〇第三回
「びっくりしたぁ」
幸いにも、御倉井さんはその一言で全てを片づけた。
一人焦っていた自分を馬鹿らしく思う、そんな俺を横目に、ジョーカーは裏になり表になり、御倉井さんの肩の上ではしゃいでいた。本気であいつは、何もかもを投げ打ち、旅立とうとしていたのか。今更になって疑問が湧く。真剣になって耳を傾けていた昨日の自分を、やはり俺は馬鹿だったと一蹴する。
教卓に肘をつき、じゃれる二人から目を逸らす。
「ジョーカーというのは、どいつもこいつもあんな感じなのか?」
「さあ、どうだろうね。他のところのことは知らないな。まあ、僕は違うつもりだけど。あいつはあいつ、僕は僕。それとも、あなたには一緒に見える?」
「違う……のだろうな。お前からはあいつと同じ匂いがしない」
俺の答えに満足したのだろう。あいつの片割れ、カーと名乗った二枚目のジョーカーは、いとも涼しげに笑った。
ちなみに、あいつの名前はジョーというらしい。二枚揃ってジョーカー。まったく、そのネーミングセンスには脱帽する。「手抜きか?」と訊いた俺に、「手抜きだよ」とカーは肩をすくめた。二枚あるのはジョーカーのみ。ただ区別するのに記号がほしくてそう名乗っているだけ。「こだわりはないんだ」と言ったカーは、確かに、ジョーの生き写しだった。
「連れが世話になったね。ありがとう」
「お前も苦労しているのか?」
「脱走騒ぎは今回が初めて。けどまあ、あの通り気まぐれな奴だからさ。それなりにね」
どちらからともなく窓際を見やる。御倉井さんとジョー、主従関係にある筈の一人と一枚は、楽しげな声を上げている。
こちらの気も知らないで、何処までも自由な輩だ。腹立たしい限りだが、しかし……俺は短く息を吐いた。
「お前達に幸多からんことを」
「どうしたの、急に」
「気にするな。悪くないと思っただけだ」
ジョーはもう、俺を裏切り者とは呼ばないだろう。気まぐれも程々にしろと、俺は視線を送る。
カーはこれからも、己れの分身に手を焼くのだろう。ひらりと教卓から飛び降りる友人に手を振り、俺は密かに健闘を祈る。
御倉井さんは、この先いつまでも眩しく輝き続けるのだろう。この奇縁をチャンスとすることを、俺は固く誓う。
未来は明るいと、俺は思う。
これは夢であって現実ではない。俺にはそれが判る。
いわゆる明晰夢というやつか。夢を夢だと認識しながら、それでも俺は目を覚まさない。
ぼんやりとした景色。乳白色の風景。広さだけを肌で感じる。
ここは一体何処なのか。
多くが曖昧な中で、ただ一つ、確かなものがある。
俺はそれを『幸せ』と呼んだ。
「私達は何処へ行くの?」
俺の隣には御倉井さんがいる。どれだけ視界が悪くても、御倉井さんの姿だけは、はっきりとした輪郭を持っている。
俺達は二人きりだった。肩を並べ、ひたすらに歩いていた。道標もなく。歩くことは手段の筈だが、目的は未知だった。
それでも、俺は幸せだった。
「君の行きたいところへ」
それからしばらく、無言の時が過ぎる。気まずさはまるでない。ふと目が合えば、俺達はお互い照れたように俯き、揃って二人はにかんだ。
やがて御倉井さんが遠くを指差して言う。
「ねえ、あれは何?」
訊かれて彼方に目を向けた、その瞬間……
「……ああ」
俺は目覚めた。
時計を見れば朝の七時を示している。
「くそったれ……」
夢のような夢を途中で断ち切られ、俺は仄かな余韻を感じつつ、枕に向かって悪態をついた。
だが、そうだ。夢の続きは現実で見ればいい。昨日の誓いは変わらずこの胸にある。
俺は寝起きの頭で先を見据える。いくらか気分を良くし、布団をかぶる。休日ならではの二度寝の恩恵に与ろうと目を閉じ、自らを勇気づけるべく、一言呟く。
「俺達の未来は明るい」
「そうなの?」
「決まっている。それ以外に……おい、お前……」
俺は上体を起こし、枕の脇で横になっているトランプを睨む。こいつがジョーであることは、その匂いで判る。
「何故ここにいる?」
何もかも綺麗に片がついたと思ったのは、つい昨日のことだ。残すは俺の抱く御倉井さんへの想いがどう実を結ぶか、それだけと考えていたが……
「あんたさ、なかなか起きないんだもの」
見通しが甘かったのだろうか。嫌な予感がする。
「耳のところで何回パタパタやったと思ってるの?」
「おい、質問に……そうか、夢が途中で終わったのはお前のせいか」
「ほらほら、そんな怖い顔しないでよ」
ジョーは俺の怒気をさらりと受け流した。何処か余裕が見られるのは、俺が本当には手を出せないと信じているからに違いない。
実際、こいつが御倉井さんのお守りとしての立場を取り戻した今、滅多なことは出来ない。彼女を悲しませるわけにはいかないのだから。
「それで……一体どんな用が?」
「うん。用があるのはね、おいらじゃないんだ。実はさ……ねえ、こっちにおいでよ」
ジョーが呼ぶと同時に、ドアの真下で何かが動いた。部屋の薄暗さ故か、これまで全く気づかなかったが、どうやら随分と前からそこで待機していたらしい。
それは逡巡に逡巡を重ね、這う速度でこちらに近づいてくる。
嫌な予感は半ば確信になる。俺はベッドの上であぐらをかき、それの到着を待った。
「ほら、自己紹介して」
「……ダイヤのクイーンです」
「おいらの仲間なんだ。あんたにさ、相談があるらしいよ」
大方の予想通り、やはり御倉井さんのトランプで人語を話すのは、ジョーとカーだけではなかったようだ。
続く……