〈勇者〉は秘密を口にする
トイレに行ったと装って北斗たちのところに戻るだけの理性は残っていたが、それでもその後自分が何を話していたかちゃんと覚えていなかった。
帰った後、六人で写真を撮ったのが送られてきていたけれど、菜帆から送られてきたのに比べて全然上手く笑えていない。
その他にも莉央、結依、千早、北斗、誠から送られてきたメッセージにもろくな返信ができていないし、全然落ち着かなくって、翌日にも続いたものは途中で返信をやめてしまっていた。未読無視というやつだ。
ただ、朝から自分のスマホに入れているSNSや、アクセスした掲示板で「勇者 正体」とか「勇者 高校生」とか調べても適当な言説が垂れ流されているだけだし、進藤伊吹と本名を調べても同姓同名の誰かがヒットするだけだった。
今のところ正体は広まっていない、と断定したのは翌日曜日の正午過ぎのこと。
朝ごはんをすっ飛ばし、母から昼ご飯に呼ばれた頃であった。
「声まで出しちゃって」
「……必要だったから」
水野の名を口にしてしまったのは絶対に不必要だったけれど、母の言うアナウンスに際しては必要だと思ったから決断したことだ。
これまで一言も喋ってこなかったから、背格好から男性とは見られていたものの年齢も国籍も不祥だったのだ。
若い日本人男性であると推定され始めたのは大きなことらしい。
未だ謎ばかりのダンジョンも含めて、異星人説も根強いくらいだ。
真由美の見ていた朝のニュース番組では〈勇者〉への交渉や説得の余地があるということが大いに喜ばれていたという。
「動画とか出てた?」
「アナウンスの声と、流れ星みたいなのは」
「あー」
大会本部でのやり取りは、アナウンスを務めていた大会運営委員会の男性が興奮気味にインタビューに答えていただけで、動画には残されていなかったらしい。
「お疲れ様でした。で、花火大会はどうだったの?」
「楽しかったよ。ちゃんとすぐ戻ったし」
「写真とかは? 撮ってないの?」
「撮ったけど」
撮ったけど、撮ったのは結局女子と一緒の写真だけだ。
男子四人で撮ったものは一枚も無かったし、母親に妙に勘繰られたくないから見せたくもなかった。
「見せてよ」
「…………やだ」
「えー、いいじゃん」
「倉田さんたちに聞いちゃお」
中学の部活の送迎なんかで北斗や昂大の母親とは仲が良くなっていたし、通っていた幼稚園が一緒だったため誠の母親とは一番付き合いの長いママ友である。
プライバシーの流出が激しい母親同士の横の繋がりに顔をしかめながら昼食を間食したが、呑気な母親のおかげで朝より少し気は楽になった。
明日からまた学校が始まるが、まだ正体がばれたと決まったわけではないのだ。
どうして水野があそこに居たのだろうかとは不思議に思うけれど、自分から聞くことはないだろう。
****
新学期も以前と同じ電車に乗って、夏休みから隣に立つようになった成瀬結依と会話しながら教室までやってきたけれど、気もそぞろだった。
もしかすると、水野航希がもう既に言いふらしているかもしれないからだ。
ずっと入口の方を気にしていたらしい目と、ばっちり目が合う。
睨むように細められて、彼が顎をくいと動かした。
方向は確実に廊下の方を差していた。
出ろと。
バレている。確実に。
あるいは強い嫌疑がかけられている。
前日の希望的観測が外れて、自席に荷物を置く。
できるだけ平静を装って莉央や千早に挨拶しながら、教材を置くふりをして廊下へ出た。
とはいえ、想定も覚悟もしていた部分だからやることが決まっただけだ。
難しい顔をしているサッカー部の朝練終わりらしい彼に、伊吹は微笑む。
「今日、終わったら」
「…………」
「ありがとう」
始業式は午前中で終わるから、部活との間にも時間があるはずだ。
水野の態度は不可解がゆえにぶすっとしているけれど、事情を慮ってくれる良心が見え隠れしている。
そもそも自分の失礼のせいで仲が悪かっただけで、彼自身が悪い人ではないことを伊吹も知っている。
****
人気のなくなった廊下で待ち合わせ、ちょっと来てと下駄箱で靴を履き替えた。
校舎裏へ向かい、さらに外階段も登る。
「……厳重だな」
「ちょっと、屈んで」
「……」
踊り場の手すりの壁に身体を隠すことを指示すると、水野航希はそれにも従ってくれる。
彼の肩に……正確には露出した首筋に触れられるように右手を置いた。
「来い。〈1番〉」
「は? うおっ」
呼び声と共に聖剣が左手に現れ、指定された番号の魔法陣に二人で転移する。
素肌に触れていないと一緒に転移できないのは一度ピオの上半身の服だけと転移してしまったことで身に染みていた。
転移陣の場所の都合で戻るのにちょっと時間がかかって、ぶん殴られたのもいい思い出だ。
困惑する水野には自分の勉強椅子を差し出して、伊吹はベッドに腰掛けた。
「いや、は? え」
「〈勇者〉の能力だよ……どっちかって言うと、この聖剣の、だけど」
「…………マジなのかよ」
「超マジ。大マジ」
〈勇者〉であることを明かすのに、伊吹の部屋以上の場所はないだろうと以前から思っていた。
何せ説得力があるから。
遮光カーテンは常に閉ざされ、洋服タンスの上に置かれたフルフェイスと、畳まれたジャージ。
書き込んだ転移ポイントと発生したダンジョン、二色の書き込みがされた大きな日本地図は高校生の自室としてあまりに不似合いで異様だと、伊吹も常々思っている。
「あ、土足大丈夫だから。ベッド以外」
「……こうやって、戻ってくるから?」
「うん。外に居る時にも一旦ね。変身とかできなくて、ぱぱっと着替えてる」
本当のことであることを改めて示すように、実情を伝えていく。
「ガチじゃん」
「ガチだもん」
転移の時点で異能の証明にはなるが、細部を語ることで信憑性は増すだろうと考えていた。
「……〈勇者〉……」
「名乗ったつもりはないけど、まあ」
「…………なん、で」
「色々あったんだよね。ダンジョンとか出来始める、ちょっとだけ前に」
伊吹は腰を上げて本棚に差し込まれた漫画を一冊取り出すと、航希に手渡した。
自分と似たような境遇を戦った少年の異世界転移物語で、伊吹が帰還し、日本で〈勇者〉と呼ばれる前の数日のうちに書店で購入した。
日常が返ってくると無邪気に思っていた頃、今の自分が読んだらどう思うのか気になっていたのだ。
「異世界に呼ばれて、魔王軍と戦って、勝ったから帰ってきた感じ」
おどけて言った後の長い無言には肩を竦めて、もう一度ベッドに腰を落ち着けた。
咀嚼するのに時間のかかる話なのは仕方がない。
事実だとしても、荒唐無稽であることには変わりないのだから。
とはいえ待っているばかりでも仕方がないので、半分は緊張をほぐす冗談のつもりで航希に問いかける。
「水野はなんであそこに?」
「……いや、それは、別にいいだろ、今」
「だって、質問されてばっかになりそうだったし」
あの時の航希の近くには下駄も捨て、裸足で逃げ出そうとする浴衣姿の女性が居たのだから、大体の事情を察してはいるけれど。
「まあ、何でも聞いてくれていいけどね」
バレてしまったのだから、この際だった。
能力まで使って自室に引きずり込み、話のペースこそ握っているが、〈勇者〉であるという秘密を握られてしまった時点で分が悪い。
彼を脅すつもりもさらさら無いから、秘密の保持は水野航希の良心に委ねられている状況だ。
であれば伊吹にできる交渉は、彼がずっと黙っておこうと慮ってくれるように、彼の要求を呑んで事情を洗いざらい開陳することくらいなのである。
「…………全部、お前が?」
「俺以外に居ないらしくて。特地隊……最初は自衛隊か。上の人たちもちょっと協力してくれてたり」
「え、繋がってんの」
実のところ特地隊ならびに国家は〈勇者〉との繋がりを公にしておらず、正体不明の認識を貫いている。
テレビやネットニュースで情報を得るだけの世間一般は、多くが繋がりのあることに驚くところだろう。
「連絡あればひとっ飛びって感じ。特に去年の後半とか。今は自分たちに任せてほしいって言われてるから、連絡もほとんどないけどね」
「……それで、遅刻とか」
「早退とか。一応、時間割に配慮してくれてたりするんだけど、何回かは途中抜けも」
伊吹に連絡をくれる平川は時間割も把握しており、避難誘導が上手くいくケースなんかは休み時間に連絡を送ってきた。学生の、善意の協力者に過ぎない伊吹への本当にギリギリの配慮だ。
けれど、市街地でのダンジョン発生など、通報時には既に犠牲者が出ているような緊急事態には即座の要請があったため、途中抜けも何度かあった。
水野も普段はふらりといなくなるだけの伊吹がトイレだと立ち上がって席を外し、帰ってこなくなるのを去年のクラスで何度か目撃している。
その理由が、彼が〈勇者〉だからだなんて考えたこともなかったけれど。
クラスの誰も彼も、ちょっと問題を抱えている生徒だとか、そういう認識でしかなかった。
もちろん、航希も。
考え込む航希の顔色を見て、伊吹は自分から疑問を提示する。
「いや、何で学校通ってたんだって話だけど」
結論の出ている話だが、今でも伊吹の頭の中から、悩みとして退けきれてはいない話。
「まあ、それは、母親が悲しむからってことで」
ダンジョンの発生に対応し、昼夜問わずに出動のある生活の中で、学校に行かないこと、学校を辞めること、通わないことは当然考えた。
というか普通ならそうするし、相談した時には父も母もその選択肢を否定しなかった。
自分には、自分だけには多くの人を救えるだけの力があって、自分で多くの人を救いたいと考えているのであれば、学校なんかに行っている場合ではなく、日本を、世界を、誰かを守ることに専念するべきだと。
けれど、その時の母の、どうしても内心を押し込めたような顔があって結局、伊吹は学校を辞めることを止めた。
母を再び悲しませることを伊吹は、仕方がないことだと割り切れなかった。
高校入試合格の報告と共に、異世界から帰還したことを報告したあの日、母はその荒唐無稽な話を一切疑うことなく信じてくれて、自分の息子が異世界で血生臭すぎる三年間を過ごしたことに涙してくれたの母には、どうしても。
母親が泣いてくれたことで自分も辛かったことを改めて心で知り、抱き締められて涙が止まらなかったのは当時の伊吹にとっては直近のことで、これ以上は母の思いに背きたくないと思ってしまった。
「でも、それでみんなには……水野にも迷惑、かけちゃって」
結果として〈勇者〉と学校の両立はギリギリできないこともなかったわけだけど、やっぱりギリギリだった。
張り詰めた精神、自分の遠慮、口にできない秘密、そして急遽の出動。
一学生としてまともな生活が送れていたわけではなく、高校生活一年目の新しいクラスで団結しようとする中、伊吹のことを輪の中に入れようと努力してくれていた水野達には迷惑しかかけることができなかったことはずっと負い目に感じている。
目を見て、ごめん、と口に出そうとしたとき、水野航希が声を荒げていた。
「謝んな」
「…………」
もう一度、ごめんと口に出そうになったのも、飲み込んだ。
航希は強く、頭を掻きむしる。
目の前の、弱気になって鼻を掻く彼が〈勇者〉であるとこれまで一度でも考えたことがあったか。
〈勇者〉をやっているやつがどこかの高校生で、何とか高校生活を送ろうとしていたと考えたことがあったか。
初めてモンスターが現れた群馬の街で無双し、地平を埋めた北海道の大量発生の絶望を切り裂き、大阪のビルの惨劇を未遂で食い止め、それ以外でも数多の人を、数多の街を、この国を……そしてつい先日には自分さえ救った〈勇者〉が、何とか学校にも通おうと努力する男子高校生だと考えたことがあったか。
「……はー…………」
クソだ。馬鹿みたいだ、自分が。
何の事情も考えず、進藤伊吹に辛く当たった自分があまりにも。
頭を抱えて、長く長くため息を吐いた後、改めて航希は伝える。
「絶対謝んな」
それは、航希が過去の航希を否定するための棘を含んだ声だったけれど、そのおかげで伊吹の心にもきちんと刺さった。
「……分かった」
自分の判断を肯定してくれと、航希は言っていた。
それでちょっとだけ、心の中の澱が流れてくれた気がした。
「あ、てか……」
航希が何かに気付いて声を出す。
彼が言い淀んだので首を傾げて促すと、頭を掻いて、言ってくれる。
「いや、うん。ありがとう。一昨日」
「? あ、うん。あ、そっか。うん」
「何その反応」
助けたのがどんな人か気にしてこなかったのもあって、あの日は水野航希に驚いて声を出してしまったことだけ覚えていて、彼の命を助けたという事実が頭から転がり落ちていた。
「いや、ははは。面と向かって、お礼なんか言われたことなかったから」
日本に戻ってきてから、〈勇者〉に礼を言ってくれるのは特地隊の戸部と平川くらいで、現場でもさっさとモンスターを切り捨ててさっさと帰るので、直接言われることもなかった。
たまに助けられた人のインタビュー映像で見るくらいだったし、それを別に何かの糧にしたつもりもない。
ただ、こうして改めて言われてみると、面映ゆいことに間違いはない。
それがすれ違っていたクラスメイトなら、なおさら。
「どういたしまして」
「……うん。マジで、ありがとう」
薄暗い伊吹の部屋で、互いが互いに照れてしまって、間が持たなくなる。
頭の中を掘り返した伊吹が聞く。
「てか、一緒に居た子、大丈夫だった?」
「ん、ああ、うん……うん」
航希としてはあまり聞かれたくなかった話題ではあるけれど、伊吹が洗い浚い話してくれた以上、自分だけ秘密にしておくのも不義理だ。
「彼女さん?」
「……に、なった、と思う」
「おー」
まさかそのことを、進藤伊吹に初めて伝えることになるとは。
「元々はとこ、なんだけど、うん」
「おおー」
誰にも言ってこなかったが、水野航希は幼少期からずっと、二つ上の彼女、桐谷美織に恋をしていた。
花火大会の日もわざわざ午前中が部活だった後、特急電車に乗って祖父母の家に行って、東京から帰省していた彼女に会いに行ったのだ。
幼少期からの好意は親戚皆に知られているし、彼女もなんとなく受け止めて来てくれていたので、開き直って今年はあの公園で一緒に花火を見ようと誘っていた。
花火自体はすぐに中止になってしまったけれど、彼女を庇って囮になろうとした航希が死んじゃうかと思ったと泣きじゃくる彼女を抱きしめ、そのままあの場所で初めてのキスまでしてしまったので、結果としては大成功である。
今はその事情の皆までは言わなくていいかと思い直し、矛先を返した。
「進藤は、夏、何か無かったの。成瀬とか」
「無いねえ」
「今日も一緒だったじゃん」
航希は成瀬結依とはあまり関わり合いがなかったから機微こそ分からないが、今朝一緒に登校しているのを見て付き合っているのかとも思った。
伊吹にとっては好意こそ向けられているのだろうけれどお付き合いとかそういうのでは一切ない。
腰かけていたベッドにそのまま身を倒し、身体をもぞもぞ動かして横になる。土足のまま。
あとで母親には怒られるかもしれないが、まあいい。
「難しいでしょ」
一部男子の中では不可侵とされているような成瀬結依の横に毎朝話しておいて何を今さら、と航希一瞬思ったが、改めて今日の会話を振り返れば、何も言い返せない。
航希は偶然にも彼の声を聞いたことで真実に辿り着いたが、だからといって、今後も簡単には話せぬことである。
伊吹が寝返りを打つように体勢を変えると、掛け時計が目に入った。
「あ、時間」
「ん? ああ、別に遅れても」
「まあ大体話したし。ごめんね急に」
「……いや、驚きはしたけど」
起き上がった伊吹が、手を差し伸べて来て、ごめん繋いでと。
言われるがまま握手のような形を取ってからまたその場に屈めば、再び伊吹の左手に聖剣が現れる。
「≪2番≫」
視界が変わり、辿り着いたのは図書館や家庭科室のある別棟三階の外階段だった。
確かに、誰かが密会でもしていない限りは人も来ないし、外からも見られにくい。
「触ってないとだめな感じなの?」
「うん。服だと、服だけ一緒に来るから」
「へえ」
素肌に触れていると服も一緒に来て、服に触れていると服だけ一緒に来る理由は伊吹もよくわかっていなくて、聖剣の匙加減だと思っている。
「どこにでも行けんの? これ」
「ううん」
質問に答えるため、航希が立っていたマットから退いてもらって、裏を捲る。
学校に直接刻み込んでいるとここに〈勇者〉が居るとすぐにばれるかもしれないから、転移陣を刻み込んだシートを裏側にくっつけて細工していた。
転移陣を刻んでさえいれば表側でなくても転移はさせてくれるから、見えないように貼り付けている。
「全国大体三千か所」
「……やば」
「何番がどこか未だに覚えてないから、地図に書いてる」
「ああ、あの」
「そう、あの」
伊吹は笑いながら階段を下りて、そこで手を振った。
「じゃ、部活頑張って」
「ありがと」
彼が部活に向かった九月の空のまだ厚い雲の切れ目から光が差して、伊吹は目を細めていた。