〈勇者〉と春色の夏休み
模試の自己採点はなかなかだったと進藤伊吹は自負していた。上々ではなかろうが、世界史はもちろん、理科や数学もそれなりのレベルまで解答ができたと思っている。
ただし英語に関してだけは改善が見られた程度という自己評価だった。
実際は英語に関しても昨年一年間を棒に振っていた人間の成績としては上々なのだが、この数か月を勉強につぎ込んだ伊吹の意識はいつの間にか高くなっていた。
「おはよう、成瀬さん」
「お、おはよう! 進藤くん」
そんなわけだから、今日も朝から電車に乗っている。自習室で勉強して、一人でちょっと寄り道をして帰る。
二日目の朝に一緒になって以来は通常授業の時と同じように成瀬結依とも同じ電車で、同じ車両だ。
実はこの電車に乗るには少し弟妹の世話を急がなければならない結依ではあるのだが、できるだけ早起きをして、さらに無理なことがあれば母親に任せて家を出ていた。友達と一緒に行く約束をしてるから、なんて嘘までついて。
「……」
「……」
まばらに空く席に知らんふりをしながら、伊吹の隣に立って単語帳を開く時間が結依にとって甘くむず痒くあると共に、これまでの人生において感じたことのない心地よい時間であった。
実はいまだに、電車に乗ることに忌避感がある。
それでも日々の通学の満員電車に乗れるのは彼が居てくれたからだったし、ラッシュの時間に乗らざるをえないいつもは人に阻まれて近づけない距離を、今のように縮めてしまえば恐れとは異なる胸の早まりが生まれることもある。
ばれないように、ページをめくるついでと、隣をうかがった。
自分より頭一つと半分高い場所にある、真剣な彼の顔を視界が捉える。
もっと話ができればそうしたいのだけど、日々枕に顔をうずめて話題を考えてみても、口下手な自分にはなかなか見つからない。
会話が上手くいかなくて、照れ隠しに英単語帳を開いたその日からは、伊吹も同じように開くようになってしまって、難易度が上がっている。
しかし黙々とページを睨みながら、何か定着した単語が出来たのか、たまに嬉しそうにしている姿を見るだけで満足もしてしまっている結依もいる。
よくよく見ていると伊吹は別に、表情に乏しいわけでもなくて、普通の男の子に思えてきた。
学校最寄りの到着を知らせるアナウンスが聞こえて、電車が止まる。
自習室に着いてしまうまで、あと五分もない。
高校が駅に近いことを恨む日が来るなんて、思ってもみなかったことだ。
下駄箱で靴を履き替えると、明日の朝まで話すことはないとこれまでの日々で知っていた。
伊吹が帰る時間は昼過ぎに帰る結依より遅いし、彼はお昼ご飯も一人で食べている。いつも二人でお昼を食べている千早が彼を誘ってくれた時に、それとなく断られてしまった。
下駄箱で、思い出したように伊吹が口にする。
「明日は来れないんだよね」
「用事……?」
「うん、オープンキャンパス」
他愛もない話に大きく驚き、少し悲しむ。
明日は自習室に来ずに、家でやれることをやろうかとすら考えてしまう。
「じゃあ、えっと、また明後日かな?」
「そのつもり。とりあえず今日頑張らなきゃだけど」
「そうだね……!」
それから、明後日にはまた会えるという、小さなことに大きく喜ぶ。
この感情の名前だけは結依もずっと知っていた。
恋がどのようなものであるのか確かめるように、日々、心を動かされていた。
****
「あ、進藤くんも来てたんだ!」
大学構内の建物が集まる区域から抜け、強く日の差す道を歩いていた時だった。
私服の同級生を見るのはいつ以来だったかと考え、弟妹と手をつなぐ結依のことを思い出す。
「あー、うん」
微妙な挨拶になってしまった。
私服姿に驚いたというわけではなく、見知った顔の同級生が、見知らぬ彼女の仲間と一緒に居たからで、今の伊吹にはどう対応していいものか困る。
戸惑いながら後ろの三人には少し、頭を下げた。
「私服初めて見たー! 結構おしゃれじゃん」
「……ありがと。坂口さんも似合ってるね」
華があるな、と女性というものに現状いまいち興味を示していない伊吹も今日の坂口莉央を見て思った。
それを確かにするように、通り過ぎる男子学生のグループが彼女の方を見てから伊吹の顔を不躾に確かめて行く。
「えー、わかる? ありがとう」
二人が話をしている間に、伊吹の背後の方向から通りがかった女子グループも同じようなことをしていたことに、莉央と彼女の友人たちは気づいていた。態度にはおくびにも出さないけれど。
「進藤くんも志望校ここなの?」
「まだ全然決まってないから一応見に来たところ。坂口さんは第一志望だっけ?」
「うん。教育学部。進藤くん最近勉強ばっかりしてるから英語教育はやめてね?」
「英語は一番苦手かな……」
話題にするとしたら、別のクラスメイトにはただあいさつをするだけで通り過ぎた莉央が、わざわざ立ち止まって喋っている彼が居なくなってから。
二人が仲良くおしゃべりをしている外から、バレー部の活動中には決して見せない表情を見せる莉央にも気付かれないように、静かに噂の彼を改めてチェックする。
一見すればそこそこに背も高く、顔もファッションも悪くはない、という程度かもしれない。髪型なんかに気を遣っているようでもなかった。けれど、それ以上に今の伊吹には人に注目させるだけの何かがあった。
それは、誰も理由に気付くことはないが同級生より実は三年近く長い人生を送っているからこそ身に付いた雰囲気であり、さらにはその時間で求められた勇者としての立ち居振る舞いである。
伸びた背筋に、浮つかない態度。笑い方にも余裕がある。
それだから移動教室の度に莉央や成瀬結依、それに永井千早といった綺麗どころに囲まれているのも納得か。
「他はどっか見に行くの?」
「東京の方も何個か行くつもり」
「東京! 誰かと?」
「……一人でもあんまり目立たないかなって」
「あー、なんかごめん」
大学も一緒だったら良いのに、なんて思ってしまった心をかき消すように、莉央は大きなリアクションを取っていた。
目の前の彼は高校に入ってしばらく恋なんてものから遠ざかっていた自分にとって十分魅力的に感じる存在だった。
去年まではあんなので、でも結構なんでもできることを知って、顔も割と良い感じで、話始めると感じていた棘も抜いてくれて、笑顔に驚かされて、それから、どうしてそんなに変わったのかを知りたくなって……
でも、そんなことを思うたびに莉央の眼前には結依の顔が浮かぶ。街の塾で知り合って、志望校を決め切れなかったとき、一緒が良いからと精一杯励ましてくれた友人の顔が思い浮かぶ。
莉央は彼女を応援すると、心に決めていた。
「何日ぐらいに行くの?」
「20日から22日だったかな」
「一人?」
「母親と」
「へー」
聞いた理由は単なる興味だけではない。
彼の不在がその翌週……夏休みの最後の週ではないことが大事だった。
話を聞くに、誰かとの予定はきっと無いだろう。
せいぜいは自習室ぐらいなはずだ。宿題はもう終わっていると、先日遊んだ時に結依からも聞いた。
だから、最終の土曜日は空いてるらしいよと、莉央は結依に伝えなければならない。
大事な情報をゲットした満足感と共に手を振って、オープンキャンパスへ戻る。
伊吹はもうしばらく歩いて、莉央たちは一通り周り終えていたからそのままの足で近くの喫茶店に。
「結構良い感じ?」
「私は別に、そんなんじゃないよ」
「乙女だったよね」
「どこがー?」
「顔」
主力として新チームのキャプテンに任命され、頑張ってくれている彼女をひそかに応援しようという空気が作られる空気感を察し、そういうのではないと主張を強め、強引に話を逸らしたが、それが効果的であったかは家に帰った後も分からなかった。
****
「……」
「……」
まさか地元から数百キロ離れたところで顔を合わせるとは、という感慨が先に来た。
よりによって、一番上手く行っていないなと感じる彼と。
向こうは一瞬でも足を止めてしまったのが癪だったのか、すぐに足を速めて過ぎ去っていってしまった。
お互いに気になる相手ではあるけれど、素直に声をかけられる相手ではなくなっていた。
それは教室でも、学校のトイレでも、東京でも変わらない。
進藤伊吹と水野航希はそういう間柄だった。
上手くやりたいと思っているのもやまやまなのであるが、やはりきっかけが必要である。
あの綺麗に通ったパスでもまだ弱かった。
東京のオープンキャンパスで鉢合わせるぐらいではさらに弱いらしい。
さて、伊吹の東京滞在二日目となる今日は、午前と午後で二つの大学を梯子して見学している。
特に行きたい大学が無かったために日程が合った中で有名な大学を選んでいるが、東京の私立大学における施設の充実具合は地方の国公立大学とは大幅に違うらしいと感じていた。到着した昨日に見学した大学もそうだった。
ちなみに明日は付き添いで来てくれている母親と、東京の端の方から大学生活を満喫している姉と共に、行きたかったというレストランでランチを食べてから新幹線に乗る予定だ。ちなみに母は今日から姉と合流して鎌倉に出かけており、伊吹は一人だ。
伊吹の急な申し出に日程を合わせてくれたことも、息子の貯蓄を知りながら今回の旅費を工面してくれていることも、さらには姉に続いて東京の大学を志望するかもしれないということをさらりと受け入れてくれたことも、母親と、父親にも感謝しかなかった。
明日もきっとお金なんて出させてくれないから、どこかで恩返しをしないとなんてことを考える。
そういえば九月には母親の誕生日だ。何かできることがあるかな、なんて考える。
中学の時も全く親孝行なんてできなかったし、去年なんて心配しかかけていなかった。
結局、考えることは進路よりも今のこと。オープンキャンパスに参加した二日間もほとんど東京の空気を吸っただけで、行きたい大学を決めるのはもう少し先になりそうだった。新鮮で、楽しかったけれど。
三日目、駅で別れる姉が手を振る。
「じゃあねー、伊吹。がんばって色々」
「どーもー」
伊吹が〈勇者〉であることは昨年の夏に姉が帰省してきたタイミングで伝えている。食事や移動中には話題にもしないし、たまに送られてくるメッセージでも明言しない分別のある人だから、誰にも聞かれないところで、ちょっとした内情は暴露した。
推しだからとかなんとか言って、〈勇者〉のニュースをよく追っている人でもあるから、露出が減ったことにはよく気付いていた。
その〈勇者〉への激励として受け取って振り返ろうとするタイミングで、付け加えられる。
「彼女できたら写真送ってね?」
「……できないよ」
「ひっひっひ。そっかなー?」
「別に」
いつも愉快そうな四つ上の姉のことは嫌いではないし、良い姉だろうと思うけれど、伊吹は苦手だった。
****
新幹線での移動中に、昼までに届いていたメールやメッセージを返していく。
伊吹にとっては珍しいことに二つの連絡が届いていた。
メールは平川から。
別に彼のもとを訪れるわけではなかったが、たまにプライベートな近況を気にしてくれている彼には、メールで挨拶をしていたのだ。
ちなみに彼の出身の大学のオープンキャンパスは応募制で締め切りを過ぎていたし、そのことを彼に話したらあの学校に伊吹が行く必要はないと諭すような返信が送られてきている。
伊吹は今しがた東京を離れた旨を書き、必要であればいつでも飛んできますと加えて送信した。
もう一つは地元からの花火大会に行かないかという誘いであった。
伊吹には当然今週末の予定が無い。
行ける、と短文を返す。
それで返信はおしまい。
勉強道具も持ってこなかったので手持無沙汰な新幹線では、車窓から見えた景色に昨年の戦闘を思い出し、それから異世界での冒険や友人にも思いを馳せた。
進路というとそういえば、あちらの世界には学校のような制度がなく、十五になれば一人前の仕事人として扱われる世界だった。そんなだから、貴族様の生まれらしく、稀代の治癒術師であったという友人は、戦いが終われば家の当主位も継ぐだとかなんとか言っていた。勇者様の友人であれば箔が付く、なんてことも口にしていた。
伊吹は彼に調整を任せて、誰がどこの家の生まれだとか、それで決まる戦場の階級だとか気にせず、誰彼構わず助けることだけに専念させてもらったけれど、覚えていれば何か勉強にもなったかもしれない。
日本に帰り、落ち着いて歴史なんかを勉強し始めて、ものの考え方がまた変わってきたように思う。
新幹線からさらに乗り継いで家に帰り、その日の晩、もう一つ連絡が入っていた。
しばし内容を考えてから、『誘ってくれてありがとう。中学の同級生と約束しちゃった』と送る。
元のメッセージの送り主は坂口莉央だった。
クラスの何人かで来週の花火に行くから、とわざわざ伊吹を誘ってくれたらしい。
嬉しい気持ちもあるが、誘ってくれた事実だけをありがたく受け取った。