〈勇者〉の忙しい秋のはじまり
水野航希は基本的にとてもできたやつなので、去年から行事に積極的でないクラスメイトを尊重しながらも輪に繋ぐような声をかけていたし、いきなり告白するような女子に対しても丁寧な対応をしていることで評判がいい。
寧ろ、進藤伊吹に対して棘のある態度を取っていたのが特別なことであった。
「うす」
「おはよー」
だから、その二人が教室のドアのすれ違いざまに朝の挨拶をしているのを見て、坂口莉央は驚かざるを得ないのだ。挨拶された伊吹は確かに口端を緩めているし。
「え、どしたの?」
「?」
今日も伊吹と並んで入室してきた結依は男子同士の人物相関の機微をほとんど感知していないから、目を丸める莉央に首を傾げることとなる。
「あ、あー……」
昨日までのことを口にできない伊吹は、口元に手を当てて視線を逸らす。何か出任せを考えなければいけない。
記憶を漁ると、ちょうどいいものが。そういえば水野航希とは東京のオープンキャンパスで顔を合わせていた。あの時は互いがすぐに視線を逸らしたけれど。
「夏休み、ちょっと」
「いつの間に」
「?」
何のことを話しているか分かっていない結依は置き去りにされてしまうけれど、あとできっと莉央が教えてくれるから今は口を挟まない。
「でも、うん。仲直り、的な」
「……的な」
「……」
伊吹がへにゃりと笑っていた。
目尻に皺を寄せる照れた笑顔だ。見せられたほうが恥ずかしくなるような、純粋な喜びを滲ませていた。
また新しい表情を見せつけられて、莉央は何も言えなくなってしまう。言っていたらボロが出そう。
結依もそれを見逃さない。静かで、落ち着いて、格好良くて、強くて頼りになる彼とはまた違う彼は花火大会の時にも見せてもらったもの。どうしようもなく胸がきゅうっと締まる。
「……そう。良かったじゃん」
「うん」
伊吹は彼女らの方を気にせず、荷物を下ろしに自分の席の方へ歩いていってしまった。
そこでようやく、結依が莉央に尋ねる。
「えっと」
「あ、そっか。水野と、進藤くん。仲悪かったから」
「そうだったんだ?」
「去年からねー。結依、何か聞いてた?」
「ううん。全然」
確かに伊吹とは夏休みの半分以上で同じ電車に乗っていたけれど、会話は今朝のように当たり障りのないものばかりだったから、誰とどういうことをしていたとか聞いていない。
「自習室でも見なかったけど、水野くん」
「気になる?」
「そ、それは、うん」
一体何があったのか、二人して首を傾げるけれど、真っ直ぐと張りが差して予鈴の時間が近付いているのも確かだった。
「ま、仲良くするのはいいことだしね」
「うん」
****
「急に仲良すぎじゃない!?」
「そう?」
「えー」
突っ込んだのは伊吹に一番席が近い谷口沙也加で、答えたのは水野航希と進藤伊吹である。
伊吹は自席で、航希が伊吹の机に座って、二人でスマホのサッカーゲームから視線を逸らさない。
「ゲームとかするんだ、二人とも」
これまではもうちょっと簡単に話しかけられた千早が、ちょっとこれからどうしようかと思案しながら指を忙しなく動かす伊吹と航希に尋ねた。
「誘った」
「誘われた。あ、やば」
九月も半ばに差し掛かった頃、伊吹は航希と普通に仲が良くなっていた。
既に出来上がった輪の中にいる航希に対して、輪の外側であることを自覚している伊吹は折を見て挨拶をするくらいだったけど、ふと輪の外にも足を運ぶ航希はたびたび話しかけてくれて、先日にはゲームの誘いまで。
中学までは伊吹もインストールしていたシリーズなので再開への抵抗は特になく、いよいよ今日には直接対戦をするところになっていた。
結果としては伊吹が勝った。
二人の試合が終わる頃を見計らって、稲葉潤哉が近寄ってくる
「負けてやんの」
「いや、進藤が普通にめっちゃ上手い」
「普通だと思う」
「航希が下手じゃん?」
「うっせー」
。
他の男子たちはあの進藤伊吹に対して航希がいきなり好意的になったのに面食らっていたが、潤哉はガサツな性格もあって特に気にすることもなかった。
特に何を言われたわけでもないから、伊吹のことも悪いやつではないとなんとなく思っている。
ちなみに航希が伊吹を誘ったのは他のクラスメイトにはこのゲームで勝てなくなったからである。野球部にも負ける。
「リアルだと上手いのにね、水野」
「言われてるし」
「はい、やめやめやめ。終わり」
勉強もできてサッカーも上手く、器用な方だと思っていた水野航希の弱点を見つけて伊吹も潤哉と一緒になってくつくつと笑う。
サッカー部らしい潤哉の指摘。
「ロマン派なのがなー」
「なるほど」
「サッカーを舐めてるわ、ゲームが」
同じゲームをインストールしている潤哉が画面を開いて、三人であれこれ編成の話、選手の話をし始めた。
さて、これまでほとんどフリーパスで、話しかけようとすればこちらへ気を配ってくれた進藤伊吹が、近くにいる千早らのことを置き去りにさっさと男子だけの世界に入っていってしまうことを、永井千早も、千早を応援している園田菜帆と谷口沙也加もちょっと面白く思えない。
代表して菜帆が抗議した。
「めっちゃ男子じゃないっすか。急に」
「えー、まあ、うん。男子だし」
伊吹は彼女の言わんことを理解して、抗議を肯定する。
「わたしゃ悲しいですよ」
「私たちとも仲良くしてくださーい」
「そうだそうだー!」
菜帆のふざけた調子を先陣に三人が口を揃えたので、伊吹は弱ったと笑う。
もちろん失礼なほど蔑ろにするつもりはない。
「タイミングでね」
そんなやり取りを見ながら航希は、この三人のうち誰が伊吹を好きなのか推理し始め、潤哉はさっきまでちらちらとこちらを見ていた井崎修太と伊吹はしばらく仲良くできないだろうなー、とぼんやり考えていた。潤哉の方が結論に先んじた形である。
球技大会前から永井千早に好意を寄せていたが、夏の大会をチア部に応援してもらった縁で花火大会に誘って見事玉砕した。
また別の話をし始めた男子共に千早たちは一旦諦めて自分たちの話をし始めるが、聞き捨てならぬ話題が。
「え、何、進藤ツイスタやってたん?」
「共有のやつで」
「え、何それ聞いてない!!」
沙也加がすかさず割り込んだ。
ゲームの投稿を共有するとちょっとした特典がもらえると言うことでアカウントだけ作ったのだ。
航希から教えてもらっていた機能だから、航希とは一応相互のフォロワーになっている。
千早と菜帆もぞろぞろと続いた。
「水野、進藤どれ? あ、これだこれだ」
「全然、写真とか上げないよ?」
「そういうんじゃないんだよう。え、てかアイコン変えなよ」
「写真ないし」
「撮ったげよか」
確かに伊吹が投稿するなら興味もあるが、それ以上に、自分たちの……自分たちの投稿する千早の写真や、千早の投稿を目にするかもしれないというのが重要だった。
高校生の話題作りの第一歩だし、そもそも千早はとても綺麗だから写真を見てもらうだけでアピールになりうる。
何か発信するつもりはないが、クラスメイトの投稿が目に入ることに抵抗もないので、ながたにえんの三人と、潤哉のアカウントと相互になる。
千早から親友にしておくね、なんて言われて何のことか分からなかったが「親友」にだけ見せる機能があるらしいと知った。
他のアプリは速報性も高いのでいくらか把握しているのだけど、中学の時にも使っていなかったこのSNSのことは何も知らない。
「他のはやんないの?」
「予定はないです」
結局本当に写真まで撮られて彼女らの押しに疲れたので、千早の質問には否定で答えた。
始める時には教えてね、と微笑まれたのには、空手形になるだろうから了解した。
****
さて、九月も深まれば文化の秋である。
伊吹の通う三高は体育祭もどきの体育大会がただ走るだけなのに対して、文化祭は保護者以外の客こそ入れないが結構盛り上がる方である。
二日間で三年生は演劇やダンス、お化け屋敷やコースターといったレクリエーションを、二年生は飲食店を中心にお金を扱う模擬店を出して、一年生は合唱とお客様をする。
三日目には文化会館に場所を移して、部活中心のステージ発表だ。
去年の伊吹は練習からずっと小さな声で歌って、一人だったからお金も使わず体育館の端の方で静かに三年生や軽音部のステージを見ながら過ごしていた。運の悪いことに、三日間ずっと招集もかからなかったのである。
とはいえ今年はクラスで二日間お店を動かす形となるので、適宜スタッフとして働いていればもう少し文化祭気分を味わえるだろうと思っていた。
「進藤くん、似合うね」
「そう?」
「うん。身長かな。お店に居そう」
「永井さんも」
制服の上から緑のエプロンを着てみせると、するりと近づいていた永井千早に褒められる。
彼女も同じエプロンをしていて、店員側の役割を与えられている。
伊吹のクラスの企画は、クリームの乗った飲み物のような何かを提供する某コーヒーショップのオマージュしたカフェであった。
それで伊吹は調理や準備などの裏方をやろうと思っていたのだけれど、沙也加らの推薦のような恰好で接客をすることとなってしまっていた。
男女比では女子の多いクラスで、女子の総意のような形にされると男子側から覆すことも難しそうであった。伊吹はもう、男子側からの嫉妬のことは考えないようにしている。今も視線は時々刺さるが。
「当日さぼりてー」
「えー、どうせみいちゃん来てくれるんでしょ?」
「まあそれはそう」
伊吹がサイズを確かめて、次は稲葉潤哉。
十センチくらい背も高いが、それなりに違和感のない形に収まった。
千早も莉央にエプロンを渡していて、その莉央もサイズを確かめながらやる気のない潤哉をからかう。
潤哉が一年生の早々から付き合っている彼女は女子バレー部で、莉央とも仲が良いらしい。伊吹が莉央と会ったオープンキャンパスでも一緒に居たらしいことを先日初めて聞いた。
彼女の所属する理系クラスの模擬店はお祭り屋台をイメージするそうで、「みいちゃん」を含む看板娘役の何人かはなんと浴衣まで持ち込むそうだ。
「で、航希は服、どうするの?」
「進藤に借りる」
「あ、良かった」
「忘れずに持ってきます」
伊吹たちのクラスもオリジナルの店員姿をきちんとオマージュするということで、接客役は当日は制服ではなく、それっぽい私服の上にエプロンを着るという話になっている。
カジュアルなものばかりでかっちりしたそれっぽい私服を持っていなかった航希は、身長がほとんど同じ伊吹に服を借りることとなった。
男子はシャツなんだし別に制服でよくね? という航希の声は、航希の珍しい姿を見たい……もとい非日常を味わいたいという女子の圧力によってかき消されている。
その後、接客組でシフトの分担を決めたり、接客の練習みたいなものをしたりして、あとは内装の準備などを手伝う方へ進んでいく。
「が、頑張ろうね、進藤君」
「接客とか初めてだから、緊張するけど」
「もう、私の方が」
男女五人、女子は七人選ばれた接客役だが、千早も、結依も、莉央も当然のように選ばれている。
引っ込み思案な結依はもちろん乗り気になれていなかったけれど、可愛い子にやってもらいたい、自分はあんまり目立ちたくない、千早の引き立て役は勘弁だという女子の内心から莉央も庇いきれず、一緒に頑張ろうと手を引っ張ることとなった。
本当に苦手なことを知っていて気の毒だから、ご褒美のお膳立てには張り切っている。
「結依がセクハラされてたら、進藤君、任せたから」
「それはまあ」
同じ役割だとシフトの時間をずらさなければいけなくて、隙を見て一緒に行動というのが難しいのだけど……そこは伊吹と結依を上手く同じ時間にねじ込んだりして調整だ。
千早も同じことをしているので、リードとはならなかったけれど。シフトを決める時、一日目で伊吹と時間を合わせた莉央とはばっちり目が合った。
ちなみに莉央は、結依には千早が進藤狙いだとばっちり報告していて、花火大会で伊吹を誘おうと言い出した千早の真意も明かしている。
それを結依は、「格好いいもんね、進藤君」と受け入れていた。直接には莉央から聞いたことは言っていなくて、夏休みが明けても仲良くしてもらっているけれど。
伊吹もなんとなくだが、彼女らが自分への感情を持ち、画策し始めているのを察している。
特に何ができるわけではなかったけれど。