回路の損傷個所が思っていたよりも単純だったお陰で、さほど時間を取られていたわけではない。
黒灰の危険性は理解していたが、あの時取れる手段は他になかったのだ。
例え命を削ることになったとしても、失うよりははるかにマシな結果になった。
「で、医者はなんて言ってった」
ジジイに限って言いづらいという事も無いだろうが、取っ掛かりはいるだろう。
案の定、はっきりと、一直線に言葉にされた。
「もって三年だとよ」
「意外と長いな」
素直な感想だった。
黒灰を含んだ空気は猛毒であり、当然黒灰そのものも人体に多大なる影響を与える。
いかに優れた防塵マスクをしていても、摂取量がゼロというわけにはいかない。
ヒュペリオンのコントロールルーム内にも服についた粉塵が漂っていただろうし、
外部カメラが切れてからは正面装甲の一部を外していた。
致死量が体内に吸収されていてもおかしくはない。
「ったくよぉ……無事とは言えんかもしれないが、良く帰って来たな。
坊よ、お前を誇りに思うよ。お前は無事で本当に良かった……」
「お前、は……?」
「……酷い事故だった」
節くれだった手が、未だに力の入らない手に添えられた。
ごつごつしていて、ごわごわしていて、だけど暖かい。
「……俺は青空を見るまで死にはしないさ」
ジジイにそれ以上追及する気は起きず、敢えて強がって見せた。
何も言わず、ジジイはただ隣に座ったまま手を強く握るだけ。
帰って来たんだという感情が、その温もりでゆっくりと解凍されていく。
溢れてきたものを隠すように、そっと顔を背けた。
「さて、俺はそろそろ仕事に行くわ。ちょっと溜め過ぎていたんでな」
「あぁ、気を付けてな」
「医者が言っていたんだが、三日もすりゃ退院できるそうだ。
黒灰による体への負荷は、ある一定期間を超えた時に一気に来るそうでな、
それまでは通常と変わらない生活ができるとよ」
有難い話だ。腕や脚を失ってアレの整備が出来ないのであれば、生きている意味なんてない。
こんな病室で残りの一生を寝て過ごすくらいなら、ヒュペリオンで大空に飛び出してやるくらいのつもりだ。
「あぁ、それと。他の整備課の人間からメッセージが来てたぞ。
余裕が出来たら確認してやってくれ。それじゃあな、夜にはまた来る」
ジジイが出ていくと静寂が訪れた。
まだ力の入らないからだを何とか起こして、机の上から端末を取る。
タップで生体認証ロックを解除すると、溜まっていたメッセージが一斉届く。
近くに住んでいるお人よしのモクさんからは、ホームパーティの誘いが来ていた。
奥さんと娘さんがいるが、近所という事もあって年寄りと若造二人暮らしの面倒をよく見てくれていた。
他の若者班員からそれぞれ励ましの言葉が、ニゥからはニュースサイトのリンクだけが来ている。
不思議に思って飛んだ先を見て、思わず眉を顰めた。
タイトルは奇跡の帰還。
俺がタイタン外部に吹き飛ばされて戻って来たことが、面白おかしく文章にされている。
冒頭の数行だけ読んで腹が立ったのですぐに閉じた。
ニゥには即座に一言だけクレームの返信を入れておく。
意外にも、第四班の班長からも短い文が来ていた。
業務的で堅苦しい文章だが、それがあの人らしい。
ニゥと違って適当に返すわけにはいかず、丁寧に返事をしたいところだが、
まだ指はそこまで自在に動かない。お礼を返すのは後回しにして、次のメッセージを開く。
幾つかニュースサイトの取材依頼が届いており、それらはまとめて削除した。
まだ意識の戻る前からこんな連絡をするなんて、仕事熱心な奴らだ。
端末の扱いに悪戦苦闘していると、丁寧なノック音を響かせて白衣を着た男が入って来た。
「よろしいですか」
「ああ」
「おじいさんから目を覚まされたと聞きましてね。
本来なら即座にお伺いしなければならなかったのですが、少々立て込んでいたので遅れてしまいました。
身体の何処かで、おかしなところはありませんか」
眼鏡をかけた小太りの医者は、クリップボードに何かを書き込んでいる。
こちらからは見えないが、カルテの様なものだろう。
「まだ多少動きにくいが、痛みはない」
「じきに動けるようになります。さて、大事な話があるのですが、今がいいですか。
それとも後日、もう少し落ち着いてからのほうがいいですか」
「三年の寿命ならもう聞いたぞ」
流石に驚いたらしい。
せわしなく動いていた手がピタッと止まった。
眼鏡の奥からこちらを覗く瞳から漂う気配は、困惑だろうか。
「……既にお聞きでしたか。少しクッションを挟んだほうが良いかと思っていたんですが」
「自分の身体の事だ。聞いてよかったと思ってるよ。
まだやりたいことはいくらでもあったんだが、まぁ生きてただけでも儲けもんだ。
延命する方法や薬でもあるのか」
「残念ながら、黒灰についての研究はまだまだ発展途上です。
特効薬などはありませんし、延命措置もうまくいくかどうか……」
「そうか、なら生きている間にやりたいことをやっておくさ」
生涯の目標だったものが、三年間に変わっただけだ。
長生きそのものは目的ではない。生きて夢を達成することができるなら、今燃え尽きても構わない。
そう思う人間は、俺の歳では少ないのかもしれないな。
「体調が悪くなったら、すぐに連絡ください。私たちにできる全力を尽くします」
「有難いね。早速で悪いんだけど、一つ頼みごとを聞いてくれないか。
とある人をこの病室まで連れてきて欲しい」
「おじいさんはさっき来ていましたね。他にとなると、どなたですか」
「整備課第三班の長老。名前は確か……アラ・マキナ。
脚が悪い九十の爺さんだ。迎えがいると思う」
「掛け合ってみます。彼の許可を受けたら、手すきの者を迎えに行かせましょう。
それじゃあ、何かあったらそのナースコールで呼んでください」
「わかった」
出ていった医者の背を見送り、大きな溜息を吐く。長老をこの場に呼び出してどうしようというのか。
そもそも、あのボケ老人がこちらの呼び出しに応えてくれるとは思えない。
俺が初めて会った日から、部屋の外で見たことは一度も無いのだから。
ただ、もし俺の失礼な呼び出しに応えてくれるのだとしたら、いつもの話が無性に聞きたかった。
俺が青空を目指すようになった話を。
待っている間は特にすることも無く、携帯端末のエンタメから適当な映画を流していた。
個室に入れてくれていたおかげで、周りを気にせず音を出せる。
手のひらサイズの画面では映像も音源も、迫力が不足しているが仕方ない。
すぐに長老を呼ぶのは無理だと断りに来るかと思っていた医者は、なかなか戻らない。
二時間半もあったはずの戦争映画は、あっという間にクライマックスシーンになっている。
ぼうっと頭を空にしていたせいで、内容はあまり覚えていなかった。
飛び交う弾丸が主人公の腕に当たった時、病室の扉がノックされた。
「どうぞ」
映像を停止させて、端末を机の上に戻した。
入って来たのは、車いすに座った年寄りとそれを押している看護師の二人。
長老を話のしやすい位置にまで移動させると、一礼をして出ていった。
「ふぉっふぉ……元気そうじゃの、坊」
「そう見えるんなら、随分と耄碌してるな。連れてきてもらったついでに入院したらどうだ」
思わず口をついて出た悪態が聞こえなかったはずはないのだが、
小柄な老人は何事もなかったかのように、にやりと笑った。
ジジイなら即座に拳骨が飛んできていただろう。
初めて出会った時から不思議で、不気味だとすら思っていた年寄りだ。
真っ白になってしまった髪の毛や眉毛は、伸び放題で散らばっている。
普段から病衣のような服を着ているせいで、ここにいても全く違和感がない。
誰がどう見ても、歴戦の入院患者にしか見えないだろう。
整備課内での扱いは、それとさして変わらない。
皆からは長老と呼ばれ、普段は自室でぼうっと過ごしていると聞いたことがある。
一週間に一度の頻度で、整備課所属の人間が訪ねていく程度だ。
以前遊びに行ったときに、暇ではないのかと聞いてみたが、
先程のように意味深な笑いを返してくるだけだ。
多くの整備課員がボケてしまったのだというが、きっと違う。
長老は、起きながら昔の夢を見ているだけだ。
ずっと昔に存在していたはずの、美しかった世界の記憶に囚われたまま今を生きている。
「坊、知っておるか」
世界に青い空があったことを。
そう長老は話し始める。何年も、何十年も、何百年も語り継がれてなお色褪せない物語を。
何百年も昔、世界は隅々まで鮮やかで美しかった。
千を超える種類の獣が大地を闊歩し、多種多様な植物が息づいていた世界。
あらゆる生物が時に覇を競っては争い、時に互いを支えながら生存していた。
生い茂る木々は季節によってその姿を変え、無限の色で大地を彩る。
流れる水は川となって命を運び、溜まって湖となって命を育んだ。
雨となってあらゆる地域に恵みを与え、いずれは大海へとすべての生命を還す。
朝には空に輝く光が全ての生命に活気を与え、夜には穏やかな光となって心を安らげた。
緑は山の色。森の色。大地に拡がる草原の色。
赤は土の色。谷の色。落葉が間近の樹木の色。
白は陽の色。雲の色。波の音絶えぬ砂浜の色。
青は海の色。空の色。果て無く続く世界の色。
かつて世界には、無限の色があった。
だが、愚かな人間は自らの過ちで全てを失ってしまった。
生い茂る木々の緑も、荒々しい大地の赤も、普く照らす白も、終わりのない青も。
誰もが永遠に存在すると信じていた色鮮やかな大自然は、
僅か一年を持たずしてそのほとんどが消滅した。
原因は醜い国家間の争い。
二つの考え方を異にする大国が、相手国を屈服させるために強大な兵器を際限なく使い続けた。
引き金を引いたのが誰なのか、止める手段がなかったのか、今はもう誰もわからない。
明らかなのは、その余波で世界中の環境が徹底的に破壊されてしまったという事。
爆撃で大地は削られ、その振動が原因となった地殻活動で複数の山が同時に噴火。
レーダー阻害用のチャフと舞い上がった火山灰が混じり合った粉塵は、瞬く間に世界を覆いつくした。
分厚い黒雲に遮られて陽の光が届かなくなり、殆どの植物が死滅した。
後を追うようにして、植物を食む動物が、肉を食べる動物が姿を消し、
およそ地上を闊歩する者はいなくなった。
汚染された海に住まう魚はいなくなり、腐敗した空で囀る鳥もいない。
破壊された自然環境では、当然人間も生存できなかった。
億を超える数がいた人間も、今では十万人を下回り、
タイタン内部という限られた空間でしか生きることを許されていない。
そのうち時は流れ、幾世代も人工光の下で過ごしてきた人々はかつての大自然を忘れてしまった。
澄みわたる青空に、白い雲が浮かんで、鳥たちが舞っていた光景を。
ジジイの語りはいつもと同じように締められる。
そして俺はいつからか、話を聞いた後は同じことを問いかけている。
「鮮やかな自然は失われたのか」
「いいや、まだ青空が残っておろう」
「それは何処に」
「黒く分厚い澱みのその上に」
「なら、俺はそれを確かめに行く」
「ふぉっふぉ……もし見れたのなら、儂にもどんな様子だったか教えてくれい」
「三年だ。三年以内に、俺は必ず青空を見てやる……。」
「楽しみにしておるぞ、坊よ」
「……呼び出してすまなかったな。どうしても長老の話が聞きたかったんだ。
おかげで元気が出た」
「なぁに、どうせ暇にしている。構いはせんよ。青空を信じてくれるお前さんの為ならな。
最近はもう、誰も信じてはくれぬ」
「長老が正しいことは、俺が証明する。だからもう少し長生きしてくれよな」
「ふっふぉっふぉ。そう簡単にくたばったりせんよ。さて、そろそろ休めい。
瞼が随分と重そうな。今は体力を回復させることに専念せい」
「メッセージを送ったらそうさせてもらう。長老も気を付けて帰ってくれよ」
呼び出しボタンを押すと、しばらくして看護師が二人来た。
簡単な挨拶だけすると、長老の車いすを押して外に出ていく。
その背を見送った後、俺は携帯端末にゆっくりと文字を打ち込む。
ニゥに連絡するために。
◆
「ようやく出てきたな」
「その言い方だとまるで刑務所に入ってたみたいじゃねぇか」
真昼間からニゥが待っていたのは整備課の待機室。
四人乗りの自動移動車に乗って、のんびりとゲームをしていた。
「仕事はどうした」
「坊の送り迎えが仕事さ」
ジジイには昼頃に待機室に行けばわかるとだけ言われていた。
退院したのはいいが、仕事ができるほどの体力が回復したわけではない。
いつも通りに動くことは出来るだろうが、長時間ともなればやはりきつい状態だ。
「何処へ行くんだ」
取り敢えず手招きされるままに移動車に乗り込む。
ニゥの向かいの席に座ると、ゆっくりと動き出した。
「第百三格納庫。取り敢えず仕事に復帰する前に必要なものがあるだろう」
「ああ、それでお前が一緒なわけだ。仕事をサボるために立候補しやがったな」
病み上がりの人間を一人で行かせるわけにはいかないし、
百番台格納庫のカギは班長クラスしか持っていない。
当然班長は忙しいだろうし、貸出先も限られている。ニゥならばこの役割に最適だろう。
「一日中のんびりしてるだけで、仕事になるんだから楽なもんだよな」
「まぁそういう理由だと思ったさ」
「で、身体の方はどうなんだよ」
相変わらず視線は端末に落としたままだ。
さして興味もないのだろうが、格納庫に向かう時間つぶし程度にはなるだろう。
「あれから一週間くらい経ってるが、送ったメッセージの通りだ。別に調子は悪くない。
指先までそれなりに動く。しんどいのは体力的な問題だしな。
黒灰は普段の生活にはさして影響し無いらしい。今まで通りの生活ができるってよ」
「そうか、なら諦めないってことか」
「当然だろ。ようやく手掛かりを見つけたんだ。
死にかけたが、得られた手掛かりはでかい。
プロペラ機こそが、この空を制することのできる唯一の可能性だ」
第百十八格納庫に眠っていたハイテク機を改造して青空を目指す。
残りどれほどあるかもわからない時間を、全て注ぎ込む。他のものは何一ついらない。
お金も、地位も、名誉も、家族も、およそ人が求めるものなら全てを捧げる。
一瞬だけでもいい。あの分厚い雲を突き破って、青空に手が届くのなら。
「プロペラなぁ。よくあんな状況で持って帰って来たな。一歩間違ったら死んでたぞ」
「あんまり覚えてないんだよな。
咄嗟に思い付いたというか、そもそもなんであんなところに旧型機が眠ってたんだ」
「大昔に落ちたのがそのままになってたんじゃねぇか」
「いや……そこまで古いものじゃなかった」
タイタン内部に人が住み始めてから五百年近く経っているだろうか。
黒灰に覆われていたとはいえ、機体の劣化は数百年を越えたもののようには思えない。
ということは、あの空を飛んでいた者がいたということになる。
コックピット内に死体らしきものはあっただろうか。
ついこの前の出来事だが、うまく思い出せない。
ぼんやりと浮かぶ脳内の映像には、死体や衣服の様なものがあった形跡はない。
自動運転が搭載されているほどのハイテク機でもなかっただろう。
それに、墜落にしては機体の損傷は軽微だった。
つまり着陸したということ。操縦していた人間は……降りたのか。
それならば黒灰に埋もれて見つからなかったのも頷ける。
ただ、それにしてもタイタン以外に人間が生きていたという事になる。
大ニュースになったはずだ。人類はもはやタイタンにしか生き残っていないと言われているのだから。
だけど、そんな話は聞いたこともない。
「おい、着いたぞ」
「ん、ああ。すまん。ちょっと考え事をしていた」
外界に落ちていたあの飛行機について考えるのはまた後にしよう。
今はそれよりも優先すべきことがある。
ニゥがカードキーをかざして開いた扉の向こうには、ボロボロになった機体が一つ。
整備改造用に何機かの補助機が置いてあった。
「あれは……俺のヒュペリオンか」
「一応、黒灰の洗浄は終わっているが、それだけだ。
修理するよりも新しい機体の方が楽かもしれないぞ。まぁお前が決めればいいとさ」
「有難いね」
近寄ってみると、損傷は意外と激しかった。
左腕部が根元が失われていて、後部スラスターの接続部はひん曲がっている。
胸部とその他装甲があちこち損傷していて、補修するよりはすべて変えたほうが良い。
駆動部は黒灰を洗浄したおかげで油を指せば問題ないだろう。
外骨格は歪んでいるように見えないが、精査しなければならない。
「直すのか」
「直す方向でいきたいが、時間も装備も無駄だなぁ。愛着もあるんだが……」
「修理ってことにしとけよ。んでこの百三格納庫に通ってるふりをして百十八格納庫で飛行機を弄ればいい。
お前は作業が捗る、俺は仕事がサボれる。一石二鳥だろ」
呆れるくらい悪知恵の働く奴だが、その提案はアリだ。
暫くは仕事に復帰しなくても特に何も言われないだろう。
ヒュペリオンの改造と見せかけて飛行機の改造をするのなら今の内だ。
「取り敢えず必要な装備や部品を書き出していく」
「俺は手伝わないぞ」
「期待していないさ。その辺で好きにしてろ」
手のひらサイズのタブレット端末を受け取り、繋いだスキャン装置でヒュペリオンの全体データを取り込む。
不要部品や交換予定の装備を確認した後、補助機に乗り込んで、破損パーツを取り外していく。
ほぼ初期躯体になったヒュペリオンは、脆弱で頼りない。
動力部も最新のものを幾つか導入しておこう。もしかしたら飛行機の方にも流用できるかもしれない。
「後は……装備か。別に前のままでも構わないんだけどなぁ」
ヒュペリオンに装備させる整備道具は、必須のものを除けば各員が自由に設定できる。
ジジイの乗りこなすアラクネは六本腕を持つ異色のヒュペリオン。
第三班の班長は小柄で軽量だが、様々な機能を有した長い尾を持つ。
第四班の班長は逆に、堅牢で通常の二倍程度の大きさを持つ。
スコピオンとアルマジロと名付けられた二機体は、多くの班員から尊敬を集めている。
乗り手の数だけヒュペリオンがあり、挙げればきりがない。
名前がつくほどの尖っている機体を乗りこなしているのは数えるほどだが、
別にそういった名声が欲しいわけじゃないのだから、通常装備でもいいだろう。
「よし、こんなものか」
必要なものを全てリストアップしたら、班長の連絡先にデータを送っておく。
これで近日中にはこの格納庫に部品が揃うだろう。
「ニ、三日はかかるだろう。それまでは百十八番にでも行くか」
「そうだな、プロペラを向こうに搬入しておきたい」
「よし、その程度なら任せろ」
補助機に乗り込んだニゥがプロペラを持ち上げ、コンテナの中に下ろす。
行き先の設定されたコンテナは、行動開始の指示を出すとすぐ暗闇の向こうへと走っていく。
「俺たちも行くか」
ここまで来た移動車に乗り込み、何個か隣の区画にある百十八格納庫に向かう。
五分後に、久しぶりに飛行機と対面した。
「さって、こっちも腕が鳴るな」
入院している間に考えていた改良点が幾つもあった。
百十八格納庫には何故か、飛行機を整備するための大型機や工具が揃えてある。
型落ちでかなり古いものではあるが、これを利用しない手はない。
まず最初に、整備用大型機の動力を引き抜いた。
「おい、そいつがないと動かないだろう」
「百三から一機、補助機を持ってきてくれ」
「ったくよぉ、俺は小間使いじゃねぇんだぞ。しゃーねぇなぁ」
グチグチ文句を言いながら、来た道を戻って行った。
ニゥが戻って来る間にも、整備用大型機から必要な部品を次々取り外していく。
プロペラを回転させる動力としてエンジンまわりを、風防として軽量装甲を。
「持ってきてやったぞ」
「助かった。んじゃ、そいつを持ち上げて飛行機の方まで運んでくれ」
「はぁ? ……いいように使いやがってよぉ」
ニゥは指示通りに物を運んでくれた。
その間ずっと小声で何か言っていたが聞いてないことにしておこう。
なんだかんだ言って手伝ってくれているのは本当に助かる。
あっという間に整備用機体はただの乗り物型容器になった。
数十年から百年近く放置されていたものだ。別に誰に責められることは無いだろう。
「よし、次は飛行機の外部側を解体していくぞ」
飛行機のすぐ近くまで移動式足場を運ぶ。
コロがついており、人間が一人で押せば動く程軽量な単管の足場。
そもそも整備専用に作られていたのだろう。
四方から運んできたそれは、組み合わせるとどこの部品にも手が届くほど近く寄れる。
「随分と古い設備だと思ってたが、なかなか考えてあるな」
「昔の人達はこうやって階段を上って作業してたんだろう。
今じゃ大型の設備はそれに対応した大型機で行うのが通常だしな」
小型の部品を幾つも繋ぎ合わせて大型の部品を作っていた時代の名残だろうか。
今のタイタンの技術ならば、外殻だけであれば完成した状態で造り出すことも不可能ではない。
勿論中身は組み込まなければならないだろうから、少なくとも上下半分には分割できないと駄目だが。
そんなことをすれば想像を絶するコストがかかった上で、
完成品の品質はそう変わらないのだから無意味でしかない。
「で、何処まで分解するつもりだ」
「正直、完全に分解するのは無理だろうな。ネジの一本までばらしてから組み上げることは出来るだろうけど、意味がない。
飛行機の構造が知りたいわけじゃないからな」
ピピピっとタイマーの様な電子音が端末から鳴る。先程スキャンしたデータの取り込みが終了した音だ。
端末を無線で近くにあった数世代も前のパソコンに繋ぎ込む。
ホログラフィックウィンドゥも表示できない骨董品だが、取り込んだデータの解析程度なら出来るだろう。
「……いくら何でも古すぎるか」
手元にあった送信側の端末は既に送信完了になっているのに、パソコンの画面はロード中のままだ。
ディスプレイに表示された進行度は、数パーセントから一向に進まない。
「そんなガラクタじゃあ3Dモデルの取り込みは無理だろ」
「俺はソフト面は苦手なんだよ。機械そのものを弄ったりするのはそれなりに得意なんだけどな」
「先に言っておくが、俺もそいつに関しては全くの素人だ。
そもそも、整備課でその手の電子機械を弄れる奴は少ない。
基本的には大型設備の修理・改造が仕事だからな」
ニゥの言う通りだった。整備課の第三班・第四班はタイタンそのもののメンテナンスが主な職務。
技術者と名乗ってはいるものの、普段使いしている手のひらサイズの携帯端末でさえ、構造はあまり理解していない。
パソコンで飛行機のデータを拾い出しできないと非常に困ったことになる。
機体の強度計算や、飛翔可能速度、必要プロペラ回転数など、全ての計算が一切行えないという事だ。
飛ぶかどうかもわからない機体に乗って、ぶっつけ本番で外界に飛び出すのは自殺行為でしかない。
「何とかならないのか。新型のパソコンを持ってくるなり、必要なデータを持ち帰って処理するなり」
「新型のパソコンでも、この飛行機を飛ばすために必要な計算をするなら相当な能力が必要になる。
正直お前の給料では手も足も出ない。
必要なデータを持ち帰るのは簡単だが、メインシステムに繋がってる整備課のパソコンでもつかって見ろ。
一瞬で足がついて、最悪はこいつがスクラップ行きだ」
ニゥが顎で示した先にあるのは、銀色の機体。
タイタンで生活するうえで守らなくてはならないルールがいつくつかあり、
基本的にタイタン外での活動は整備を除いて全て禁止されている。
外界に出るための、ましてや空を飛ぶための飛行機など所持しているだけで厳罰となるだろう。
今はまだ見つかったところで言い訳ができる。たまたま百番台の倉庫で見つけてしまっただけだと。
しかし、実際に空を飛ばすためのシミュレートを行っていることがバレてしまえば、隠しようがない。
「実際どうなるんだろうな」
「さてね、いざとなったら俺はお前に脅されたことにするから関係ないな」
「……お前が来るのを反対してたら、そうなってただろうな」
今目の前にある飛行機は、青空を求めて止まなかった俺に与えられた千載一遇のチャンスだ。
この機を逃せば二度と手には入らない。何としてでも、こいつと共に飛ぶ。
そのためには、自分の力だけでは足りない。
「誰か知らないのか」
ニゥは班長の息子だけあって、班員のこともそれなりに詳しい。
立場をうまくいかせずに嫌われているわけだが、俺よりもよっぽど皆の事を知っている。
「パソコン関係なぁ……一人、いないでもない」
「誰だ、それは」
「先に言っておくが、紹介は出来ないし保証も出来ない。なにせそいつは第四班だからな。
あの堅物の班の人間が黙って手を貸してくれるとは思わないが、技術は整備課イチだろうな。
お前も名前くらいは聞いたことあるだろ。フィロード。チビのフィロード」
「あぁ、第四班の小柄な奴か。確か俺らよりも一つか二つ年下だったか」
整備課に所属している人員は、その仕事の性質上体が大きい方が多い。
ジジイのように背が低くても、筋力は平均以上についている。
サボり癖のあるニゥですら、一般的な住民と比べればガタイがいい方だ。
ただ、その中で第四班にひときわ異彩を放っていた少年がいたのを覚えている。
小柄で線が細く、およそ力仕事なんて出来なさそうな後ろ姿。
数か月前にあった合同修理で見かけた時は、親方に怒鳴られながら必死に仕事をしていた。
「あいつが何で整備課にいるのかはわからん。が、携帯端末をバラして改造してたのを見たことがある。
タイタンの整備システムおかしくなった時も、あいつが応急処置をしたらしいと親父から聞いた」
「なんとか声をかけてみれるか」
「俺はごめんだ。俺がやったらお前と同罪になっちまうからな。
ここまで教えたんだ、お前がやれ。……これは独り言だが、休日はほとんど家にこもりっきりらしい。
月に一回、月末の休日だけはどこかに出かけているようだがな。
運がいいな、お前。明日がそうだ」
そんなヒントでどうやって探し出せと言うのか。
言いたいことだけ言ったニゥの視線は、もう手元のゲームに落ちている。
これ以上は話すつもりがないと無言の返答を受けて、取り敢えずタイタンのマップを開く。
宿舎周辺のホログラム映像が浮かぶ。
恐らく出かけるとすれば公園ではなく、商業区画だろう。
商業区画は大別すると購買施設、運動施設、娯楽施設の三つがあるが、
何処に行っていてもおかしくはない。
可能性が一番高いとすれば娯楽施設だろうが、休日には数千人が出入りする区画だ。
出入り口で見張っていたって見つけることは出来ないだろう。
ある程度当たりをつけておかなければならない。
パソコンが得意、運動が苦手な人間が定期的に出入りする場所。
月末の休日……なにかのイベントだろうか。
イベントの項目をタップすると、明日行われる予定のイベントリストが表示される。
読んでいてもさっぱりわからないものばかりだ。
なんかのゲームの大会だったり、有名人のサイン会だったり。
ついこの前まで入院していたこともあって、何年間も眠っていたかのような気分になる。
「わっかんねぇよ、引きこもりの出かける先なんてな」
話したことも無い人間が休日に何をしているかなんて考えたところでわかるわけがない。
ならば当日になってから、足で探索あるのみだ。落ち切っていた体力を回復させるにはちょうどいい。
「ほんと、馬鹿正直な奴だなぁ。人が増えればリスクが増える。
本当は教えるつもりは無かったけどよ……アンダーっていうバーに行けば分かる」
「お前……意外といい奴だったのか」
「っけ! 俺は俺がやりたいことをする。今回はたまたまお前とその方向が一緒なだけだ」
「助かった。そういえば、格納庫に入れてもらっている礼もしてなかったな。
今度何か用意させてもらう」
「このゲームに必要な課金カードでいいぞ」
携帯端末を振るう。
見たことの無い女の子のキャラクターが、こちらに向かってウィンクをしている。
しょっちゅうゲームをしているが、その中身を気にしたことは無かった。
まさか硬派を気取っているニゥが、あの手のゲームをしているとは思いもしなかったが。
意外に親切なニゥのおかげで道は開けた。
再び飛行機に向かい合ったと同時に、端末があらかじめ設定していた時間を報せるアラームが鳴る。そろそろ、業務が終わる時間だ。
思っていたよりも集中して飛行機の改造をしていたらしい。
「そろそろ帰るか」
「そうだな。それじゃ、週明けにまた百三格納庫に行くよう段取りをしておく」
「ああ、頼む」
散らばったままの第百十八格納庫を出て、帰り道を設定した移動車に二人で乗り込んだ。
数十メートル進んだあたりで、冷たい鉄の扉が閉まる音が響いた。