赤ん坊(二度目)
彼が次に目を覚ました時、其処は水中の部屋だった。狭く、体を折り曲げて入っている。
体は何とか動く。目は開かない。目覚めて動く内に息苦しさを感じてきた。
(あれからどうなったんだろう。兎に角、今はここから出ないと。)
壁を内側から押して揺らす。
(だめだ。ビクともしない。鳥みたいに嘴でもあったらどうにかなったかもしれない。どうにか、外の人が気付いてくれないかな)
どんどん息苦しさは増していき、意識が遠のき始めたところで外から壁が破られた。
「キャアア!キャアアア!」
漸く息ができるようになり荒い息をする。かつてとは勝手が違い、声を出しながらでないと息が出来なかったが、直ぐにコツを掴み自然に息を出来るようになった。
(死ぬかと思った、でもまるで赤ちゃんみたいだな。いや、あの部屋は卵みたいだったし赤ちゃんてのも外れじゃないかも)
すぐに強い眠気を感じ、彼は寝てしまった。
数日して彼は
「ペコペコ~、ペコペコ~」
妙な鳴き声を上げていた。
ここでは日本語は通じない。この地で使われるオルジャという言葉は彼には分らなかった。そこで最低限の意思を伝えるための合図を作ったのだ。
日本語で空腹を伝えようとすると「腹減った」だの「空腹です」だのパターンがありすぎて覚えにくく、同音異義語が多いのもそれに拍車をかけた。そこで「ペコペコ」と繰り返すことを空腹の合図にしたのだ。今はある勉強法でゆっくりはっきりを意識して話してもらえば何とかオルジャ語も分かるようになっていたが、癖でこの合図を使っている。
「tp;n/? jhgfd」
待機していた侍女らしき人はその声を聞くと部屋から出ていった。
この部屋は石造りの一室で、窓の景色から察するに高い階で、彼はクッションの山の中でぬくぬくとしていた。
(言葉が通じないって不便だよな~、いや生まれたてが不便?)
彼は転生したのだ。最初の部屋は卵みたいではなく卵そのもので、あの時の声は産声だった。
(あの世界で会った時、肉の体を与えると言われたがこんなに幼い体とは思わなかったな。いや、ある程度育った体にはその体の魂があるだろうし、新しく作るとなれば卵の中から始まるのも当然かもしれない。)
卵。そう、彼は今生は卵から生まれたのだ。前世のような人ではない。上半身が人で下半身が鳥の異形である。鳥の翼と人の手をもつ辺り、人の腰までと鳥の首までと言うべきかもしれない。卵自体が大きかったようで全体の体重は既に人の子供を上回るだろう。鳥部分は白に近い黄色の綿毛に覆われて正に雛といった段階で、人間部分も幼児のようだ。更に言うとメスである。もう彼というのは適切ではない。彼女と呼ぶべきだろう。
こんな生物が存在するとは元の世界では考えられない。数日生きた限り文明も中世レベルで魔法や魔術がある。ここは異世界であるという考えも現実味を帯びてきていた。
それでも彼・・・彼女に後悔はなかった。
自分が溶けて混ざる心配をせずにいられる。
やがて扉が開いて少女が入って来た。歳は10台の後半だろうか。灰色の髪に褐色の肌で、作り物めいた無表情だが美少女といってよい。手には篭を持っている。
その少女の名前はアデリーナ・アランデルといい、愛称はリーナという。彼女はそこそこ古参の貴族アランデル一族の一員で、あの世界で会った魂は彼女だった。何でも使い魔にするためにあの世界で状態の良い魂を探していたのだという。
「リーナ、ペコペコー、ていうかわざわざ人を待機させてんだから、その人に持ってこさせりゃいいじゃん」
『日本語、は、だめ。使わない、なら、覚えない』
もう一度今度は片言だがオルジャ語で繰り返す。
『あの人、近く、待っている。リーナ、遠く。何故、リーナ?』
『本、を、読んだ。使い魔、は、大事に、世話する、すると、懐く。クリス、は、私、に、懐く、それが、うれしい』
クリスというのは今の彼女の愛称で、本名はクリシュティナという。名付けたのはリーナである。
リーナはクリスに近づくと篭から肉を取り出した。牛か、それに類する大型動物と思われる大きさのリブだ。
『残す、事は、成長、に、良くない』
そう言いつつ手渡す。
『分かった』
そう言いつつクリスは直接噛みついて食べていく。人の上半身のような部分だが、中身まで人ではない。人の口には20以上の歯があるが、今のクリスの口内には上下合わせて一対の嘴が代わりにある。人の時のように食べ物をすり潰したりは出来ないが、切り分ける事は寧ろ得意であり、鳥らしくサイズさえ許せば丸呑みである。
とは言えリブであり、すぐに骨にあたった。
身体を強化する魔法を使いながら骨ごと噛み砕いて飲み込んでいく。
『今、良く、身体強化、できる』
これも魔法に慣れる訓練の一環なのだ。魔法を使わないと食べにくい食事をする事で嫌でも魔法を使うわけだ。
この世界には魔力があり、その環境で進化してきた生物はそれぞれの魔力の利用法、魔法を持つ。身体強化は多くの生物が使う魔法で、それこそ体に力を入れるぐらいに自然な事なのだそうだ。元々魔力を使って身体強化を行う機能が体に備わっていて、昔は筋肉に力を入れることも身体強化を発動することも区別されていなかったほどだ。
『ん、褒美、の、温かい、ミルク』
「おお、待ってました!」
思わず日本語で喜びながら大きなカップに注いでもらい、両手でもって飲む。
(この仄かな甘さと熱すぎない暖かさ・・・幸せ・・・)
「ふう・・・」
『お昼寝は、まだ』
食事が終わると勉強の時間とリーナによって決められている。
リーナは何か固い殻の欠片で円を作り、二人(?)はその円の中に入った。
リーナは更に鞘に収まったままの短剣を取り出すと、床を叩いてリズムを取りながら詠唱を始めた。
唱えると言うべきか、歌うと言うべきか、不思議な呪文。
クリスの意識が遠のく。
気が付くと再びあの概念の世界にいた。
今日が初めてではない。
最初はせっかく抜け出したのにまた此処なのかとパニックになりかけたが、今では緊張するくらいだ。
何故ならすぐに戻れるし、約束がある。
約束はこの世界では実際に魂を縛る。しかし縛るとは固定する事でもあり、それは自分を保つ事に役立つ。繋がった鎖の先にはリーナがいるという事実もクリスの支えになった。さらに今もリーナのリズムと呪文が聞こえてくる。おそらくそれも自分と目的を見失わないための手段なのだ。
魂が剥き出しの状態でリーナがクリスに触れる。
人と他愛ない話をしている。本を読んでいる。兵士の訓練の声を聞いている。社交界で同じ年頃の貴族と話している。騒がしい兵舎の食堂。
勉強法とはこの事だ。ネイティブのリーナの言語に関する記憶を追体験する事で通常よりずっと早く言語を習得する。一般人が相手ではこの世界は危険すぎて使えないが、訓練を積んだ者やこの世界で約束をした者は短時間なら耐えられる事を利用した魔術だ。使用できるのは魔術師か使い魔に限られるだろうが、産まれたばかりの使い魔達に言葉を教える事ができるので魔術師の間では広く知られた魔術であった。
すぐにリーナはクリスから離れた。
そして再びクリスを引っ張りながら元の世界に帰り始めた。
気が付くと元の部屋だった。
リーナは部屋の棚から絵本を取り出してクリスに渡す。
『声に出して読んでみて』
今までよりも自然なオルジャ語で話しかけられたが、何とかついていけた。
『分かったわ。アリベルト・アランデル え~と、彼はコンラート、とタチアナの間に、生まれました』
追体験は追体験でしかなくそれだけでは猿真似の域を出ない。こうして実際にオルジャ語を使う事で更に学習効果は高まるそうだ。人型でない限りは使い魔にここまで学ばせるメリットは薄いらしいが、クリスも人の上半身を持つのでどうせならやろうという事になった。
絵本は当然オルジャ語で書かれていて、子供向けの簡単な文が殆どだ。活版印刷もないのか絵も文字も手書きで装丁も革と糸の手作りで、題名は「アリベルト・アランデル」。アランデル一族の初代についで、自分達の子供に字を教えるついでに一族への愛着も育てようという訳だ。中世レベルに見えるこの世界では印刷技術も発展していないのかもしれない。それなら広く使われる教材は無いだろうし、それぞれで手作りするのも自然に思える。
本によればアリベルトは初めは開拓村の村長兼自警団長だったらしい。父の代から発現した魔法[剛体]を受け継ぎ、戦場での手柄と相まって下級貴族にとりたてられ、引退前には当時の名将軍コンラート・ベロワの側近として城門要らずのアリベルトと呼ばれる程だったそうだ。
『今のアランデル、一族は、みんな、アリベルトの子孫です。剛体の魔法は、それは証拠です。剛体の魔法が無い子も、頑張り屋さんを、を・・・』
『受け継ぐと読むの。意味は分かる?』
『親から、子供。師から、弟子。共通点。』
『そうよ。クリスは賢い子ね。・・・祖アリベルトは魔法を生まれ持っていたけど、それに胡坐をかくようなことはなかったの。私も兄様も[剛体]を受け継げなかった。それで拗ねた時もあったけど、努力でアリベルトの血をちゃんと継いでいると証明しているのよ。私は戦しか取り柄が無いけど、兄様なんか[剛体]無しでも次期当主なんだから。』
『兄様?兄弟がいるの?そう言えばこの部屋から出たことないわ。部屋のメイドさんもいつも同じ人。』
『・・・ごめんね。でも外は危険なの。もっと育つまでは部屋から出ちゃだめよ』
『・・・わかった』
正真正銘の子供だったら駄々をこねていただろう。
しかし、前世を覚えているクリスはリーナが真剣なのだとわかった。
クリスの記憶を追体験しているので自然と女性語になっています。