15 失敗の意味
ジュエルは問う。お前は何を求めているのかと。
人は答える。力を欲すと。
力とは一体、何が為に必要なのか。
他を制圧する為か、己を護る為か。
哀しいかな、創造主はそんな陳腐な理由の為にジュエルを人に与えたのではない。
ジュエルとは人の歴史そのものなり。
文字は人の記憶を後世に繋げるが、文字では人の技術は繋げない。
武勇に優れた英雄は万もいない。
また各英雄の持つ力も、各英雄によって違う。
それを受け継ぐ事は新たに英雄が生まれるより難しい。
英雄の死によって、その技術もまた闇に消える。
おお、なんと嘆かわしい事だろうか。
創造主は消え散る無念を晴らそうとしたのだ。
愚かな人間は創造主の良心さえも、ジュエルを融合するという悪事で返答した。
一億の人間のジュエルを合わせるなど、なんとおぞましい事か。
しかも、そのジュエルをたった一人の人間に背負わせた者は、何を考えている?
歴史は言う。
お前には最後まで人類の罪を償う義務があると。
目を覚ますと、ちちち、と小鳥が鳴く声が耳に入って来た。俺はベッドの上で横になっていた。傍には誰もいない。
起き上がろうとしたが、頭痛がひどくて、すぐに背中をベッドに預ける。記憶を辿ると、マルコの心臓に一突きした所まで思い出した。どうやら俺はあの後に気を失ったらしい。
辺りは病室の個室のようで、窓から光が優しく入り込んでくる。
森閑とした部屋に、がららと音を立ててジャンガーが入って来た。起きて早々、筋肉質の男を見るのはテンションダウンも甚だしい。ループ、雪野とはいかないまでも、女性の看護師ぐらいは 来て欲しいものだった。
「起きておったか。一日近く眠っておったぞ。随分と熟睡しておったようだから、心配はしなかったがの」
言いながらジャンガーは持っていた鞄から一着の服を取りだして、
「ほれっ」
と言って投げてきた。キャッチして広げてみると、見た覚えのある騎士団の団員服だった。ジャンガーがにやりと笑う。
「騎士団入団、おめでとう。心から君の健闘を称える」
拍手しながら言われたジャンガーの言葉に、俺も感極まるものがあった。
この男の下、一か月の苦しい修行を耐え抜いた。その苦労が報われた事に、涙せずにはいられなかったのだ。きっとこれは受験生が合格掲示板に自分の名が合った時、合格者となった感動に近いのだろう。
「まだ勝負がついていないのに、こちらの方を向いた時は冷や冷やしたぞ。デュミオン元帥の存在がそれ程気になったのか?」
状況を思い出す。あの時はマルコとの対戦で必死で、他にかまう余裕はなかった。なのに、俺はデュミオン元帥の方に気を取られたのだ。
「その事なんですが、自分でもよく解らないんです。誰か来たというのが分かって、急にそれが気になったんです。その……妨害を疑う事にはなるんですけど、人の意識をコントロールできるジュエルなんてありますか?」
そう尋ねると、ジャンガーの方が何かに気付いたらしく、手を顎に当てて思考に入った。先ほどの表情が消え、そこには僅かな驚きが見えた。
「まさか……、しかし何の為に……?」
「どうしたんですか? 何か分かったんですか?」
「うむ。じゃが、確信が持てぬ以上、言うべきではない事じゃ」
ジャンガーの気付いた事に関心がそそられたが、彼が秘匿するべきだと判断した以上、俺は追及する気にはならなかった。偉大な恩師の判断を詮索しても意義はない。
ジャンガーは話を切り替えようと言わんばかりに、おもむろに一枚の用紙を出した。
「ほれ、招待状だ。明日、騎士団入団式がある。神、元帥殿が列席する正式な行事だから必ず参加せいよ? もう一日お主が眠っておったら叩き起こすつもりじゃったがな」
「はは。わざわざありがとうございます。……あのすみません、ループや雪野はどこにいるんですか?」
「雪野、というとあの子か。確かループ殿と一緒におったから、直に来るだろうよ。では、儂は他に仕事があるのでな、また会おう」
そう言ってジャンガーは足早に病室から出ていった。
しばらく窓の外を眺めていると、不思議な気分に包まれた。
ついこの前まで現世で先の見えない生活をしていた。ひたすら犯人探しに明け暮れて、学校は楽しくなかったし、生き甲斐を感じた事はほとんどなかった。したい事が見つからず、何かに束縛された毎日を過ごしていた。それは暗闇の中を当てもなく歩くようで、無感動でつまらない日々だった、
今は違う。
俺には目標がある。大切な人がいる。頼れる人もいる。
生きていた頃よりも生きていると感じている。そんな矛盾めいた感情が渦巻いていた。
ふと思う事がある。
生きると死ぬは反意語同士ではないのでは、と。死んでいなければ、それは生きていると言えるのかと。世の中には呼吸はしていても生きていない連中は大勢いる。毎日起きてルーティンの生活をして、また寝て明日を待つ。たまの休みが生き甲斐ならまだ幸せを見出せるが、それすらもなくただひたすら同じ行動を取り続ける。機械のような毎日を果たして生きていると表現できるのだろうか。
ソクラテスは言った。
大切な事はただ生きるのではなく、善く生きるという事だと。
目標もなく漠然と生きる事は単に生命活動をしているというだけであって、善く生きているわけではないのだと思う。
だからここに来て俺は皮肉にも生まれ変わったような気がしてならないのだ。おそらく世界旅行は百回しても得られない体験だろう。様々な新鮮な体験が脳裏に刻まれ、脳が嬉しさの悲鳴をあげているようだ。
まわりくどい言い方だから、一言でまとめると、
この世界が好きになっていた。
どうやらそうみたいだ。
しばらく病室のベッドで考えを整理していると、ノックが叩かれ、返事待たずにループと雪野が入って来た。雪野はすっかりループに慣れ親しんだ様子で、ループもその甘えに満更でもない表情である。
面白くないというのはこういう事だろうか? いや、女の子二人がお見舞いに来るのに不満を言うなんて、世の非リア充共に殺されかねない。ほら、ボク一応リア充なんで?
そのにやけた顔の俺を見たのか、ループは全く心配そうな顔をせずに社交辞令よろしくのお決まり文句を口にした。
「ルウ。調子はどうなの」
「1人じゃリンゴも食べれないレベルだと言っておこう」
「そ。雪野ちゃん、流動食持ってきてあげて。それが食べたいみたいだから」
「はい!」
「おいこら待て。今のは、お籠からお口までというオワリッジ報告なんですけど。勝手に粘性の液体を密輸入されても困るんですけど」
「例え下手すぎない? 面白くないんだけど」
うひょー。ループさんこれだから。
「むしろ微分方程式で例えられても解らんだろう? 文系のジョークの方がそちらに優しいと思ってね」
言ってみたけど、微分方程式でどうやってギャグするんだろう。初期条件を設定すればリンゴをお口まで持ってくるという特殊解が得られる、とか? 無理やりだな。
「どーでもイイけど、雪野ちゃん、何か飲み物取って来てくれる? B棟の方まで行けば給水場があったと思うから」
「えっ、B……?」
雪野はちらっとこっち見て、何か得心が言ったようで、
「解りました! では行ってきます」
はて何のことやら。もしここが騎士団の病院施設ならば、B棟というのはかなり遠いように思う。わざわざそこまで行かなくても、見つかるとは思うのだが、もしやわざと雪野をこの場から遠ざけたのかもしれない。それは雪野も承知の上で。
「さて、と」
ループは背凭れのある椅子を引っ張り出して、俺のいるベッドの横に来て、腰をかけた。足を組んでじっとこちらを見つめる。
告白? と期待したがそんな妄想はすぐに一蹴された。
「これから聞く事、全部正直に答えて」
さっきまでループと何処となくじゃれ合い、朗らかな顔付きだったが、今は凛とした表情でその眼は真っ直ぐに俺を捉えていた。
その姿に無意識に圧倒されていた。
ごくりと唾を飲み込む。
「あなたは倒れて後、何が起こったのか覚えてる?」
唐突な質問にすぐには意味が読み取れなかった。
「マルコ……さんとの決闘の時、最後に倒れた時、あなたには何か意識があった?」
ループの補足にようやく何の事を言っているのか判った。
「……いや。倒れたんだから覚えているわけがないだろう? そんな恐い顔して……、何があったって言うんだよ」
ぎこちない雰囲気をむりくり作った笑いで誤魔化そうとした。
けどそんな事をしても、ループの目はどこか哀しそうであった。
たっぷり数秒瞳を閉じて、口を開いた。
「……そう。端的に説明するとあなたは暴れだしたわ」
「……え?」
一時、意味を読み取れなかった。
「あなたが動いたというより何かに動かされていたみたい。幸い大した動きではなかったし、その場にかなりの使い手が揃っていたから、大事には至らなかったけど。ジュエルが人を操るなんて話、聞いた事がない。教えなさい、ルウ。あなたは一体どんなジュエルを手に入れたの」
「……。いや、……え、嘘……だろう……?」
「怖いのは解る。でも落ち着いて話を聞いて。あなたはあの時意識がなかったこれは正しい?」
「……あ。ああ……」
「じゃあ完全にあなたは自分の意識では動いていなかった事になる。となると、これはジュエルが暴走したとしか考えられない。近くにいた元帥でも前例はなかったと言っていたから天国史上初めての事例となる。ここで対処を考えなくちゃいけないの」
続けて、
「あの時ルウはいきなり暴れ始めた。上から糸を垂らされた操り人形みたいになって、それでも無茶苦茶に剣を振り回していた。決闘の後で精根尽きたはずなのに、体が動くなんておかしい。ジュエルの力が勝手に作動したという事になる。でも、怨念に取り込まれたなら今のあなたが意識を持てるという事に不都合が生じてくる。ルウはジュエルに完全に支配されたわけじゃないから、落ち着いて欲しいの」
さらに、
「これからルウがジュエルと向き合う為にはまずジュエルを知る事が重要なの。どんなジュエルを持っているのか。それを理解すれば扱い方にも直になれると思う。いい、今必要なのは自分がどんなジュエルを持っているか、それを明らかにする事。わかった?」
ループの話など後半から耳に入っていなかった。それだけ愕然としていたからだった。
俺の体が俺でないものに動かされているという事に、全身身の毛の立つような恐怖の感情だけが沸き上がった。いつ何時、この身体を乗っ取られるか分からない不安が一気に押し寄せていた。
「あばれた……? 俺が……あばれた?」
「ええそうよ。騎士団はその原因を突き止めなくちゃいけない。明日の入団式で神にも直接訊ねる必要が出てきたわ。その為にも情報が必要なの。分かる? あなたの持っているそのジュエルに関する情報を私に教えて」
恐怖が冷静を奪った。頭がパニックになった。
「あ、あばれてなんかない。俺は眠ってただけだ! あばれてなんかない!」
「暴れていたの。私が嘘をつくと思う? あなたがこれからそのジュエルを使う上で、今必要な事は何?」
「い、いらない! ジュエルなんていらない! 俺はジュエルなんてもう必要ないんだ!!」
「──しっかりしろ!!」
両肩を握られ、ループの顔が眼の前にあった。
ループが大声を出した事に、俺は驚きを禁じ得なかった。加えてループの真剣な眼差しを込めた顔がそこにあった事に、言葉を失った。
「ルウ。落ち着いてよく聞きなさい。あなたはこれからそのジュエルを知らなくちゃいけない。その為には今持っている情報を整理して、神に訊くしかない。ゆっくりでいいから、初めてそのジュエルを見た時からの事を話して」
ループの一喝が慌てていた俺の脳を落ち着かせた。流石に好きな相手から怒鳴られたら、どんな奴でも落ち着くのだろう。
ぽんぽんと頭をたたいて、ここまでの一か月を追想。する。
俺はジュエルをどうして欲したのか。試験の時、俺はひたすら試験に受かる事だけを考えていた。その為には必ずジュエルの力が必要だった。
どうして試験に受かろうとしていたのか。それはループと一緒の職場に就きたかったからだ。彼女の為に全てを捧げる覚悟があった。
ジュエル──人の技能は宝石の形にしたもの? そんなおっかない物を初見で自分の体内に入れようと決心できたのは、その覚悟があったからだ。加えてジュエルがこれほどまで恐ろしいものだと知らなかった。
「試験の時だ」
ループが軽く相槌を打つ。
「他の受験生は誰も取れないジュエルがあった。禍々しい黒曜石のような球で、皆が諦めたから俺が挑戦した。……そこから変な夢を見て気が付いたらジュエルを手に入れられていた……」
「どんな夢? 具体的には?」
「……昔の事」
言外の言葉を察したのか、ループは押し黙った。
俺にとって過去とは失敗と後悔に塗れた薄汚いものだ。ループにとっても思い出しくはない禁忌の領域である。
ただループはその過去の夢を見たというのに何か引っかかる点があったのか、黙考に入っている。
「地獄が関係しているのかも。いえ、それは不自然……となると……」
小さい声ではなるがループは独りで呟き始めた。こういうのは新鮮に思える。
「何か分かったのか?」
「ん。まだ何も。……いや、隠してもしょうがないか。あなたの持つジュエルは融合ジュエル、それも千人規模の人間のジュエルを合成していると思う」
「せんにん!?」
今まで融合ジュエルと言ってもたかだか二、三人と思っていたが、千人単位なんて度が過ぎている。千人もの人間が混ざればどう足掻いてもジュエルは禍々しくなるのは目に見えている。それは丁度全ての色を混ぜると黒に終着するのと同じようで、千人の人間の感情が混ざれば混沌の感情が出来上がるという予想はつく。
そんなおぞましいものを体内に入れた俺は一体……?
「慌てないで。というか慌てないと踏んだから話したんだよ? 意味わかる?」
ここで取り乱したりしたら、今後一切このように情報を開示しないという言外の意味が伝わってくる。
「まったく。どうしてそんな無茶をしようと思ったの? 見れば不自然だって判るじゃない。他の誰も取らなかったんでしょう? あなたさして精神力が強いという自信もないのに、よくもまあそんな無謀な賭けに出られたわね。それとも自分がチップになっている事に気付かなかったの?」
過度な悪戯をして母親に怒られているような気分だった。
「ねぇ。どうしてジュエルを取ろうと思ったの?」
どうしてそうしたかと言われると、答えは一つしかない。しかし今この状況でそれを言ってしまうと、まるで用意していた言葉のように受け取られるかもしれない。
お前の為に、お前と一緒にいたかったから。そんな陳腐な言辞はいくらでも出てくる。出てくるからこそループの側からみればそれは適当に装飾を施しただけだと認識される怖さがあった。
言うのは簡単であるが、伝えるのは難しい。
言葉は時として無力になる。本当に伝えたい事は本当に伝えにくい。
例え本心を吐露したとしても、それを本心かどうかと判断するのは相手次第だ。更に真正直に言ってしまえば言ってしまうほど、それは嘘のように聞こえてしまう。逆に何か言葉を取り繕っても飾り立てた文言に見えてしまう。
どう表現すればいいのか。それが判らず、時間だけが流れていく。
考えれば考えるほど訳が判らなくなって、出てきたのは陳腐な言葉よりも酷いものだった。
「お前を……探していた」
「何を言って、」
「ずっと一年間お前を探していた。ずっと謝りたいと思っていた。お前といたいと、ずっと思っていた」
この言葉に価値はない。なぜなら「謝りたい」や「ずっといたい」という事を証明できないからだ。こんな状況で言っても何の意味もない言葉だった。
それが解っていたのに、迫る時間と錯乱した思考が、口を無軌道に回らせた。
「そんな……、いきなり、言われても……」
ループの言葉はたどたどしく、その瞳には驚きが宿っていた。
「卑怯よ……そんな……今頃言うなんて……」
確かに卑怯だ。今の俺は過去の失敗を単なる口の上で清算しようとしている。価値のない言葉で昔の事を許して欲しいという無茶な等価交換を求めている。
卑怯極まりないやり方だ。それでも、
「……あの時の事は後悔している。けどあの時の事を撤回するつもりもない。あの事実の上で新しい関係をお前と築きたい……」
「無理よ。過去は……過去。それを忘れる事なんて……」
「なかった事にしようとしているんじゃない! ただ、許して欲しいだけなんだ」
過去のあやまちを消し去る事はできない。
人間は過去には戻れない生き物なのだ。人間は未来に進む事しかできない。俺にはもうループを一度捨てた罪を消す事はできない。罪を罰であがない、関係を修復するしかないのだ。
「駄目よ……、私はもう……決心したの……、そんな……今更!」
ループは感情を殺しきれず、立ち上がって駆け出した。
「そんなの聞きたくない!!」
「待ってくれ!」
すぐに俺も追いかけようとしたが、体が付いてこず、ベッドからずり落ちた。
丁度来た雪野と入れ違いでループは部屋の外に走り出ていった。走った跡には数粒の水滴が光を反射させている。
「どうしたんですか、終留さん。ループさんが……」
戸惑いを見せる雪野に俺は何も声を掛ける事ができなかった。たた、ただ自分の両目から滴り落ちる水滴を抑えようと必死になっていた。
すまない。
ベッドのシーツをくしゃくしゃに掴み、嗚咽を漏らしながら思いついた言葉は、心の呟きの中に消えた。
その夜、雪野は何も言わず、俺の横に居てくれた。苦しみで胸が潰れそうだった。それでもベッドの上で涙を秘め、ひたすら夜が明けるのを待っていた。
「終留さん……」
ふと雪野が呟いた。
天国の夜はとても静かで、電球の灯りは窓の外にもほとんどない。闇という空間は不思議なもので、視界が遮断される代わりに他の五感がいつも以上に機能する。今は聴覚が過敏に反応して、そんな小さな呟きでさえ心の中まで通っていくように感じた。
「ループさんとは……昔どういう関係だったんですか?」
病室から逃げるように出ていったループの涙の訳を雪野は問うては来ないで居てくれた。だからこそ、俺とループの過去を少しだけでも説明する義務があると思った。
「好き、だった。最初は気付かなくて、気付いたけど、また強引に忘れて。ループが死んだ時にようやく思い出して……」
頭の中を駆け巡るのは俺の愚かな行動や言動の数々だった。もう二度と消す事のできない失敗の連鎖、その記憶に胸が蝕まれる。
「ばかだ……、本当に俺はばかな人間だ。手遅れになって気付くなんて……っ!」
大切な事は自分の真意を伝える事だった。たとえループが不登校になって疎遠になってしまったとしても、俺の想いを伝えるべきだった。
それが遅かった。あまりにも遅すぎた。
一度死なないと分からない人間がいると言うが、俺の事だ。死ぬほどの後悔をしないと、気付く事ができない。
「ばかだ……っ」
月光に照らされた病室の静寂の中、情けない嗚咽が響く。
横になっている俺の腹の上に、雪野の胴体が掛かった。
「……終留さん。大丈夫です。ループさんは終留さんを忘れてはいません。ちゃんと見ています。今、ループさんはきっと葛藤しているんだと思います。それは終留さんを受け入れてしまう事はループさんが自身の過去の決意を否定する事になるから」
「ゆき、の……?」
「私、お二人が仲好くなって欲しいです。二人の昔のじゃれ合いというのを見てみたいんです。終留さんとループさんは私の恩人ですから」
雪野はそう言うと呼吸を静め、やがて寝息になっていった。そこまで見届けた俺は天井を見つめ、自分に叱咤する。
ばかだ。俺は本当にばかだ。
保護者のくせに子供の方に慰められている。
ループは遠い世界にいるわけではない。一か月前よりも格段に近い世界にいる。だからすぐにでも立ち直って明日の式に臨むべきだ。
やるべき事は分かっていたが、今だけはこの感傷に浸りたかった。
俺は信じている。この哀しみの感情こそ、人を強くするものだと。人は哀しみを哀しみ抜いて生きる事で、それ以前の自分を見下ろせる。
今日の失敗も一年後には些末な出来事になっている。一年前の悩みを思い出せる人間なんてごく僅かだ。
一つ、目を閉じる。
まだ、しなければならない事がある。
東の空から碧玉の眩い光がその姿を見せ、夜は明けた。
聖日曜日の朝が来る。
意識が目覚めて一日経つと、体も歩ける程度にはなっていた。朝食と一緒にジャンガーが来て一瞬は俺の表情に戸惑いを見せたが、すぐに切り替えて今日の行程の説明に入った。
今回は入団式と昇進式を合わせて行うもので、決闘の勝者は先に会場入りして椅子に座っておく。後は起立や礼などをその場の雰囲気に合わせてすればいい。
俺と同じく入団に成功したのは他に2人だけだった。確か試験を突破したのは10人ぐらいだったので、騎士団員を破った者はほぼ3分の1という事だ。
気分晴れないまま、式場までジャンガーと雪野と一緒に行った。
辛い気持ちだったが、それで心が折れるほど俺も脆くはなかった。快調とはいかないまでも、多少のコミュニケーションが取ることはできた。
雪野はジャンガーに預けて、式場の中に入った。
式場は大きな縦長のドーム状で、見上げると天井が遥か高みにある。始まる前の式場がざわつきをざっくばらんに掻き分け、指定された席に座ると、数十分後に式が始まった。
ぼんやりと時間が流れていくが、その中でも俺は意識だけは確かにしていた。
騎士団としての仕事の事、雪野の事、自分のジュエルの事。課題は山積している。ここで思考停止になるわけにはいかなかった。既に俺はこの世界で簡単には断ち切れない関係を作ってしまった。
人は決して一人では生きていない。他人の視線や評価は自己認識に繋がるからだ。よく自分は他人だと現代文では言うが、中々どうして解り難いが、的を得た表現だと思う。
要は、全ての人間は最初から自分というものを持っていない。仮に今自分を持っているとしても、それは他人の評価によって形成されたもので、実は生まれつきの自分とは違うからだ。自分を形成する過程で不特定多数の他人の意見を吸収する。故に自分は他人達で構成されていると言える。
「次に神、黒白殿下よりご清祥の御言葉を頂きます」
──黒白? 聞いた事がある名前だ。俺が天国に来た時に、天国という世界の概念について面接染みた質問をしてきた人の名前ではないだろうか。
俺は下げていた顔を上げた。
およそ50mほど先の壇上には、果たして、
「なっ……」
そこには俺の記憶通りの顔があった。
神、という地位に居座る人間はもっと傲慢な王様気取りだと想像していたが、黒白の姿形は普通にそこら辺にいそう少年だ。あの彼が騎士団最高峰の称号を持つ人間だとは、まるで予想だにしなかった。
呆気に取られていたが、ふと今まで感じていた疑問が解消されていった。
なぜ俺は合格したのか。
たいして能力もないし試験の成績も悪い俺が合格するという快挙を成し遂げたのは、単なる偶然ではないのかもしれない。いやあれはおそらく作為的な偶然なのだ。
誰が? そんな事ができるのは神である黒白ぐらいだろう。試験のジュエルを管理する彼ならば当然試験の最大責任者となっているはずである。それに黒白が俺を合格させようと企んでいたなら、筆記試験を免除した事も頷ける。
ではなぜ俺を合格させようとしたのか? おそらくジュエルではないだろうか。俺の手に入れたジュエルは黒白が用意したものだ。要は試験そのものは単なるパフォーマンスで、その実態は誰があのジュエルを手に入れられるかを実験したかったのではないだろうか。
そしてその候補に俺は選ばれ見事手に入れたから、黒白は自分の権限を使って俺を合格させた。
この推理が正しければ、ある一つの確信にも至る。
奴ならば、俺の知りたい事を全て知っている。
ジュエルの中身は神しか知らない事と不自然な合格、不可解な俺への接触。
今まで脳の片隅にあった疑問は以上のように考えればすんなりと解る。
だが、どうしてそのような事をする必要がある? ジャンガーは今の神は騎士団の弱体化を故意に招いたと言っていた。そんな人間がこのような事をしていったい何の意味があるのだ。あのジュエルを扱える者を騎士団に入れる事で戦力増強を狙っているなら、ジャンガーの言葉と合わない。
理論と情報が全く結び付かない。
それでもこの式が終わった後、何としても奴と接触する必要がある。俺はひっそりとその機会を伺っていた。
「────というわけで、これからの騎士団を担うのは君達であるから、この中からこの神の地位を脅かさんとする意気のある人を応援したい。何度も言うが、入団、昇進、本当におめでとう。これからの君達の活躍を期待するという言葉で、清祥の言葉とさせて頂く」
黒白は15分ほどの話を終えてから、舞台を降りた。次にデュミオン元帥から昇進代表者に花束贈与が始まったが、俺はトイレと言って席を立った。不行儀極まりない行為だが、この機会を見逃すわけにはいかない。
黒白はそのまま舞台裏に行く。追うようにして俺もそちらの方向に行った。
式場から廊下に出ると、黒白が少し遠くで同じように出た。
走って俺は声を上げた。
「黒白! 待ってくれ!」
叫ぶと黒白はその歩を止め、すっと振り向いた。そこで俺の姿を視認すると、またいつものようにニヤリと口角を上げた。
「やぁ。ようやく、辿り着いたみたいだね」
「お前が……。全部知っているんだな……?」
「そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。君が何を求めているのか、ボク様はまだ知らない。知りたいなら──教えてくれないか?」
どくん、と心臓は跳ねた。
一人の少年は一つの真理に到達する。
それがまた物語の歯車を狂わせるファクターだとは知らずに。