〈勇者〉と体育大会と
先日のあれは夢や幻の類だったのだろうか。
この一週間ほど、とあるクラスでは一人の少年にいつも以上の視線が向けられていた。
伊吹のクラスなのだが。
結局、あの時間は伊吹が縄を回し続けた。
クラスの記録はその後も徐々に伸び続け、今年も学年一位を目指せるところまで引き上げられていた。
だが、後日の練習からはいつも通りの配役に戻り、長時間の練習も無かったから、代役の出番が来ることも無いまま。
元の回し手でも同様の回数を重ねられるようになっていたのがまた、クラスメイトが伊吹に何か言いにくい雰囲気を作っていた。
そんなこんなでいつも通りに、伊吹は誰とも話さないまま体育大会の日を迎えることになる。
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お揃いのハチマキを巻き、有志が作った旗を先頭に並ぶ。
伊吹が関わらない間にクラスの皆が団結を高める儀式は着々と進んでいたようで、それは伊吹のような人種には開会式を契機に突然表面化したように思わせる。
そんなもんだよな、と背の順列の後ろの方で伊吹は今日もぼんやりしていた。
中学の時、クラスの中心で騒いでいた頃はあちら側だった。
気の置けない友人達がいて、何を騒いでも誰かが拾ってくれる恵まれた環境だった。
今になって彼はあの環境が、無意識の間に己で積み上げていた、尊いものであったのだと自覚している。
今は、こちら側だ。
クラスが輪になって熱を帯びる、その外側。
あちらへ下手に飛び込めば、全体の熱量を下げてしまう。
上手くやれなければ、外側に放り出される。
この前の回し手に立候補したのだって、ぎりぎりだったと振り返ってみれば思う。
平川からの電話があと二週間早ければまた話も違っていたのだろうが、今はなかなかクラスの一団に割って入るのが難しいと感じていた。
それだからむしろ、クラスメイトたちに水を差さなくてもいいだろうと思っている。
大縄の時は回し手の彼が困っていたし、自分でもこなせる単純な仕事だったから立候補したが、クラスの中での役割というのは目に見えないだけで複雑なのを理解している。
三年生の代表が勉強からの逃避を高らかに宣言し、選手宣誓が終わる。
列が開いて、ウォーミングアップ代わりのラジオ体操の時間がやってきたから、伊吹はそれを真面目にこなした。
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「がんばれー!」
「いいよっ! 行ける! 行ける!」
プログラムは次々に進んでいく。
メイントラックを囲むようにクラス別の応援席が設けられているが、競技待機での移動や部活の仲間や後輩の応援で、それぞれに散らばって生徒たちは声を上げていた。
伊吹もそんな流れに乗じて、グラウンドの端の日陰の方に身を寄せていた。
まだ五月中旬だったが、照りつける陽射しはできるだけ当たりたくないと思わせる強さだった。
周りにはスマホや参考書を見ている他の個人主義者たちもいたが、伊吹は陸上トラックの方をひたすらに眺めている。
聞き馴染みのあるものより余程軽い銃声と共に、二年女子の選抜リレーがスタートするところだった。
クラスの第二走者は坂口莉央だった。
背が高く、細身な彼女が長いストライドで周囲の走者と競り合い、一人抜いてバトンを渡した。
走る間にはクラスメイトや同級生、部活仲間からおそらく走者でも一番の声援を受けていて、その姿をやけに眩しく感じる。
伊吹は自分の時ではああならない、と一人自嘲する。
先日から、ああいう景色に心を引っ掻かれがちだ。
「女子600メートル走、男子800メートル走の出場者は入場ゲート付近に集合してください」
グラウンドに響くアナウンスが伊吹を呼んだ。
日陰にいた他の二、三人が動き出すのと同時に伊吹も集合場所へ向かっていく。
その道中でまた、銃声が鳴る。
同学年の男子達が迫力ある走りを見せつけていき、アンカーまでミス無くバトンを渡していく。
伊吹のクラスのアンカーがバトンを受け取り、直後に二人を抜き去って行った時、グラウンドには今日一番、黄色い悲鳴混じりの大歓声が響き渡った。
サッカー部のエースが笑顔でトップフィニッシュしたのが、伊吹の視界の端には映る。
頭には同じ色のハチマキが巻かれていた。
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「この次終わったら大縄だよ、結依」
「うん、莉央ちゃん、がんばろうね」
その後に行われる三年生の選抜リレーの間に、クラス応援席には続々と人が戻ってきていた。
午前最後の種目である大縄跳びには、ゲートからではなく、クラス応援席からそのまま入場することになっているのが理由だ。
「次は600かあ」
「中距離走った後に大縄ってきっついよね」
「私だったら無理だなぁ」
「ひよりんが居て助かったわー」
ひよりん、というのは伊吹たちのクラスの女子陸上部員で、クラスで最も背の低い女子だ。
専門は長距離で、スピード走の練習にもなるからと自分から人気の無い600メートル走に立候補していた。
「あ、二年の番だ」
「ひよりーーーん! ファイトー!」
結依の頭を通り越して、莉央が声援を送った。
「中島さんがんばれー!」
「行ったれー!」
「「いよっ、俺達のひよりん!」」
「なにそれ」
クラスメイトからも、スタートラインに立った中島ひよりに男女関係なく声援が飛ばされる。
彼女は人懐っこい性格で、男女とも友人が多い。
号砲が鳴ると、ひよりは先頭を走った。
走者には運動の苦手な者もいて、独壇場が生まれる。
「さっすがひよりん! 行けー!」
「今年、俺たち優勝いけるんじゃね?」
「大縄と全員リレー次第でしょ」
順位が分かりやすく見えたレースの間はそれほど盛り上がることも無く、ゴールする頃にはもう他の話をしている者も多かった。
他のクラスを見れば、何人かはきちんと応援しているが、多くは自分たちの写真を撮るのに夢中だったりである。
そんな中で男子の番が近づくと、謎の緊張感に包まれるクラスがあった。
言うまでもなく、伊吹のクラスメイト達である。
「次誰が走んの? 男子知らない?」
「わからん、誰がいねえ?」
「列見ろ、列」
「進藤だよ」
「進藤か……」
全くの未知数がレースに参加していた。
数人を除いて地味なメンツが揃った八人の走者の中でも、さらに誰もが彼の実力を知らない。
「あいつ走れんの?」
「この前大縄回すのめっちゃ上手かったよな」
「いや関係ないじゃんそれ。体育で見てないの、男子」
「え、あいつ、体育の選択何?」
「分かんね、最初の二回休んでたと思う」
「去年は?」
「去年もほとんど居なかったし、出ててもサボってたよ」
「……」
「……」
その進藤伊吹が走るらしい。
この前の大縄の件もあり、今はクラスの中で注目を集めやすくなっていた。
そんな集団の先頭でスタートラインに並んだ伊吹を見守っているのが、奇しくも縁のあった結依と莉央だった。
「進藤くん、足速いのかな?」
「去年の体育大会も居なかったんだよねー」
号砲が、鳴る……!
****
「打ち上げの詳細グループに書いてあるからー!」
「いぇーい、遅れんなよー!」
「スタンプ押してない人も予約ちょっと余裕あるよ」
まだ興奮の抜けきっていないクラスメイト達が、大きな声で連絡を取り合う。
体育大会は閉幕していて、クラスは学年優勝の座を勝ち取ってテンションが高い。
結局、伊吹は注目を集めた割に活躍はしなかった。
個人種目ではトップを争った運動部員たちからしばらく遅れての四位で、学年二位だった大縄跳びでも真ん中で飛んでいただけ、続く午後のリレーでも後ろの方の走順で三位のバトンをキープしたまま受け渡した。
結構走れるんだな、というのが周りの印象だったが、それをわざわざ褒め称える程のものではなかった。
……まあ、こんなもんだよな。
持ってきたのが水筒やタオルだけだったために容量が空いていたバッグへ副教材を詰めながら、一人で満足する。
クラスの輪の中に飛び込む決断をしていない今は、無闇に自分の身体能力を晒さないことだけに専念していた。
中学までは運動部だった帰宅部にはちょうどいい順位を狙って取ることぐらい、伊吹には造作も無いことである。
クラスの中心ではしゃぐのも楽しそうだとは思うが、周りより四年ばかり長く生きていてかつ、その四年が有り得ないぐらいに濃密で非日常だった伊吹は未だその場に戻ろうとは思えなかった。
少しだけ周囲を見てから小さなため息を落とすのは精神的にくたびれている、とでも言うべき姿である。
「おう、良いもん持って来たぞー」
「うえっ、せんせーそれ何!?」
「まじ? アイスじゃん!」
担任の馬場が体操着のままの格好で教室に入って来たが、その手にはビニール袋が携えられていた。
クラス内のテンションが一気に上がる。
「職員室からの差し入れだ」
「先生さいこー!」
「これは未来のお嫁さんがほっとかない!」
「カッコカリだけどな!」
「おいそこ、要らなかったか?」
「要る要る! 結婚して!」
大縄跳びでは規律正しく団結したクラスが、今度は無秩序に馬場の所へ向かっていく。
何を言わずとも早い者勝ちらしかった。
最初の方に割り込む気概もなく、伊吹は席で様子を伺う。
けれど、貰えるアイスを逃すつもりもなかった。
アイスの袋を開けるクラスメイト達がそれぞれに散らばって写真などを撮り始めた後、伊吹も前に向かおうとする。
「し、進藤くんは何にするの?」
そのタイミングで、少し緊張した声がかけられた。
これまでと違って必然性の無い会話の発生に驚きつつも、無視する理由もなく、答えを返す。
「……余ってるからぶどうかな」
「い、いいね、ぶどう」
「あー、成瀬さん食べる? ぶどう一個だけ」
「いいよ、いいよ! 進藤くんが」
「そう、なら」
二人が雑談しているのは教室の一番前、つまり一番目立つ場所である。
クラスで一番目立たない男子と、可愛らしいルックスに男子の中で一定の評判のある成瀬結依が話しているのは、それなりに目を引いた。
「ほほーん」
「どしたの、莉央」
「いやあね。……ふーん」
SNSにアップするショート動画を撮り終わった莉央も、二人の様子を捉えていた。
皆がアイスを食べ終わり、馬場が締めたところで、今日は解散となる。
友人も居ない打ち上げに参加するつもりもない伊吹は下駄箱に近い後ろのドアからさっさと教室を出ようとした。
「進藤くーん、おつかれー」
「お疲れ様っ、進藤くん」
背中から、また声が。
坂口莉央と成瀬結依の名前は既に覚えていた。
「お疲れ様」
微笑み返すように、今度は素のままの進藤伊吹が答えた。
そのまま去っていく伊吹の後ろで、莉央は驚きでしばし呆けて、結依は顔を赤くした。
素のままの進藤伊吹とは、異世界で三年間で勇者としての振る舞いを身につけた姿である。