〈勇者〉は勉強から始める
伊吹は視線に慣れている。
異世界では殺気に塗れた数千の視線を一身に浴びていたし、世界を助けた英雄として万の視線も向けられた。
この世界でも〈勇者〉として活動している時にはヒーローを見る目で住民に見られる。
しかし、今日ばかりは居心地が悪かった。
特定の誰かに見られているのはあまり落ち着かない。
決して熱烈にずっと見られているわけではなかった。
ただチラチラとこちらを気にするような視線が定期的に送られてくる。
なまじ伊吹がそれに気付いてしまう性質だというのも具合が悪かった。
……朝のこと、だよなぁ。
視線の主は伊吹にも分かっている。
名も知らぬ、電車が同じだったクラスメイトだ。
彼が助けた、とも言えるだろう。
そんな彼女は伊吹が教室に遅れて入って来た時からずっと彼を気にしている。
理由は簡単に察せられた。
休み時間に入るチャイムが鳴る。
一限目の数学の授業には当然身が入ることなく、伊吹は何をしているのか分からない黒板を眺めながらぼーっとしていた。
頭の中で行われているのは数学は苦手であることの再確認と、勉強を頑張るべきだな、という意思決定だ。
数学もちゃんと取り組もう……もうちょっと基礎のところから。
などと伊吹が堅実かつ弱気な答えを出したところで、再びの視線に意識が向いた。
振り向くべきか否か。
少し迷うところではあったが、特に気負いなく振り向いた。
目が合う。
むしろ向こうが驚く。
隣にいる彼女の友人もそれに驚く。
伊吹は反応に困ってしまった。
……えーと?
こういうところで自分から声を出さないのが伊吹だった。
喋るのが特別苦手なわけではない。
朝の駅員室ではキチンと詰まることも無く、説明をこなしている。
ただ教室で気楽な声を出す、というのに抵抗があった。
この一年間、無意識に刷り込まれていたらしい。
中学の頃はよく騒いでいる側の生徒だったはずなのだが。
何人かの生徒が二人の視線のやり取りに気が付いた。
これには理由があった。クラスメイト、進藤伊吹が後ろを振り向くという行為が教室の中では特異に写ったのである。
それだけで何があったのか、それなりに興味を引くのが伊吹の特殊性だった。
……見られてるなあ。
向こうはどうやら視線に強い質ではないらしい。
自分に声を掛けようとしていたのだろうが、周りの目を集めたことで少し怖気付いてしまったらしい。
思案する。
このままというのも嫌だった。
何か物言いたげにされ続けるというのも落ち着かない。
それから打開策を思い付き、彼は廊下に出た。
目的地は廊下に並べられている個人用のロッカーだ。
開けっ放しだったドアを出る時、クラスメイトにもう一度視線を返すのを忘れなかった。
それだけで伊吹の意図した通りの動きはしてくれた。
廊下であれば周りの目も少しは和らぐだろうという伊吹の配慮が明確に伝わったかは分からないが、彼女も廊下に出た。
事情を知らない隣の友人も、何事かとこっそり着いていく。
ガサゴソと次の世界史の副教材を取り出す。
普段取り出していないため、少し奥の方にあった。それで十分な時間は稼げたらしい。
「あの、進藤くん!」
震える、緊張した声だった。
少し硬めの髪を三つ編みお下げにする、やや小柄な大人しい少女の声に似合う、少し高めの声である。
「何?」
「え、えっと」
対する伊吹の地声はそう低い訳でもないのだが、抑揚が小さいせいで低く聞こえる声だった。
つまり、不機嫌そうに聞こえる声だ。
伊吹は普通に返したつもりでも、クラスメイトの彼女は少し言葉に詰まる。
だが、彼女は言うべきことはちゃんと言える性格だったらしい。
「あの、朝の……えーと、ありがとう、ございました」
彼女は頭を下げる。
朝の電車では自身も初めて被害に遭ったことにパニックになっていて、伊吹が男を引きずり出してからもその場から動くことができず、礼を言うタイミングを逃していた。
「ああ、うん」
副教材を片手に持ちながら、伊吹は素っ気ない返事を返す。
やはり不機嫌にも聞こえクラスメイトの彼女を不安にさせるような返事だが、特に感謝されることでもないと思っている伊吹だから害意はない。
理由は分かるが別にそう仰々しくなくても、という気持ちだった。
「え、結依、朝やっぱなんかあったの?」
「あっ、えっと、ちょっとね」
友人同士の会話が始まった、と伊吹が判断する。取り出した教材数冊を抱えて、そのまま教室に戻っていった。
クラスメイトの彼女──成瀬結依は、まだもう少しお礼をと思ったが、友人である莉央に問い詰められてしまい叶わなかった。
結依は見た目通りの押しにあまり強くないタイプだった。
朝のことをどう話そうかと結依が悩んでいると、次の時間の担当が廊下を歩いて来るのが見えた。
いつも時間ちょうどに教室に入ってくる、世界史の先生だった。
「莉央ちゃん、時間になっちゃうから」
「やば」
二人は急いで教室に入る。
まだ四月の中頃ではあるが、今日まで無遅刻無欠席が続く二人だ。
伊吹と違って時間はしっかりと守るタイプであった。
****
「それで、進藤くんが?」
「う、うん」
坂口莉央には意外な話であった。
昼休みになってから結依に詳しい事情を聞いた。
彼女をひとしきり心配して、加害した男に憤り、少し落ち着いた後の発言がさっきのものである。
進藤くんが誰かのために動くなんて、というのが彼女の正直な感想である。
莉央は去年から伊吹と同じクラスであり、入学当初からクラスで一人だった伊吹が気になって話しかけたこともある。
その時の反応も先ほどのようなぶっきらぼうな返事ぐらいで、話を盛り上げようとしてこないのが伝わった。
ノリが悪い、そう思ってしまうのも仕方がないだろう。
それから一年同じクラスで、今年もまた同じクラス。
だけれど、今年は話かけるようなことはしていなかった。
彼は明らかに人との時間を作ることを避けていて、一人で居ることを選んでいた。
理由不明の遅刻欠席は多いし、時には誰にも知らせず早退する。
さらにはここはそれなりの進学校だというのに勉強も疎かにしているし、他の場所での交友関係も一切見えてこない。
少しばかり不気味だった。
それで莉央はそういうタイプなら仕方が無いと思うようになって、そっとしておくようにしていたのだ。
最も的確で理性的な判断だったと言えよう。
そんな彼女だから、結依の話は半ば信じられないものだった。
もちろん、自分の一番の友人が嘘をつける性格だとは思ってはいない。
「ふーん、やるじゃん」
あのサボテンくんがねえ。
などと、雰囲気がトゲトゲしている割にいつもクラスの背景になっている目立たないクラスメイトを賞賛しているのだか貶しているのだか分からない評価を送る。
「結依、進藤くんのこと好きになっちゃったり?」
「そ、そんなことはないよ?」
進藤くんちょっと怖いし、と結依が付け足すように呟く。
莉央も「そだね」と頷いてしまった。
結依はそもそも男性を得意としていない。
生まれてから未だに恋をしたこともないと莉央には話している。
莉央としてはそういった純朴なところが可愛らしく、居心地が良いから仲良くしているのだが。
「まあ、そうだよねー」
件の観葉植物系男子の方に二人は目を向けた。
休み時間だというのに、何やら教科書を読み込んでいた。
「珍しいね、勉強してる」
「ほんとだ」
そんな会話を引き出すほどには、伊吹が勉強していないことは知られていた。
他の何かをずっと考えているような、うわの空な授業中の姿は結成して二週間のクラスでも既に見慣れた風景である。
何かあったのだろうか、莉央は訝しむが、真相に行き当たることは無い。
****
後ろの方の席で自分が話題にされていた。
そのことには伊吹も気が付いていたが、朝の話をすることになれば自分の話にもなるだろうと納得している。
自分のことが口端に上がるというのにも慣れたものだ。
「大阪でダンジョン出現だってさ」
「マジで? めっちゃ都会じゃん。〈勇者〉は?」
「いや、今日も特地隊」
こんな風に。
いちいち気にしていては仕方が無い、そういう風に思えるのだ。
人々に進藤伊吹と〈勇者〉がイコールで結ばれることは無いが、伊吹の中ではどちらも自分のことでしかなく、もう気にしていない。
気にしていてはやっていけないのは、異世界勇者の頃から痛感していた。
だから、気にせず教科書を読んでいた。
教科は先ほどまで授業がされていた、世界史だった。
伊吹はまずは勉強から始めようと決めていた。
通っているのは進学校であるし、特におかしなことではなかった。
むしろこれまでがおかしかったと結論づけている。
勉強を始めるのに世界史は都合がよかった。
元々伊吹は社会科が苦手でなかったし、世界史は二年生から授業が始まった教科だから挽回しやすい。
まだ中間テストまで時間があり、それまでには追いつけるだろうという見立てだった。
事実、先ほどの時間でこれまで進んでいた分の教科書の読み込みは終えている。
一人での勉強に華は無いが、何をしていいか分からない虚ろのような日々を送るよりマシだ、というのが伊吹の結論だった。
この学校からだと大学に行かない訳にも行かないだろうから、勉強が役に立たないということもないだろうと思っている。
もっとも、〈勇者〉である伊吹には手堅い就職先もあるだろうが。
チャイムが鳴った。次の時間は英語だ。
……英語は、なあ。
深く図表も読み込もうとしていた世界史の教科書を手放すのを惜しく感じる。
伊吹が最も苦しむだろうと結論を出している教科が英語だった。
もともとあまり得意でなかったし、中学から人より余程ブランクがあるために、覚えている単語の数が絶望的に少ない。
……まあ、頑張るか、一応。
机の上の教科書を引き出しの中のものと入れ替え、中身を覗いてみた。
ある程度真面目にやっていた中学の頃のそれより余程細かいアルファベットの羅列が目に飛び込んでくる。
一度、教科書を閉じる。
……聖剣の力借りていいかな。
あれを握っていれば異国の言葉だって理解できるのに、と思ってしまう。
これも基礎からだな、と、本日二度目の堅実かつ弱気な答えに至る。
伊吹の中では英語のテストで満点を取るより、聖剣を持ってドラゴンでも狩る方が簡単だろうな、などという結論に至った。
結局は努力あるのみである。
ありがとうございました。
続きは明日更新です。
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