進藤伊吹の文化祭③
一日目が終わった夜、成瀬結依は坂口莉央に誘われて通話をしていた。
話題はやっぱり今日と明日のこと。
「いやー……ちはちゃん強いわ」
「それは、うん」
クラスの皆で二日目に向けた準備をしていたタイミングで、莉央は航希から情報を仕入れていた。
内容としては今日の彼らの時間の使い方であり、永井千早がどこまでも積極的だったということだ。
あの様子だとクラス関係なく、永井千早が進藤伊吹に好意を持っていることは伝わっていくだろうと航希が話してくれたらしい。
……きっと、千早ちゃんはドキドキもしないんだろうな。
自分のことを年相応に思えないちんちくりんだと評価している結依からしてみれば、クラスメイトの千早は憧れることしかできないような女の子だ。
自分に持ちえない背の高さやスタイルの良さだとかそういうのもだけど、自分の身の回りの物に気を遣って、髪のケアやメイク、ネイルも勉強しているらしい。
それに加えて、自分からあれこれ話すのが苦手な結依からも色々と話を引き出してくれるし、結依が何かを尋ねた時の、ちょっといたずらっぽい笑顔が素敵だった。
結依の思う大人っぽさをまさに体現していて、同時に、ぼんやりとした自分はきっといつまでもこうはなれないのだろうなと思う。
「進藤君は靡いてる、って感じじゃなかったらしいけど」
「んー……」
そんな永井千早を、同じくらい大人っぽく見える進藤伊吹が選ぶなら、成瀬結依は悲しむことなく納得してしまうだろう。
結依は、千早と自分が争えるような段階に居ないとさえ思っている。
そもそも、進藤伊吹とお付き合いがしたいとさえあまり思わないのだ。
恋をしていることは確かであっても、その先のことを想像なんてできなくて、本当に自分がその先の日々を望んでいるのかさえ分からない。
話ができたら嬉しくて、笑ってくれたら幸せで、目が合ったら恥ずかしくて、電車の中なんかで自分を気にしてくれているのがわかると胸がいっぱいになる。
今の結依にとっての恋はまだ、それだけだった。
「明日、どうする?」
「莉央ちゃんは、二人だと嫌?」
「全然ヤじゃないよー、じゃないけどさ」
莉央は応援してくれているし、それで伊吹と話せる機会も増えてとても嬉しいけれど、千早の行動に感化される自分が居ないことにはこの一ヶ月で気が付いた。
闘争心のようなものなんて芽吹きもしていない。
もし、千早が直接面と向かって頼んでくるのならばきっと、結依は慎んで身を引くだろう。
結依は伊吹にとって自分がそう大きな存在でないことを自覚しているし、彼が水野航希らとも親しくなっている今、自分が話しかけなくなったところで何か困ることもないはずだから。
寧ろ、結依と話していることが男の子との仲に影響しているらしい今の方がちょっと困らせてしまっているくらいだ。
ただ、そんな控えめな考えばかりの結依にも思うところは多少だってある。
それを、莉央が口にしてくれた。
「でも、青春じゃん」
青春。
ずっと言葉でしか知らなかったそれがどこまでも美しいものだと、結依はこの夏に痛感した。
進藤伊吹の隣で見た花火はどの景色よりもずっと鮮烈に瞼の裏に焼き付いていて、彼の横顔も、目が合って笑ってくれた優しさも全部、今すぐに思い出せてしまう。
きっと、いつまでも。
彼のような強く優しい男の子に次も出会えるだなんて、現実主義者でもある結依には思えない。
この恋を諦めた後の自分が味わえるかどうか分からない甘美な時間の誘惑には、奥手に過ぎる結依であっても抗い難かった。
毎朝の電車で自分から話しかけるようになったのも同じ理由だ。
純粋無垢と他人から認められる彼女には、結依本人の自覚もないまま、彼女が恋するに値するかどうかを見定める厳正な審美眼があった。
だから、皆から意外と言われるような勇気だって持てるのかもしれない。
恋に恋するだけの少女であっても、恋をするに相応しいだけの相手がいなければならない。
「……縁日とか、誘ってみていいかな?」
「良いじゃん良いじゃん。今日とか行ってなかったみたいだし」
明日は千早と伊吹が最初のシフトで、結依と莉央は最後のシフト。
許される時間は花火大会の時のような偶然の出会いを装えないか考えて空振りに終わった今日よりも少ない。
上手く誘いに切り出せなかった今朝の出来事も思い出し、通話をしながらメッセージアプリを操作する。
同じことを繰り返して、また空振りに終わってしまうのは勿体ないなと思った。
「送っちゃった」
「誘ったの?! 今!?」
「うん」
決心した成瀬結依の見せる、莉央も驚く勇気である。
伊吹とは話の流れで連絡先こそ交換していたけれどメッセージ自体は今初めて送った。
それから暫く、伊吹と関係のない、SNSにいつどんな投稿をしようかしまいかという通話をして、結依が最低限と決めているので勉強の時間になったから通話を切った。
大体二時間の後、寝る前にスマホを確認する。
水野航希にも尋ねるけれど多分大丈夫だ、という風な返信があって、人前だとあまり動かない自分の口角も一人の夜だとどうしても上を向いてしまう。
ああ、やっぱり、今が自分の青春だ。
****
永井千早の好意もあからさまになった以上、伊吹は自分の行動が不誠実なものだと思えてきて仕方がない。
「ちゃんとバランス取るじゃん」
「そういうんじゃ……なくは、ないかも」
おおよそは誘われたものを無下にしづらいという伊吹の性格によるものであるけれど、了承を送った理由に昨日の永井千早と行動したことが全く含まれていないとは言えなかった。
少なくとも、航希も引用した昨日の会話を思い出してから返信していた。
「まあいいけど。莉央もいるんでしょ?」
「多分?」
「多分かよ。最悪二人な」
「……まあ、そうかも」
文化祭二日目。
昨日に引き続いて衣装を着替え、航希と二人で男子トイレへ向かったタイミングで今日の予定を話していた。
当然一番最初に話題にするのは成瀬結依からの誘いのことである。
「にしても成瀬って、そんな感じなんだ」
「ちょっと、俺もびっくりした」
出会い方のせいだろうか、伊吹からしても結依は気弱な少女という認識である。
朝に挨拶してくれる時もよく顔を赤くしているし、偶然でも目が合うと堪らずという風にすぐ逸らされてしまう。
ただ、同じ車両だったというのが直接話す距離に縮まったこの夏からは、必ず向こうから声をかけてくれるし、駅から下駄箱、教室まで、誰かに声を掛けられて恥ずかしがっていてもずっと伊吹の隣を離れず歩いて、合った目が逸らされても必ず一度は視線が戻ってきて頑張って作ったような笑顔を見せてくれるという律儀な面もあった。
物怖じはするけれど、やると決めたことはやるタイプの人物なのだろうと、伊吹は評している。
とはいえ初めてメッセージが送られてきて、それが直接の誘いであったのにはどうしても驚いた。
彼女からの好意自体は察せられない方が愚鈍であるほどだったとして、それでも行動を起こすなら今朝のような話の流れだとか、坂口莉央を介したものだとか、何かあるとしてもそういう風になるかなと予想していたのである。
だから、返信にはちょっと勇気が必要だった。
彼は正真正銘の勇者であるから、その程度の勇気などすぐに踏み越えていくのだが。
或いは向こう見ずとも言う。
「ほんじゃあ、付けまーす」
「お願いしまーす」
さて、早い時間の男子トイレの端の鏡を一つ占領しつつ、伊吹は航希に自分の頭を預けていた。
衣装のシャツのお返しではないが、折角の非日常だというのに髪のセットに頓着していなかった伊吹に対して、航希は昨日の帰りに彼の髪に合うヘアワックスを購入していたと言う。
元から纏まりやすい髪質をしているからノーセットでも気にならないが、セットすればもう少し分かりやすく雰囲気も出るだろうと目論んでのものだ。
常に一歩引いた態度は彼の立場によるものだと知っているが、それが同性の航希からしても大人っぽく見えるのだから、引き立てるように。
「バイトの大学生風? 女子からアイロンとか借りたらもうちょいできるけど」
「おー……」
自分では絶対かけない手間が加えられた頭を、ちょっと触る。
ヘアワックスは中学の時に一応購入はしたし、がちがちに固めるやつを向こうの世界でも式典のために使ったけれど、こちらに戻ってからはすっかり使う習慣を無くしていたし、母親に言われた頻度で行っている美容院でも毎回断って出て来ているから、久しぶりだ。
去年の一年でぐんと背の伸びた今の自分が髪を気にすると、思った以上に自分の思う姿とかけ離れていた。
手を洗った航希から、使い終わったヘアワックスが容器ごと手渡される。
「これ、やる」
「え。いくら?」
「やるって」
「いやいや、払うって」
航希には特地隊からいくらか給金を貰っていることも伝えている。
高校生の数千円が安いものだとは思わないし、三高祭のために今日の財布の中身も寂しくはない。
「誕生日、知らんかったし」
「…………ありがと」
「どーいたしまして」
伊吹の誕生日は五月とずっと前のことで、航希の誕生日はもっと前の四月だ。
自分の手に収まるケースを見つめてから顔を綻ばせていると、航希は戻るぞと背中を見せた。
「水野の来年の分は、二年分プラスアルファで」
「楽しみにしとくわ」
予算は潤沢だから、本当に楽しみにしておいてほしい。
教室に戻ると、一番に目が合ったのは谷口沙也加に髪を預けている永井千早であった。
アーモンド形の瞳がくるんと丸くなっている。
「えー! めっちゃセットしてる!」
「……うん。水野にやってもらって……永井さんもすごいね」
「沙也加が気合入れてくれてるの」
「今うちめっちゃ気合入ってる」
リボンにアクセサリーにカチューシャに、昨日はリボンだけだったのが二日目にして大幅増量だ。
「店長からの許可も取ったから」
どうやら昨日は落ち着いた内装の落ち着いた店をイメージした店で接客に出るということで抑えていたらしいが、女子同士通ずるところもあるらしく、橋本明日佳も何も咎めるつもりにならなかったようだ。
「ちは、可愛いでしょ?」
可愛いかどうか聞かれたので、迷いは捨てて伊吹は口にする。
ついでに笑顔も溢して。
航希はこの後の流れを呼んだのか、沙也加が尋ねてくるより先にさっさと別の男子の方へ動いていた。
「……うん、可愛い」
言われた千早は瞬間だけ固まった後、化粧にも力を入れたらしい唇ろ目元が何の演技もなく緩まり、細められていた。
そういう表情は可愛いというよりやっぱり綺麗な人だなと伊吹は思ったけれど、そこまでは口にしない。
「ありがと」
「俺もどうかな?」
「めっちゃ似合ってる。あとで写真撮ろ?」
「二回目?」
「いいじゃん」
その後の自然体な……これまで誰も見ることのできなかった千早の姿は教室内に居る男子も女子も気にせざるを得なかった。
それを引き出しているのが進藤伊吹であるということも含めて。
「私忘れていちゃつくなー??」
「えー?」
「そういうわけじゃ」
何となく話の流れを察していた航希だが、少し先の未来に起こることを思い出して、鼻で笑った。
期待をされたことに応えてしまうのが進藤伊吹ということなのだろう。
彼の行動と立場の全てに紐づいた言葉を、航希は内心だけで独り言ちる。
勇者じゃん、あいつ。
遅れて、どうやらこのタイミングで手を洗いに行っていたらしい坂口莉央と成瀬結依が教室に戻ってきた。
伊吹が千早らと話しているのを一瞥した後で航希の方を見つける。
昼のことを話したいらしく、莉央はさっさと近寄って来る。
「あ、航希」
「莉央ちょっと」
去年の一年間、クラスの中心として気兼ねないやり取りをした間柄の二人は結依にも聞こえないように距離を縮めてひそひそ話。
「あいつ、マジでヤバい」
「? 進藤君?」
「ちょっとしたら橋本あたりに聞いてみ」
恐れ知らずとはまさにあの勇者様のこと。
これから吹き荒れる波乱に巻き込まれることになるだろう航希は、自分と同じ当事者たちの友人枠として道連れにするべく莉央に助言した。