〈勇者〉のゴールデンウィーク前日
進藤伊吹が勉強を始めた。
この一週間ほどのことだ。
そのことに、進藤が所属する二年二組の担任である馬場貴明は拍子抜けしていた。
昨年の進藤の担任からは引き継ぎに際して、あれはもしかするとどうにもならないのでは、と言われていたからだった。
度重なる遅刻、早退、欠席。
集中していない授業態度と振るわないテスト結果。
注意をしても「以降気をつけます」の一点張り。
面談を重ねても態度は変わらない。
時にはその面談の予定さえすっぽかす。
両親に話を通してみても、進藤の行動を謝罪はするが、否定はしない。
馬場はそんな話を聞いていた。
そもそも、伊吹の行動の理由すら教師たちには分からないのだ。
非行に走っている様子はない。
普段の服装検査や持ち物検査などにはまったく引っかからないし、補導をされたこともない。
無気力な生徒なのかもしれないとは誰もが思った。
しかし、連続して休みに入ることもなかった。
正答率は置いておくにしても、各教科で宿題だって出している。
不思議な、ともすれば不気味な生徒だった。
その彼がすすんで勉強をするようになっていた。
今年も最初の二週間では回数を重ねていた遅刻や早退が、この一週間ではゼロになっていた。
何があったのだろうかと職員室でも話題にされた。
だから生徒指導の一環として、馬場は話を聞いてみた。
デリケートな話題になるかもしれないから、あまり気にしてないように廊下で少しだけ、何かあったのか、と。
返す進藤伊吹は言葉を探しながら、少しだけ、とはにかんだ。
悪い様子ではなかった。
馬場にとっても、悩みの種が減るのなら嬉しいことである。
****
「ああ、進藤」
帰りのホームルームの前、廊下のロッカーに教材をしまっていた伊吹は担任の馬場に声をかけられる。
自分はあまり関心を持っていなかったが、気さくでハキハキとしていて生徒から人気のある教師だ。
「なんですか?」
「いや、最近、勉強頑張ってるみたいだな」
「あー、はい。少し」
「去年から話は聞いててちょっと心配してたんだが、大丈夫そうでよかった。……何かあったのか?」
伊吹が担任から心配されることは珍しくなかった。
去年の担任にはひどく迷惑をかけてしまったことは伊吹も自覚している。
だがしかし、〈勇者〉であることを秘密にしている時点で必要な犠牲だったと割り切ってしまっているのが伊吹だった。
誰も彼もに迷惑や心配をかけずにいられるとは思っていない。
そんな伊吹も〈勇者〉の仕事が無ければ、人並みの良心がある。
事情は話せないが、心配を突き放すようなことはしない。
「はい、少しだけ」
「そうか。ゴールデンウィークが明けても頑張れよ」
それだけで馬場は去っていった。
伊吹は彼の言葉で明日からゴールデンウィークだということに実感を持つ。
ホームルーム中は上の空になりながら馬場の話を聞いていた。
一応、連絡事項は聞き逃さない程度に。
ゴールデンウィークは長期休暇とも言えないが、それでも長く休める時期だ。
今年のは三連休の後に二日間学校があって、また四連休という形である。
去年のこの時期は何をしていたか、伊吹は思い出してみた。
三月の中旬から〈勇者〉を始め、学校に通いながら〈勇者〉をするのに慣れた頃だっただろうか。
ああそうだ、転移陣を刻むのに全国を回っていた、と思い当たる。
それから、〈勇者〉の呼び名が広く知られるようになり始め、平川から最初のコンタクトを試みられたのがこの辺りだったはずだ。
まだ自力でネットなんかの速報を見つけて現場に向かっていた時期であった。
つまり、去年のゴールデンウィークは退屈する時間など無かった。
一日中速報性の早いサイトやSNSに張り付いて、ダンジョンやモンスターが現れないか警戒していた。
実際に昨年は何度と無く〈勇者〉は出動している。
モンスターに休日の概念など無い。
しかし、今年は違う。
……何をしようか。
流石の伊吹も連休中も勉強漬けにしようと思えるほど勤勉ではなかった。
学校で出された宿題は既に進めている途中だが、真面目に教科書を振り返りつつ取り組んでも七日間は埋められない。
悩んでいるとホームルームが終わった。
明日からの休日にクラスがいつも以上にざわめいている。
遊びに行く予定を自慢するような声や、高校総体の予選があるなんて声が伊吹にも聞こえてきた。
友達もおらず、部活もしていない彼にはほとんど関係のないことのように思えたが。
……部活なぁ……。
中学時代を思い出す。
伊吹は小学生の頃からサッカーをしていた。
あまり上手でもなく、中学もサッカーが強い学校でもなかったが、仲のいいチームでやるのは楽しかった。
今通っている高校のサッカー部は進学校にしてはなかなかやるところと聞いていて、頑張ってみようと思っていた時期もある。
「航希、応援行くよー」
「マジで? 頑張らなきゃじゃん。なあ、潤哉」
教室の廊下側から、会話が聞こえた。
サッカー部で二年生エースをやっているクラスメイトが、同じく試合に出ているらしい背の高い他のクラスメイトに言っている。
彼──水野航希は、サッカーをしている同年代では有名であり、私立の強豪に声をかけられている選手だと伊吹も噂で聞いていた。
学校では誰にでも気さくに振舞って、クラスを盛り上げている存在だ。
伊吹は去年も同じクラスだった。
女子と楽しそうに話している彼に目を向けていると向こうも視線に気がついた。
しかし、合った視線はすぐに逸らされる。
「……」
伊吹が昨年の春の話を思い出せば、彼の行動にも納得がいった。
相手を考えずに冷たく振り払ってしまったのはかつての自分だ。
言ってしまえば、伊吹が一人でいるのは自業自得なのだ。
〈勇者〉という重責を全うするのに精一杯で、あまりにも偏りすぎ、相手を慮るに至らなかった最近までの彼のせいだった。
そして、それに気づけない彼でもなかった。
伊吹はバッグを持って教室を出る。
****
「メッセ?」
その晩、早速ゴールデンウィークの宿題に取り掛かっていた伊吹のスマホに通知があった。
スマホの通知といっても、それは平川や戸部からのものでは無いのは開かずとも分かる。
おそらく両親か、中学の頃の友人だ。
彼はスマホを二台所持している。
家族から支給されている伊吹のスマホと、平川に手渡された〈勇者〉のスマホだ。
後者の通知には今でも早急に対応できるよう、無駄なアプリや連絡先は入れず、肌身離さず持ち歩いている。
メッセージが入っていたのは伊吹のスマホだった。
この日本に帰って来てからはニュースを見るか、音楽を聞くか、時計がわりにしか使っていないそれに誰かから連絡が来るのは久々だった。
「北斗からって、珍しい」
メッセージアプリを開くと、送り主は中学の頃の友人だった。
倉田北斗という。
近所の高校に行った元チームメイトだ。
卒業後に連絡が来るのは初めてである。
『明日暇?』
『お前の学校と試合』
『俺も出れそー』
一連のメッセージの後には、トーナメント表の画像が添付されていた。
彼の学校が一回戦から伊吹の学校と当たるらしい。
会場も伊吹の学校だった。
……おお……!
少し感動していた。
プライベートな予定が入り、それに行けるだなんていつぶりだろうか。
高校入試の合格祝勝会を兼ねた集まりには、体調不良と偽ったことを覚えている。
だから、それ以前だ。
しかし、そんな心の内は表に出さない。
『暇。行く』
素っ気ない返信だけを送った。
『まー、勝てるかわかんないけど』
『なら勝ってる方応援する』
『なんだよそれw』
北斗と彼の部活の話を中心に、他愛もないやりとりを交換する。
北斗の学校には他にもかつてのチームメイトが二、三人いて、さらには中学の同級生がマネージャーをしているらしい。
自分の学校内の話すら知らない伊吹には、一年を経過して初めて知る事情だった。
それで結構な時間が進み、次の日が試合である北斗が寝る時間になってトークが途切れる。
「ふぅー……」
伊吹は満足感に浸っていた。
気軽な会話の記憶すらあいまいになっていた。
異世界のころ、向こうでできた友人とはくだらない話をした。
けれど、〈勇者〉であると隠すようになった高校生活では本当になくなっていた。
馬鹿らしくなるぐらいに張り詰めた日々が続いていた。
「早く寝よ……」
試合開始が毎朝の登校より早いなんてことは無い。
むしろ画像に記載されていた時刻は格段に遅かった。
しかし、寝坊だけはしたくなかった。
伊吹は部屋の明かりを消すと、ベッドに潜り込んだ。
****
翌朝、五時半に目を覚ました伊吹は身支度を整えてから時間潰しに宿題をこなした。
一日目にして既に相当の量が終わっていて、得意な社会や英語を残すのみになっている。
「休みなのに制服?」
「あー、ちょっと。うちでやる北斗の総体の応援、行ってくる」
「あら、そう」
仕事が休みの母親──真由美より余程早くに起きている。
朝食を食べる真由美は事情を聞くと、少し目を丸くした。
それから鏡で服装をチェックしている息子を見て、自然と顔が綻んでいた。
「今日は暑くなりそうね」
「うん」
別に伊吹がニコニコしているとかではなかった。
ただ、身に纏う雰囲気が以前のものだったという、それだけのことだった。
それが真由美にとっては、無性に嬉しく感じてしまったのである。
食べかけのトーストを皿に置いた。
「伊吹、水筒も持ってきなさい。あと、タオルと準備してあげるから」
「いいよ、自分でやるから」
彼が断わるのを断って、真由美は水筒にお茶を準備する。
一年前の、違う世界に行っていたという告白には衝撃を受けた。
だがしかし、息子がこれまでと全く異なる表情を見せるようになっていたことに気づいていた真由美は、疑うことなく受け止めた。
その前日までとは打って変わった大人びた言葉や態度の数々に尋常ならざる何かがあったことは一目瞭然だったからだ。
それからも息子は〈勇者〉として戦い続けていた。
その行動は立派だったのだろう。
力あることを自覚し、混沌とする日本で人々の希望として立ち続けた。
誰にでもできることでは無く、やり遂げたのは誇らしいことなのだろう。
けれど、頭で理解はしていれど、心まで納得はできなかった。
息子が楽しそうに笑う姿など、この一年見ていなかった。
〈勇者〉に対する言われなき誹謗中傷が飛び交っていることも知っている。
〈勇者〉の立場が、本来あるべきだったはずの伊吹の生活を奪う不幸を呪っていた。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
「気をつけてね」
「うん」
この一年は何も言わずに家から居なくなっている日がほとんどだった。
学校に行く時も、彼はずっと表情が硬かった。
だから今、楽しそうな息子を送り出せるだけで真由美は幸せを感じてしまっていた。
日本から〈勇者〉が居なくなって一週間。
そろそろ世間が騒ぎ出しそうなのを、真由美は察している。
……けど、ねえ。
意気揚々と駅へと向かっていった息子の姿に、そんなことは知ったものかと言いたくなる自分がいることに、真由美は笑ってしまった。
ありがとうございました。
明日も更新します。
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