〇第二回
あれは忘れもしない、高校入試の合格発表の日だった。
天気は生憎の雨。二月の寒風吹きすさぶ空の下、そのうち雪になるのではないかと、俺は身体を硬くしながら校門を潜り、掲示板へと向かった。
寒さに気を取られていたのか、特に緊張はしていなかったように思う。吉と出るか凶と出るか、敢えて考えていなかっただけなのかもしれないが。
多くの人間に紛れて、俺は掲示板の前で波打つ傘の海に紛れた。そしてあっさりと、自分の受験番号を発見した。
家から近いという理由だけで選んだ高校だったが、それでも嬉しいことに変わりはない。場所柄を弁え、騒ぐような真似はしなかった。ただ小さく「おめでとう」の言葉を、俺は自らに贈った。
と、次の瞬間だ。
「やったぁ」
その声は背後から聞こえた。踵を返そうとする俺の耳に、その声は届いた。
振り向いた先……
ピンク色の傘を差し、彼女は掲示板を見上げていた。
見慣れないセーラー服を着て、彼女は頬に手を添えていた。
雨が降って尚、彼女の髪は艶やかだった。
柔らかな笑顔が、そこには咲いていた。
「やったぁ」と、彼女は繰り返す。まるでそれしか言葉を知らないかのように。
俺は打ちのめされた。混み合う掲示板の前で押し合いへしあいしながら、自分ではぴくりとも動けなかった。人波に翻弄されるばかりだった。
気づけば俺は家にいた。学校への報告を済ませた記憶はあったが、どうやって帰って来たのか、それだけは判らなかった。
ベッドに腰を下ろし、俺は思う。
そうか、これは恋か。初めて会った彼女に、俺は恋をしたのか。
想い人の名前が御倉井理子であることを、高校に入って間もなく知った。
御倉井さんの祖母は占い師だった。
彼女は一貫して自分の店は持たず、路上にて細々と、道行く人の相談に乗った。行列が出来るほどの繁盛はなく、それでも三十余年の長きにわたり、彼女は真摯に人と向き合ったという。
引退を決めたのは夏の終わり、宵の風に秋の香りが混じり始めた頃だった。
「もう色々とお腹いっぱいなんだよ」
惜しむ声は多かった。しかしその決意は固く、覆ることはなかった。
廃業から六年、御倉井さんが中学に上がる際、祖母から孫へと贈られたものがある。
それは一組のトランプだった。
かつての、唯一の商売道具を、彼女は御倉井さんへの入学祝いとした。自分の後を継いで占い師になってほしい、という意図が、あるいはあったのかもしれないが、おそらくは最も大切にしているものを孫へと贈っただけだと、俺は考える。
以来、トランプは御倉井さんのお守りとなった。
「……というワケなんだよ」
黙っていては暗闇に押し潰されるとでも思っているのか、鞄の中でジョーカーはやけに饒舌だった。
俺はベッドに寝転び、かたわらに話しかける。
「お前を捕らえて正解だった。トランプがお守りならば、たった一枚とは言え、欠けたらご利益も何もなくなるからな」
「なんだよ……裏切り者」
くぐもった声音にはまだ諦めが感じられない。意外なしつこさに俺は呆れ、そして苛立った。自分勝手な言い分を耳にして、返す言葉も冷たくなる。
「主人と元主人の二人を裏切ろうとしたお前に言われる筋合いはない。明日になれば出してやる。少し黙っていろ」
「ねえ、史郎。あんたさ、ご主人と仲良しなの?」
「黙っていろと言った」
「もしかしてさ……あんた、ご主人に懸想してるの?」
俺は答えない。ベッドの上で、ただ静かに目を閉じた。
明けて翌日。下校時刻が迫る中、俺は二年三組にいた。
誰もいない教室は、作りこそ自分のクラスと同じだったが、やはり違和感は拭えない。
俺は窓際の最前列、御倉井さんの席へと足を速める。
「あんたさ、こんなふうにコソコソしないで、この機会にご主人とお近づきになればいいじゃない」
「喋るな。何処で誰が聞いているか判らない」
どうやって返すのか。問題はそこだった。
昨夜、俺はベッドの上で考えた。
直接渡せれば、それが一番手っ取り早い。落とし物を届けに来たなどの体を装えば、難なく事は済む。だが、それはあまりに不自然だ。名前も書いていないトランプの持ち主がどうして判ったのかを説明しなければ、多分、御倉井さんは納得しない。
こいつに聞いた。信じられないかもしれないが、こいつは喋る。
そう正直に話して丸く収まるとは思えない。余計に不審がられるか、さもなければ、怯えさせてしまうだけだろう。お守りとして肌身離さず持っていたものが実は人外だったと知れば、穏やかではいられない筈だ。
想い人の青ざめた顔が脳裏をよぎった。それは俺を暗澹たる気持ちにさせた。
想像を現実にするわけにはいかない。俺は一計を案じる。その一計が、今は制服のポケットの中にある。
「ねえ、何もさ、こんなにグルグル巻きにしなくてもいいんじゃない?」
俺は家にあったごく普通の、決して喋ったりはしないトランプのケースを空にし、そこにジョーカーだけを入れ、逃げられないようセロテープで厳重に封をし、『落とし物』と書いたメモ用紙を輪ゴムで留めた。簡単な細工も、諦めが悪いこいつが相手では多少の苦労もあったが、なんとか上手くいった。
そして今日、即ち今だ。
御倉井さんの机にこれをそっと忍ばせれば、それが計画の仕上げとなる。
「もう一回だけ言っておく。この先二度と、お前は喋ってはならない。おとなしくただのトランプとしての、御倉井さんのお守りとしての生涯を全うしろ。判ったな?」
「あんたってさ、損な性分だよね。せっかくのチャンスを棒に振るタイプだ」
「判ったな?」
俺はケースを取り出し、声を低くする。メモ用紙をずらし、セロテープ越しに睨みを利かせる。囚われのジョーカーが舌を出し、人を小馬鹿にするかの如く右に左にステップを踏んでいるのが見える。なるほど、ジョーカーらしい。
もうすぐこいつとはお別れだ。おそらくは今生の。これを感慨と呼ぶのかどうかはっきりしないが、最後くらい大目に見てやろうと、俺は苦笑いで応じた。
さて、終わりにしよう。
窓際の最前列。恋焦がれる人の机。いる筈のない御倉井さんの幻を、俺は見た気がした。
ケースを指で弾き、別れの挨拶とする。プライバシーを考え、机を覗かないよう顔を背ける。中腰のまま、奥に入れるべきか手前に置くべきか迷う。窓の向こう、遠くから運動部のかけ声が届く。よろめいた拍子に足を引っかけ、椅子が思いのほか大きな音を立てる。がらり、と……
「あれ?」
がらり、と開いたドアの外から、それは聞こえる。
「何やってるの?」
俺はこの声を知っている。聞き間違えようもない。
「そこ、私の席だよね?」
その通り、君の席だ。首だけをひねり、ちょうど対角線上、教室後方のドアに目をやれば、幻ではない、本物の御倉井さんがそこにいた。
落ち着けと、俺は念じる。想い人の怪訝な表情にさらされながら、現状を見つめ直す。だが実際、そんなことをする必要はなかった。どう考えても、俺は不審者以外の何者でもないのだから。
進退窮まった。俺は天を仰ぐ。だがその時、左手のケースが小さく鳴り、まだ道は残されていることを知る。
仕方がない。背に腹は代えられない。彼女が怯えるかもしれない。それでも、もうこれしかない。俺は一体、誰に言い訳をしているのか。
「ジョーカー、お前の出番だ。さっき言ったことは全部忘れてくれ。あれだけ喋るなと言っておいて勝手だとは思うが、お前から全部説明してくれ」
俺は一息に言った。差し出したケースは御倉井さんの方へ。額を冷たい汗が流れる。
「…………」
「ジョーカー?」
再度ケースが小刻みに鳴る。同時に漏れ聞こえるのは、「くすっ」という間の抜けた声。
俺は思い至る。そうか、こいつは笑っているのか。こいつは笑いながら、俺の置かれた立場を我関せずと楽しんでいるのか。ならば、こちらにも出方というものがある。
「御倉井さん。すまないが、はさみを貸してもらえないか?」
「すいません、史郎さん。おいらが悪かったです。悔い改めます。だから切り刻まないでください……っていうか、あんたってさ」
「何だ?」
「案外、自分が可愛い、みたいなトコあるよね」
おそらく、俺達のやり取りは御倉井さんの許には届いていない。この距離が、今の俺と彼女の距離だ。
他人を見るその両の瞳が、俺の心を浅く抉った。
続く……