〈勇者〉と夏休みのはじまり
「進藤くん、えっと、またね……?」
「ああ、うん。また」
進藤伊吹は成瀬結依と交わしたそんな挨拶を最後に今日まで同級生と連絡すら取り合っていなかった。
特に難しい理由などなく、夏休みに入って一週間と少しの間は家族以外に人と会わなくなっていただけである。
「やほー、おひさー!」
「久しぶり」
そんな彼の記念すべき今週最初の同級生との会話は、今日は真後ろの席に座る園田菜帆とのものだった。
「進藤、テンション低っ!」
「……まあ、うん」
「ひ、ひさしぶり、進藤くん」
「久しぶり、成瀬さん」
「えー、結依ちゃんとうちらで対応ちがくない?」
二つ後ろの席に座っていた谷口沙也加の指摘を苦笑いで誤魔化しながら、机の上に必要な筆記用具を揃える。
図星であることを正直に言えるほど、伊吹は菜帆や沙也加と打ち解けられていなかった。
彼女らながたにえんの三人はクラスでも特にギャルという単語が頭を過ぎるタイプである。
伊吹としては悪い印象も全くないが、やりやすい相手でもない。
「いぶきんだもんねえ」
「ま、そっか、進藤か」
早々にあだ名で伊吹のことを呼び始める掴みどころのない菜帆や、そもそものテンションが決定的に異なる沙也加は特にそうだ。
「あ、そこが並ぶのか」
「さやと菜帆はそうだけど、そういえば進藤君もだね」
「最初の方いなかったしねー」
坂口莉央と話している永井千早は三人の中でもなんとなく話しやすいタイプだったが、出席番号に並ぶ席では少しだけ離れていて、一つ右の列の二つ前の席である。
その左隣、伊吹の二つ前が莉央の席だった。
ナガイの後ろはナルセであったからこうして並んでみると普段会話する面々は全員中央二列で距離が近い。
ちなみにサカグチとシンドウの間には卓球部の清水という男子がいるがまだ教室におらず、そもそも伊吹はまともに会話をしたことが無かった。
さて、夏休みも始まったばかりの彼らがどうして学校に集まっているかというと、これもまた特に難しい理由はなく模試があったからだ。
彼らの通う高校はそれなりの進学校であり、模試の際には半強制的に全員の出席が求められる。
あくまでも半強制的であるからと出席を踏み倒していたのが一年生の頃の伊吹であったが、今年はすでに二度目の出席である。
実のところでは真面目に取り組んでもボロボロだった前回の模試からどれだけ地力がついたかを少し楽しみにしている。
そんな彼の内心は知らず、志望校への判定が出る模試に対しての緊張とは違った何かを味わっているのが成瀬結依であった。
五月にあった模試の際は全く気にならなかったというのに、この距離で伊吹の視界に後ろ姿が映ることを意識してみてやけにどぎまぎとしている。
普段は気にしない髪型さえ気になってしまうほどだ。
結依は少し伊吹の方を確認した後、いつもの二つ結びをいじろうとしたのを諦め、姿勢だけを少し正した。
そして坂口莉央は友人のそんな様子を千早と話しながらも目ざとく見つけていた。
結依は進藤のことをあれ以降気にしがちではあったが、特に最近はよく彼のことを目で追っていた。
莉央がたまにからかってもみせるが、以前と反応が違うことも多い。
いいねえ、いいねえなどと内心で冷やかしながら、その変化がいつからだろうか、六月くらいだったかと考えていると、一つの記憶がはっきりと浮かび上がった。
二ヶ月前の記憶でもはっきり覚えている自分に少し驚く。
「莉央、どしたの?」
「いやー、あはは、何にも。てかさ──」
なるほど、助けてくれただけの男子から昇格するに事足りる理由だったかもしれないと莉央は早々に結論付け、現実の会話の方に注意を割いた。
それでも少しだけ後ろに目をやると、いつの間にか席に座っていた清水の肩越しに黙々と参考書を眺めるサボテン系男子の姿を見て、花を咲かせる品種だったかと冗談めかして結論付けるのだった。
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勉強の成果が出たのではないだろうかなどと午前の教科を振り返りながら弁当箱を開けていたら、いつの間にか周りを囲まれていた。
物騒な話ではなく、二つ後ろの沙也加が伊吹の隣の席へ移動していて、彼女らの昼食グループに取り入れられていただけである。
莉央と結依とながたにえんの三人だから、いつも通りにも近い。
清水君は何かを察したのかさっさと他の席へ移動していて、その席には莉央がずれている。
どうにも伊吹が動かないことを前提に座っているようだった。
「いぶきんって最近何してんのー?」
伊吹に尋ねてきたのは菜帆だった。
応援要請も無かったため勉強しかしていないのだが、それだけと答えるのも少しはばかられた。
「勉強……とか?」
「宿題さっさと終わらせる系?」
「うん、もう終わっちゃったけど」
「やば」
「うちのもしてくれていいよー?」
「えーっと、自分で頑張れ?」
事実、伊吹は課された宿題を最初の一週間で終わらせていた。
ああいうのは解き始めれば集中できるものだと伊吹は思っているが、毎日十時間近い時間をかけ、いちいち解き方の整理もしながら終わらせているのは並大抵のことではない。
彼がそれに気付くのはもう少し先の話だが、聖剣の加護による身体能力の向上は集中力の強化などにも及んでいる。
「家でちゃんと勉強できるの偉いなあ」
「そうかな……永井さんは?」
「私は全然。自習室かー、塾かー。結依ちゃんも自習室仲間だよね」
「う、うん! わたしは家だと弟が遊びたがっちゃうから」
自習室、そういうのもあったかと伊吹は箸を進めながら興味を持っていた。
ここまでの夏休みの景色として自室の机しか思い出されないのがなんとも味気ないと伊吹も感じている。
誰と話すわけではないだろうが、電車での往復があるだけで薄暗さから脱却できるのではないかと思われる
周りの反応を見れば、実際のところ待っているのはもう少し鮮やかな景色と予想できたかもしれないが。
少し面白がったような表情をしながら、莉央が聞く。
「せっかくだし進藤くんも来なよ」
「いいかも」
「本当?」
目を丸くしたのは結依だ。
最近よく勉強しているらしいからもしかすると、なんてことを最初の二、三日は考えていた。
莉央と千早はさっきより明るくなった友人の顔を見て目を合わせる。
気にしていないのは沙也加ぐらいだった。
「うん、引きこもってるのもあれだし」
「引きこもってたん?」
「引きこもってた」
「夏なのにー」
それから他の予定の話に移り変わっていって、特に何の予定もない伊吹は箸の進みが早くなった。
今年は帰省の予定も友達との予定も今のところない。
しかし、耳に入ってくる話にはいくつか気になるものもある。
……オープンキャンパス、そういうのもあるのか。
どうやら三年生の今頃には志望校が決まっているものだから、今年に行っておくのがいいらしい。
全く考えていなかったが、学校によっては申し込みも必要らしい。
いくつか考えている進学先の中で飛び込み参加できる場所を探しておこうと心に留める。
地元か、東京か、そんなところだ。
学費に関してはどこへ行くにも心配をしなくていいだろうと思えるぐらいの貯蓄も伊吹にはあった。
まだ詳しい話はしていないが、両親からも学費の心配はないと言われている。
伊吹が手洗いのために席を立つと、他の五人も午後の開始までの時間に気づき始めて積極的に箸を進め始めた。
いつの間にか、少しずつではあるが高校生っぽい感じに慣れてきたなと廊下を歩いていると、手洗いから戻ってきたのだろう集団の中の一人と目が合った。
記憶よりさらに日に焼けているが、野球部の井崎修太だ。
彼のことは苦手だったからさっさと歩いていこうと思い足を速めようとするが、今日は特に向こうから敵意を感じずに目が逸らされる。
どちらかというと感じたのは気まずさとか落胆とか、そういうようなものだ。
何かあったのかと思ったが、別に詮索するほどの興味は伊吹にはなかった。
「おっす、数学できた?」
「えーっと、前よりは」
「前よりはかー、進藤はそうだよな」
「まあ、うん、前がね」
トイレで出会ったのはサッカー部の稲葉潤哉だった。
クラスマッチ以降、少しだけこうして挨拶するぐらいの関係となっていた。
「そろそろ進藤にも負けそう」
「どうだろう」
手を濡らしたまま教室に戻っていく潤哉を見送る。
こうして会話できることに少しずつ、本当に少しずつだがクラスメイトとの関係が深まっていることを感じる。
ちなみに水野航希とはまだまともな会話はない。
夏休み以降はイベントも多いから、上手くやれるといいがなんてことを思った。
「……」
「……」
トイレを出て行くときに水野とすれ違ったとき、やはり何も話さなかったが。