〇第七回
あれは去年の、九月も終わりの頃のことだ。
どうにも寝つきの悪い日があった。電気を消し、ベッドに潜り込んでも一向に眠気は訪れず、俺は小さく鳴る時計の音を鬱陶しく思いながら、暗い天井を見つめていた。
特に何があったわけでもない。ただ眠れなかった。日付はとっくに変わり、俺は焦りにも似た感情を抱いた。
やがて時刻は二時を越える。
寝るのはもう諦めた方がいい。ベッドを下り、スウェットのまま上着を引っかけ、部屋を後にし、両親を起こさないよう足を忍ばせ廊下を歩き、靴を履き、玄関のドアを開け、そして俺は外に出た。
人影のない近所を当てもなく散策すれば、かすかに聞こえる虫の声だけが、深々と真夜中を漂っていた。
日中よりも色濃い秋の気配に、俺はふと寂しさを感じた。人恋しいと、そう思った。振り返ってみれば、一月以上前にジョーと公園で語り合った際のあの気持ちを、俺はこの時も感じていた。
それはつまり、進歩がないということ。
人恋しいとは、御倉井さんが恋しいという意味だ。想いばかりを募らせ、自分からは何もアクションを起こさなかったという、その証拠だ。
スペードのエースのことをとやかく言える俺ではなかった。自分自身を棚に上げて、よくも胆が小さいなどと恥ずかしげもなく吹いたものだ。あまりの情けなさに身が縮む。
あの日の路上……
秋の夜空をスクリーンに、俺は御倉井さんを映していた。
それは遥か向こう、手を伸ばしても届かない。身体の内側から湧き起こる切なさが胸を焦がし、ざわつかせる。
叫びたい。だが、どう叫べばいいのか。
俺は声を押し殺し、ブロック塀に背中を預けた。肺に溜まったガスを抜き、不甲斐ない自分を忘れようと努力した。もちろん、そんなもの成功する筈もない。俺はじっとしていることに耐えられなくなり、やがて来た道を戻った。
ジョーの一件があってから、御倉井さんと言葉を交わす機会は確かに増えた。好機を逃すまいとする気概も生まれた。しかし、それを進展とは言わない。俺はまだ、何のアクションも起こしていないのだから。リアクションを求めるだけの資格を、俺はまだ手に入れていないのだから。
そろそろ終わりにしなければならない。いい加減に変えなければ、変わらなければならない。
俺は確固たる一歩を欲している。いつまでも同じ位置にいたくはないと思っている。
その為にまず出来ることは、しなければならないことは何か。
俺は想い人の笑顔を取り戻す。恋の始まりを告げた、あの柔らかな笑顔を。
そして願わくば、そう遠くない未来に、君が俺の隣で咲いていることを。
連中は体育館を根城にしている。見晴らしがいい上に放送設備を備えているとなれば、拠るには格好の場所だと言わざるを得ない。アキレス腱を押さえられている俺達にとっては、鉄壁の要塞にも等しい。
侵入は困難だ。だが、敵の懐に入り込まなければ何も始まらない。ではどうするか。
策などなかった。講じている時間が惜しかった。事態が長引けば長引くだけ噂は広まり、俺達の立場は弱くなる。悠長に構えている暇などない。故に、正面からぶつかっていくしかなかった。
強行策には違いないが、他の人間に類が及びそうになった際は、すぐに引くつもりでいた。仮に犠牲になる者がいるのなら、それは俺達だけでいい。俺と御倉井さんは、既に覚悟を決めていた。
「通してもらおうか」
二枚いる門番が「通せません」と、強く俺達の前に立ちはだかる。
「いいから通せ。俺はもうお腹いっぱいなんだ」
「駄目です。そういう風に出来てるんです」
蹴散らしたところで、鍵のかかった扉は開かない。御倉井さんの手前、あまり乱暴な真似はしたくない。どうにかして中へ。俺は考えた。
「おい、何とかしろ」
主人の一声で火炙りを免れたジョーに言う。
「ふん。そんなのさ、ご主人に頼みなよ。おいらに言われたって困るよ」
「ほう……主人である御倉井さんに全て押しつけて、お前は高みの見物でも気取るか。なかなかいい度胸をしているな。いいか、ジョー。一度しか言わないからよく聞け」
俺は言う。
「俺の堪忍袋の緒は今もまだ切れたままだ。お前への制裁も延期になっただけで、中止になったわけではない。理解したか?」
ずいぶんと焼却炉が恋しいようだ。そんなに灰になりたいのなら手を貸そう。俺は言外にそう滲ませる。あくまで演技のつもりだったが、効果は覿面だった。
「……違うの」
滑稽なまでに慌てふためき、ジョーが俺の足許にすり寄って来る。
「ねえ、史郎。違うの、そうじゃないんだよ。お願いだからさ、おいらの話も聞いて」
敢えて返事をしないことで、俺の演技はより迫真のものとなる。
「あのね、ご主人が頼めばね、どいてくれるの。そりゃ、女王様の命令は絶対なんだけど、でもね……」
「ご主人の命令も絶対なんだよ」と、同じく俺の足許にいるカーが続けた。
これまで黙したまま、二枚の門番と並んで思案顔だった御倉井さんが目をみはった。温厚な彼女にしては珍しく、その瞳には驚きの他に非難の色が混じっている。それだけ主人としての責任を感じているのだろう。
これもまたらしくないことに、スカートが翻るのにも構わず、御倉井さんが俺の前へと駆けて来た。気圧されたジョーは小さな悲鳴を上げ、カーは悠然と、しかし何処か煮え切らないといった様子で距離を取る。
「だったら、私がハートのクイーンを説得すれば、それで丸く収まるってこと?」
「朗報だな。これでもうお前に用はない。そろそろ旅立つか?」
「どうしてさ、おいらにだけ言うの? カーも同罪……って、違うの。だからね、そうじゃないの。ねえ、聞いて。あいつだけはさ、別なんだよ」
必死に弁解するジョーの言葉を信じるとすれば、どうやらハートのクイーンには御倉井さんの命令も届かないらしい。たとえ主人であろうとも、幾重にもまとった分厚いプライドの殻を破ることは不可能だと言う。
生まれついての女王様。そのフレーズを十回は聞いた。適当な誤魔化しでこの場を切り抜けようとしているとは思えなかった。
「だからさ、もう諦めようよ。おいら帰りたい。帰ってさ、スゴロクでもやろうよ」
この期に及んで帰りたいとはよく言ったものだ。まったく、頭が下がる。
「どうしてお前を連れて来たと思う? お前に先陣を切らせる為だ。命を懸けて説得に臨め。それがせめてもの償いになる。駄目なら自爆でもしろ」
「そんな機能ないよ!」
続く……




