16 その時
ループ。
『南流 ぷらは』の苗字と末字と名前の始めを取って伸ばし棒を入れたあだ名だ。ループというと輪廻という言葉が連想されていつも同じような日常を送っている自分に似合ったあだ名と彼女は思っていた。
それに両親から付けられたこの名前が嫌いだった。名前の語呂とかではなく、両親が嫌いでそいつらが付けた名前だから嫌いという至極単純な理由だ。
あだ名を付けられるのは初めてではない。むしろ何回もある。といってもそのどれもが悪意に満ちたあだ名で、苛めに利用されるだけの名前だった。だからかあだ名というものにも好意的になれずにいたが、彼の付けたこの名前だけは受け入れる事が出来た。
付けられたのはずっと昔の話だ。
ループが終留の学校に転校したのは、終留が中学二年生の頃だ。前の学校で苛めを受けて不登校になってしまった彼女を慮って両親が決心した。両親からすれば好かれと思って下した決断だったが、ループにとっては有難迷惑極まりなかった。
ずっと家に籠って本を読んで、自分の考えに浸るのはとても生産的な行為に思えたし、わざわざ住み慣れた街を離れて、集団というのが露わになる学校などには行きたくなかった。
勉強は得意である。特に文系科目には大きな自信があって、舌戦となるなら負ける気は全くしない。
ただ何かと多数決を取って、コミュニケーションやらチームワークなど鬱陶しい言葉が飛び交う牢獄には行きたくないのだ。
転向した初日。何も知らない人間達が彼女の周りに群がった。
どこから来たの、好きな食べ物は、校内案内しようか──聞いても無意味な非生産的な質問に彼女も二日程度は耐え抜いた。三日辺りから演技にも疲れて、対応も素っ気無いものにすれば、自然と周りも転校生への熱狂が冷めていった。
そこからまた前と変わらない日々が始まった。
違うのは本を読む場所が学校というだけで、やっている行為に違いはなかった。
数か月が経った。
もはや転校生という肩書も消え失せていたその頃、彼女にとって運命とも呼べる人間と出会った。正確にはその存在に気付いたという方が正しい。
その少年もまたクラスに馴染めず、教室の端で読書にふける毎日を送っていた。同じ事をしていたわけだが、さして興味はなかった。
元より他人に興味のないループにとって、自分と同じ人間がいるとかそういうのはどうでもいい。会話相手は本だけで充分だと思っていた。
その存在に気付いたのはとある社会の授業だった。
「本気でやるのか?」
それが少年の第一声だった。
こんな子供だましの発表会、結果が彼女には見えている。してもどうせ意味がない事だし、やった所で技能が上昇する見込みはなく非生産的な行動極まりない。
ただ先生の目もある。先生からの評価が下がる事自体は問題ではないが、それらが積もり積もった時に親への報告が面倒である。ループはあくまで馴染みたいけど馴染めないという態度を示す必要があった。もちろん本心は馴染みたくない、だ。
そこで相手の少年がどう考えているのか睨めつけてみると、
「……分かったよ。やりゃあいいんでしょ」
勝手に勘違いしていた。
どうやらこの少年は元から彼女と発表がしたかったようだ。
ただ彼も自身の願望に気付かないようにしているから、彼女にとっては面白い。
ループは中学生にしては頭が相当にキレる。
だからすぐに判る。この少年、少なからず自分に気があるという事が。
小学、中学生の恋など簡単なものだ。それが成就するかしないかはさておき、だいたいは顔で決めている。性格や経済面などのその他の条件を考え始めるのは大学生、早くても高校生ぐらいだ。
ループは自分で自分のルックスはなかなかだという自覚はあった。
それは決して慢心ではなく、ループは磨けば世界にも通用するほどの容姿を持った原石だ。流石に本人にはそこまでの自覚はないものの、ある程度自分の容姿には自負があった。加えてそれに釣られる虫のような男子の存在も想定の範囲内だ。
「まあ、男子は戦国好きだからな。好きな合戦や…………」
勝手に自分の意見をひらかし始めるという行動に、内心またかと呟いた。
「誰とも被らない……そうだな、旧石器時代とかどうだ」
あまりに型にはまった言動なので、思わず笑ってしまった。それを少年はまた好意的に受け取ったらしく、大層喜んだ顔を浮かべる。
その後は適当に言葉を並べて相手を受け流し、発表会を無難なく終わらした。
少年との最初の出会いは、彼女にとっては取るに足らない事だった。
時は流れる。
学校で苛めについて考える授業があった。最近、苛めに苦しみ自殺に走ってしまう事件が後を絶たない中、この学校でも一度クラスで考える機会を設ける事になった。
苛めに関してループは独特の価値観を持っている。
それは苛められる方が悪い、という事だった。
何が正しい価値観かの議論はここで置いておくが、彼女は自身の苛められた経験からそういう考えに至った。
小学生の頃だ。
彼女を苛めた女子は陰湿なもので、メールやラインなどで頻繁に嫌がらせを行い、学校で答え合わせと言わんばかりの行動をしていた。
苛められていると認識していた時はそれが嫌で堪らなく止めて欲しいと頼んだが、それは相手の歓喜を刺激するだけで、愚図には効果がないと判った。
故にその嫌がらせを無視する事で、相手も喜びは失せる。
質の悪い相手はループの所有物に手を出したが、それはすぐに学校に報告する事で、相手はループを苛めるのに面倒な奴と認識して手を出さなくなった。おそらく彼女の代わりに苛められる人間がいるのだろうが、そんな事は知った事ではなかった。
彼女は自分がこんな冷めた性格になったのは苛めが原因で、自分は悪くないと思っていたからだった。
この性格は環境のせい。だからこの他人の不幸なんて知った事ではないという考え方も環境のせい。
結局、ループは自分さえ強くなれば、苛めは受けないという考え方に至ったのだ。
そして本日この考えを作文でありありと述べたのだ。
この考え方は周りの『苛めを受けた事のない連中』から大きな批難を買った。特に先生は若手でループの考えを遠回りに否定した。書き直すように放課後残るように言われた。
別にこんなしょうもない事に本気を出す必要などないのだが、彼女は自分の考えを権力によって変えさせられる事に憤りを感じた。
適当に相手が満足する文章を書いて提出すればそれですぐに帰られるのに、ループは渋っていた。自分でも非生産的な事をしていると思っていたが、自分の考えを曲げる事が嫌だった。
同じような馬鹿がクラスにはもう一人いた。
以前社会の発表会で一緒のグループだった少年だ。
教室の端でうんうんと唸っては、何か調べ物をして、また書いている。
少年がトイレに行った時、どうして居残っているのか気になった彼女は、ちらっと少年の文章を盗み見た。
そこには『苛めの原因は集団化にあるのは言うまでもない。集団が形成される事によってそこに加わる事の出来ない人間または集団からこぼれた人間が苛めの対象になる。すなわち苛めをなくす為には集団そのものを解体するしかなく、それには今の日本の教育方針を大きく変える必要がある。具体的にはチームやグループといった言葉は削除し、一人一人の人間の個性に着目する姿勢が大切である。そもそも人間というのは────』うんたらかんたら。
具体的と言っているのに、挙げた内容はあやふや。思わずループは地で笑ってしまった。
とその時、
「お、お前! なんで見ている!?」
しまったと思った。予想より帰りが早いと思ったが、どうやら少年は顔を洗いに行っただけだったようだ。
ループは見つかった事よりも、自分の読みが外れた事に内心舌打ちした。
「別に。通りすがりに目が入っただけよ」
「しっかり見てたじゃないか」
こうなっては話をごまかすしかない。
「……。それより、こんなちょっと高尚ぶっただけの的を得ていない文章を書いて満足なわけ?」
「しっかり見ていたと自白したようなものだな」
ループもまだ中学生。頭は冴えても、感情は子供で、やはり予想外の事態には弱い。少し動揺しているのを自分でも解っていたが、制動できないぐらいはまだまだ少女だった。
「それよりこの集団云々というのはどういう意味なの?」
自分の罪を紛らわせる為に繋げた言葉が、会話を長引かせるきっかけになると彼女は気付いていなかった。
「ん。書いてある通りだな。今の日本というか世界はあまりにも多数が強い。多数が正義という考え方が我が物顔で蔓延っている。少数派は押し潰される。苛めもそれと同じだろ? だって苛めている張本人に加えて傍観者達も結局は黙認している。苛めを受けるのはいつも少数というか一人だ。その一人の犠牲でクラスが成り立っているといってもいい。テロ国家だからといって空爆を仕掛ける戦争をスケール小さくしたようなもんだ」
何かの受け売りかと思ったが、最後の比喩が初耳で、言う口調にも自負が感じられる。中学生にしては珍しく、この少年は自分を持っているというのが判った。
「苛めをなくすにはどうすればいい?」
相手の思惑を量るループの問いに、少年はすぐさま返答した。
「苛めは動物の宿命だ。他の動物だって苛めはある。人間も知性を持っているとはいえ、持っていない野蛮な人間もいるし、その人間の暴走も絶対になくならない。苛めをなくすという視点が間違っていると考えるね」
「……?」
同学年の言葉の意味が分からなかったのは生まれて初めてだった。
俄然、興味が湧いてきてしまう。
「逆の発想さ。苛めを利用するんだ、人間形成に。苛めを受けた人間は弱者の気持ちが身に染みて理解できる。更にその苛めを耐え抜けば強靭な精神が手に入る可能性がある。苛めが人を強くするんだ」
「教育委員会が聞いたら火を噴きそうね」
「実際俺は強くなった。勿論、その苛めに耐えられず不登校になったり、命を絶つ人はいるけど……それはその人の問題だろう? 苛めのレベルを比べる事はできないけど、それを耐えられるか耐えられないか。それがその人が強いのかどうかという事だ。死に逃げた時点でその人は負け。違うか?」
「一般受けはしない考え方ね……」
と言いながらも、ループは感心していた。この少年は本当にそう信じている。それはおそらくこの少年の過去から形成された確固たる信念のようなもので、ループに共感されるかどうかなど二の次だ。ただ自分の言いたい事を言っているという雰囲気が伝わってくる。
この少年は自分に気があると思っていたが、自分の信じるものは誰であろうとぶつけるという姿勢に、ループは感嘆とした。
加えてループの考え方と似ている所も多い。
人は概して共感を他人に求める生き物で、それがなされた時には好意という感情が芽生える。この場合、ループはこの少年に興味を沸かせた。
「あなた……名前は?」
「……知らなかったのか。まあ、いいけど。終留 生だ。終焉の『終』に手紙を『届』ける。生は生きると書いて『うまれ』だ」
「変な名前」
「その分、覚えやすいだろ」
彼女はその名を自身の記憶の箱にしまった。ループが他人の名前を覚えるという事は非常に珍しい。終留はその事自体にさして感動は覚えていないが。
「……。南流 ぷらは」
「へ?」
「私の名前」
「あ……、ああ。知ってるよ。……有名だしな、そっち」
この時からループは終留 生という人間を認識し始めた。
それからループと終留は互いに意見を交わし合い、共に昇華し合った。相手の意見を真摯に受け止め、それを本気で反論するという事はとても有意義な事だった。
彼女は他人とのコミュニケーションが大事だという偉人の言葉の意味をようやく理解した。
二人の仲が徐々に深まっていく事は当然の流れだった。
仲が深まるにつれ、相手の事をもっとよく知ろうと思い、相手の生活や過去を聞き、自分もお返しに昔の事を語った。
どちらも苛めを受けて、こんな捻くれた性格になったのだと同時に判った時は、盛大に笑ったものだった。
その時終留が付けてくれたのが『ループ』という名前だった。ループはお返しに終留 生を自分と同じように使って『ルウ』というあだ名を作った。
学校でも時たま、あだ名を使って互いを呼び合った。
それが今まで隠匿としていた二人の関係を、周りが知るきっかけとなったのは、皮肉な話である。
そこからは……嫌な話になる。思い出したくない。
病室を抜け出し、誰も来ない適当な家の屋根の上で、ループは過去の出来事を思い出していた。
ただいつもこれ以上は思い出さないようにしている。
この後から彼女の人生は歪み始めたからだ。
それを思い出すだけで憎悪が溢れ出てきて、あの男二人加えてクラスの愚図共を焼き殺したいという殺戮衝動が湧いてくる。それだけの力を既に彼女は手に入れているからだ。
あいつらがもしも天国に来たならば、その時は全員血祭りにあげる事すら妄想してしまう。
狂気の沙汰だ。しかし彼女の人生を死後も含めて知った人ならば、狂気と言い捨てる事はできないはずである。ジュエルを扱う力は、その人の哀しみによるからだ。
その哀しみを与えた連中への憎しみは彼女を狂わせた。
能力もないくせに集まる事で強くなった気になって少数の者を虐げる人間に、ループはおぞましいほどの憎しみを抱いていた。とはいえそれも思い出さなければいい。
だからいつも好きな所で彼女は追憶を止めている。
追憶の中の人間というのは三割増しで映るものだが、あの時終留の考え方を見て青天の霹靂の思いだった事は鮮明に覚えている。同年代で自分と同じ考えに至った人間がいる事に嬉しさすら感じた。
終留は彼女に正しい事は一つとは限らない事を教えてくれた。
他の愚民と終留は違うと認識していた。彼だけが自分の考えに共感し、更に自己の考えもはっきりと伝えてくる。そういう相手を彼女は欲していた。
それを信頼という言葉に世間一般では置く。
だがその信頼を裏切られた時、ループもまた子供であったから、その衝撃は大きかった。もう少し経験を積み、人には自分の身を守る本能があると分かっていれば、終留の行動も受け入れる事ができた。しかし、時の悪魔は皮肉で、ループの目に映った終留の姿は自分を守る事に必死になった貪欲な亡者だった。
終留はその後も、ループを助ける事はなかった。
彼はループを助けようとは全く思っていない。
ループだってそれを望んではいなかったのだが、いざ助けて欲しいと思ってしまった時はそんな事を忘れていた。結果的にループは終留を拒否してしまう事になった。
「……ルウ」
今はどうだろうか。
今のループが過去の出来事を俯瞰してみると、終留の取った行動は中学生としては当たり前だった。ましてや生前の話だ。死後まで持ってくるなと言いたい。
それでもループは終留を許せずにいた。
彼女にはもう終留は必要のない存在だから、許さなくても平気なのだ。
時は土曜の深夜。定時連絡の時間が近付いてきた。
ループはそっと屋根から降り、一つの方向へと向かっていった。