〇第一回
某文学賞へ応募した作品です。
残念ながら二次選考で落選という結果に終わりましたが、自分ではかなり納得のいくものに仕上がったということもあり、今回こうしてこの場をお借りすることにしました。
感想をお聞かせ頂ければ幸いです。
四百字詰原稿用紙80枚程度の短編ではあるものの、リライトの関係上、連載というかたちを取らせてもらっています。
黄昏時の公園に人影はない。落ち葉が風に押し流され、かさかさと乾いた音を立てながら地面を這っていくばかりだ。人恋しい季節になった。
ひどく閑散とした雰囲気の中、冷たいベンチに身体を預け、俺は言う。
「逃げてどうなるというんだ?」
「別に逃げたわけじゃないよ……」とお前は答える。掠れた声音が、やはり風に運ばれる。
「一人でも生きていけるってことを、証明するんだ」
小さな身体を精いっぱい伸ばし、弱々しくもそう宣言する姿に感動し、
「そうか」
そして改めて思う。
世界広しといえど、トランプと会話を交わしたのは、おそらく俺が初めてだろうと。
話はおよそ一時間前にさかのぼる。
学校での一日を終えた俺は、クラスメイト数人と別れの挨拶をし、校庭から聞こえてくるサッカー部のかけ声を背に、校舎を後にした。
いつもの帰り道。徒歩二十分の、近からず、さりとて遠からずの道のり。信号を渡り、古くからある商店街を抜け、早くも夕食の香りが漂う住宅地へ。小さく漏れ聞こえるピアノの旋律にふと秋の寂しさを感じ、やがて俺は一人になった。
その嗚咽を耳にしたのは、最後の角を折れてすぐのことだった。
「おおう……お、おおう……ぐす……」
近いと、俺は思った。だが不可解にも、周囲に人の姿はない。額に嫌な汗が滲む。幻聴の線も疑いつつ、俺は努めて冷静であることを心がけ、深呼吸を繰り返した。
「あう、ひっく……しくしく……」
それでも声は止まない。それどころか、一度意識してしまったからだろう、嗚咽はより鮮明になっていく。滅多なことでは取り乱さない自信があったが、さすがにこれは堪えた。
その場を離れようとは考えなかった。俺は何も聞かなかった、怖れることなど何もなかった。事実をねじ曲げたところで解決にはならない。夢見が悪くなるだけだ。
俺は目を閉じ、耳を澄ました。息づかいはより鮮明になった。壁際に寄る。手を伸ばす。電柱の感触がした。声は下から聞こえてくる。俺は震える膝をなだめ、屈み、目を開いた。
「おおう……お、おえっ」
それは一枚のトランプだった。ああ、常軌を逸している。
トランプは泣き続けた。俺は天を仰いだ。これは夢か幻か。遠く理解の及ばない出来事を前に呆然とするものの、結局は好奇心に負けた。
俺はトランプを摘み上げる。
「……なんだよ、あんた。放っておいてくれよ」
影絵の如きデフォルメされた道化師がそこにはいた。平面の中で四つん這いになったそいつは俺を見上げ、だらしなく口を開けていた。
「ジョーカー?」と俺は言う。
「ふん……だったら、なんだって言うんだよ」
「最近のトランプは喋るのか?」
「喋っちゃ悪いのかよ。いいから、放っておいてくれよ……」
たとえ相手が人外であろうとも、放っておいてくれと言われて放っておけるほど、薄情ではないつもりだ。俺はジョーカーを連れ、近くの公園に入った。
掌の上で、ジョーカーはおとなしくしていた。泣かず喚かず、暴れもせず、不貞腐れたようにそっぽを向き、膝を抱えていた。
こいつはただのトランプではないが、ただの喋るトランプに過ぎない。意思の疎通が可能であるというその一点のみで、俺は常からの冷静な自分を取り戻していた。
人気のない公園を行く。塗装がはげ、さびの浮いたすべり台の脇を通り、バスケットボールコート一面分ほどの大きさの広場を横切る。どちらも無言のまま。
おそらくこいつは話を聞いて欲しいのだろうと、俺は当たりをつけていた。あれだけこれ見よがしに呻いておいて、「放っておいてくれよ」では筋が通らない。一向に俺の許から去ろうとしないことも、予想の裏づけとしては充分だった。
ベンチの砂を軽く払い、背もたれにジョーカーを立てかけた。相変わらず俺とは目も合わせようとしない。幼い子供が駄々をこねているような、そんな態度だった。
無理矢理に話を引き出そうとすれば、却って頑なになるだろう。俺もまたベンチに腰を下ろし、遠くを見つめた。無駄口は叩かず、時の流れに身を任せた。
三十分近くそうしていただろうか。黄昏時、影の落ちた公園。それまで沈黙を守ってきたジョーカーが口を開く。
「おいらさ……憤ってるんだ。あんたもトランプの一つくらい持ってるだろう? それでさ、思い出してもらいたいんだけど……」
「何を?」
「スペードとかハートとか、あいつらってさ、誰も彼も一枚しかないじゃない? みんなさ、オンリーワンじゃない? それなのにさ……」
それだけで、俺はジョーカーの心中を察した。
「要するに、何故ジョーカーだけが二枚あるのか、ということか」
「そう……そうなんだよ。あんた、判ってるじゃないか」
俺を見上げるジョーカーの瞳が潤んだ。それは自身の境遇を思っての哀しみの涙か、それとも理解者が現れたことに対する喜びの涙か。あるいは両方だったのかもしれないが、俺には判断のしようがなかった。
「どうして、おいら達だけ二枚あるんだよぉ……」
くだらない、とは思わない。唯一の存在たらんとして苦悩する相手に唾を吐くなど、俺には出来ない。俺もまた彼女のオンリーワンになりたいと、日々そう願ってやまない人間だ。自然、ジョーカーの気持ちが痛いほど判る。
となれば、安易な慰めは必要ない。立場の似た者同士、何か相通じるところがあるのではないか。同じ場所で同じ時間を過ごすことが、少なからず救いにもなるのではないか。俺はそう考えた。
「おいら、腹が立ってさ……それで、飛び出して来たんだ」
そして、アクションを起こした分だけジョーカーの方が余程立派だと、俺はいくらか情けなく思った。
「おいらの代わりなんか何処にもいない。おいらはおいらなんだ」
そんなジョーカーが眩しかった。それ故だろう。やっかみ半分で心にもない台詞を吐いてしまったのは。俺もまだまだ青い。
「逃げてどうなるというんだ?」
そうして現在に至る。空は暗く、日没も近い。そろそろ心許ない外灯の出番だろう。
「ねえ、あんた。ぼんやりしてるけど、どうかしたのかい?」
「どうもしない。お前は立派だと思っていただけだ」
逃げてどうなるというんだ?
それはあまりに軽率な、礼を欠いた発言だった。俺は深く反省する。
「すまなかった」
「いいんだ。そんな……謝らないでよ」
新しい友人との縁を、俺は心から喜ぶ。本来ならがっちり握手でも交わしたいところだが、哀しいかな、こちらは人間であり、相手はトランプだ。代わりに、俺はジョーカーの裏面を指先でそっと撫でた。
「それでこの先、お前はどうするんだ?」
俺は訊いた。
「あんたはさ、どうすればいいと思う?」
「そうだな……旅にでも出たらどうだ? 俺も偉そうなことは言えないが、多くを知って、己の器を大きくすれば、きっと何かが見えてくる」
「うん、おいらもさ、そう考えてたんだ。おいらの知ってる世界なんて、水たまりみたいなもんだからね」
俺の視線の先で、ジョーカーは目を細めている。既に心は見知らぬ土地の風景を思い描いているのだろうか。
「いやぁ、あんたに相談してよかったよ。気が合うね、おいら達」
遠い異国を転々とし、紆余曲折を経ながら、やがてこいつは孤独に打ち勝つ。想像は難しくない。こいつなら、きっとやり遂げる。
一回りも二回りも大きくなろうとしている友人に惜しみないエールを。俺はジョーカーを掌の上に乗せ、万感の思いを込めて言う。
「お前の幸運を祈っている」
「ありがとう。あんたの気持ちが嬉しいよ」
俺は拳を突き出す。ジョーカーも右手を固く握り、俺に向かって腕を伸ばす。どちらからともなく笑顔が溢れる。なりは違っても、俺達は対等だった。
お前ならやれる。おいらならやれる。男二人、目で、拳で語り合う。
今ここにいられることを誇りに思った。しかし、
「どうかしたのか?」
ジョーカーの表情を曇らせる何かに、俺は気づく。
「実は一つ、心残りがあるんだ。聞いてくれる?」
「話してくれ」
「うん……実はさ、おいら、黙って出て来ちゃったんだ。ご主人にも、仲間達にも、なんにも言わないで。それって、やっぱりまずいかな? みんなさ、心配しちゃうかな?」
俺はジョーカーをベンチに下ろし、腕を組み答える。
「……心配はするだろう。仲間が突然いなくなるのだから。まあ、黙って出ていくのも美学だと俺は思うが、お前がそれを気にするなら、きっちりけじめをつけてはどうだ?」
「そう、だね……うん……そうしようかな。みんな何て言うか、ちょっと不安だけど。情けないね、おいら。偉そうなこと言っといて」
「そう卑屈になるな。お前は立派だ。俺が保証する。ところで、お前の主人とやらは何処の誰なんだ?」
「あんたのその制服、近くの高校のやつだよね? おいらのご主人もさ、そこの生徒なんだよ。二年生の御倉井理子(みくらいりこ)っていうんだけど、知ってる?」
刹那、俺はジョーカーを逃がさないよう素早く両手で挟み込んだ。
「えっ、何? 痛いよぉ、暗いよぉ……」
そして言う。
「聞け。状況は変わった。お前は戻らなければならない。お前がいなくなっては御倉井さんが悲しむかもしれないからな」
「……えっ? それって、どういう……」
「旅立ちは諦めろということだ」
続く……