〇第八回
ハートのクイーンが声高に叫ぶ。
「その者共を捕らえよ!」
御倉井さんは声をつまらせる。
「お願いだから……もう、やめて」
憐れなのはトランプの兵達だ。繰り返し上書きされる、相反する二つの命令に、連中は動くに動けない。張り巡らされた包囲網全体が一つの生き物のように痙攣する様を見て、それでも同情するなというのは無理な話だった。
「いいから捕らえよ!」
「お願いだから、動かないで……」
しばらく続いた応酬も次第に下火になり、やがて体育館に静寂が訪れた。
トランプの兵達の間から、二つ三つと唾を飲む音が聞こえた。俺はそれを嘆願と受け取る。早く終わらせてくれないか。もう嫌だ。助けて。私達を解放してください。連中の声なき声を聞いた気がした。
「下賤の者共が……」
そして俺達は対峙する。
ステージ中央に、おそらくは生徒か教師に命じて用意させたのだろう、グランドピアノがある。いつでも弾ける状態にセッティングされているそれは、鍵盤をこちら側に向け鎮座していた。譜面の位置でふんぞり返るハートのクイーン。壁となる四枚のキング。即席にしては大した玉座だ。
俺達は見上げ、見下ろし、火花を散らす。
「妾に無断でこの城に立ち入るとは、なんとも畏れ多いことよ。門番には後できつく灸を据えてやらねばなるまい」
「あいつ等に当たるのはお門違いだ。みっともない真似はしない方がいい。株を下げるだけだからな。それとも、主人の顔も忘れたのか?」
「控えるがいい。妾はハートのクイーンである。支配する者である。これ以上の狼藉は身を滅ぼすと心得よ」
掌サイズとは言え、さすがは女王だ。なかなかの貫禄を見せる。巨大な一枚岩を前にしているかの如き威圧感に、図らずもつま先が浮いた。
閉め切った空間に漂う、ひりひりとした雰囲気。覚悟があって尚、肌は粟立ち、呼吸は浅く、速くなる。
「……ねえ、史郎。おいら息苦しい。やっぱり、駄目だと思う。帰りたいな」
戯言に貸す耳は持ち合わせていない。俺は一蹴する。
「お前に諦めるという選択肢はない」
「じゃあさ、せめてカーも一緒に……」
「僕の出る幕じゃないよ。お前が適任さ」
「……だったら、ご主人は?」
「頑張って」
退路を断たれ、ジョーはその場に崩れた。うつ伏せの状態でぶつぶつと何事か呟き、しかし、くぐもった台詞の内容までは聞き取れない。大方、境遇に対する不満でも漏らしているのだろう。残念ながら、こいつに同情は出来ない。
梃子でも動かないといった様子だが、所詮は紙切れに過ぎない。俺はジョーを摘み上げ、ハートのクイーンに向かって放り投げた。おかしな軌道を描くその姿は、なるほど、同情は無理でも憐れを誘う。
「何処までやれると思う?」
俺はカーに訊いた。
「最後までやってもらわないとね。まあ、心配はいらないんじゃないかな」
「根拠はあるのか?」
「いいから見てなって。きっとさ、すぐに終わるよ」
ステージに目を戻せば、ジョーは鍵盤の上で四枚のキングに囲まれていた。
ピアノを鳴らすだけの重量が、連中にはない。四方から音もなく迫る親衛隊と冷や汗に塗れた道化師の図は、俺達に更なる緊張を強いた。
御倉井さんが一言発すれば、とりあえずジョーは助かる。キングには主人の言葉が届くのだから。ハートのクイーンとの一対一に持ち込めるのは御倉井さんだけだ。ならば、君はどうするのか。
出方を窺おうとしたしたその瞬間、体育館に「やめてっ!」の声が木霊する。
「何よ、何なのよ……やめてよ!」
ぴたりと、キングが動きを止める。命令は絶対。門番を退かせ、包囲網を痙攣に追い込むほどの効果に、キングもまた逆らえない。
だが、今回の命令は御倉井さんのものではなかった。
叫んだのは主人ではなく、
「今更ナニよ! ナニしに来たのよ! 妾なんかより、他のトランプの方が大事なんでしょう? そこの人間の方が大事なんでしょう? 妾のコト、こんなに長くほっぽり出しておいて……イマサラ彼氏ヅラしないで!」
女王だった。
「あいつ等さ、つき合ってるんだよ」
呆然の二文字がこれほど似合う場面が他にあるだろうか。
「彼氏と彼女の関係だね。恋人同士ってやつ。ずいぶん長く続いてるよ」
彼氏、彼女、恋人同士。カーの台詞が意味を成すまで、かなりの時間がかかった。
「まあ、ここまで派手な喧嘩は初めてだけどさ」
おぼろげに全体像を把握した俺は愕然とする。
まさかとは思うが、それは要するに……
俺の想像はこうだ。
「彼女であるハートのクイーンの度重なる熱烈な求愛に、彼氏としてあるまじき情けなさを誇る何処かの馬鹿は応えることが出来なかった。勝手に限界を感じたそいつは、やがてろくでもない逃亡劇を思いつく」
「言葉にトゲがあるなぁ……おいら、そういうのイヤだなぁ……」
「黙れ。主人と仲間の許を離れたそいつだったが、根性なしの本領発揮といったところか、すぐに人恋しくなり、電柱の陰でゴミのように蹲りながらみっともない嗚咽を漏らす。構ってくれと言わんばかりに」
そこで俺と出会った。
「どうして自分はここにいるのか、そいつは本当の理由を話せない。何故なら、言えば呆れられて、やはりゴミのように捨てられることが判っていたからだ。実際にゴミなわけだが、それでもプライドだけは一人前のそいつは恥ずかしげもなく、即座に逃亡を旅立ちに書き換えた」
あわよくば連れ戻してくれることを願って。
「だが、少年は旅立ちを支持する。立派だと言う。そいつは焦る。このままでは帰れない。今更おめおめと戻るのは安いプライドが許さない。そこでそいつは、主人と仲間に別れを告げた方がいいかと訊く。この時点で、根性なしの上に考えなしのそいつの頭に、ハートのクイーンのことは欠片もない。行けば誰かが引き止めてくれる、そう思うばかりだ」
「……そんなことさ、ないんじゃないかなぁ……」
「喋るな。思惑とは多少違ったものの、結果として、そいつは元の鞘に収まる。しかし、それは振り出しに戻ったに過ぎない。ハートのクイーンを脅威としているそいつにとって、それは望むところではない」
さて、問題はここだ。
「運がいいことに、頭の悪さでは右にも左にも出る者がいないそいつは、ハートのクイーンと距離を置く口実を、早くも翌日に得る。仲間の人生相談にかこつけて、そいつは仲介役の立場で少年の部屋に入り浸るようになる。馬鹿の分際で少年の真摯な心を利用し、都合よく何もかも忘れ、いつしか出来損ないの平穏を本物と信じた」
「史郎が怒ってるよぉ……」
「喋るなと言った。留守にしがちの彼氏。そばにいてほしい時、そいつはいない。ハートのクイーンはそれが許せない。彼女である自分を蔑ろにする理由が判らない。こんなに好きなのに。こんなに愛しているのに。怒り心頭だ。わがままではあっても、実は心優しい女王様の筈が、放蕩三昧のダボハゼを彼氏に持ったが為に、鬱憤は溜まりに溜まり、それでも欲求を発散することは出来ず、悶え、苦しみ……」
そして爆発した。
「そこから先は説明の必要もないだろう。要するに、今回のこの騒ぎは痴話喧嘩であって、俺達はただそれに巻き込まれただけ。簡単な話だ。さて、何か言いたいことはあるか?」
「助けてほしいなぁ……なんて思ったりしてるよ、おいら……」
「どうやら反論はないらしい」
終始無言の御倉井さんからケースを受け取る。トランプの家でもあるそこに、今はハートのクイーンのみが収まっている。
「ねえ、史郎……おいら、シワシワになっちゃうよ……」
他の連中の姿は何処にもない。俺と御倉井さん、ハートのクイーンとジョーの四者を残し、揃って体育館を後にしたのがおよそ十分前。謝罪を含め、事の顛末を説明する為に、おそらくはカーを先頭に学校中を走り回っていることだろう。
「あいつさ、本当にすごいの……おいら、みんな吸われちゃう……ぐす……」
連中の真心が上手く伝わればいいとは思うが、それはそれだ。俺は考えた。全てを清算するにはけじめが必要ではないかと。異議を唱えたのはジョーだけだった。
「聞け。とりあえず一週間だ。恋人同士の素敵な時間を過ごすといい。誰にも邪魔はさせないから安心しろ。存分に楽しめ」
「ねえ、史郎……おいら、ミイラになっちゃうよ?」
「なっちゃえよ」
俺はジョーをケースに放り込み、固く蓋を閉じた。
こうして多数の犠牲者を輩出し、一ヶ月以上にも及んだ騒動は幕を下ろす。
五年先、十年先に、今を振り返ることもあるだろう。その時に笑えるのか、それとも泣き崩れるのかは人それぞれに違いない。しかし俺に限って言えば、確信はないが、笑えるのではないかと思っている。
あの日から、俺は御倉井さんを「理子さん」と呼ぶようになった。
続く……