01 プロローグ
「ママ、なにしてるの?」
「あら、リリーム。ママはいまね、リップクリームを塗っていたの」
「リップクリーム?」
「そう。唇に塗るものよ」
「わたしも! わたしもやるー!」
「ふふ……いいわよ、こっちに来て。塗ってあげる……じっとしててね」
「うん!」
「……どう?」
「ふわぁ……なんだかいいきもち……」
「そうでしょ? これは塗ると幸せな気持ちになれる……ママ特製のリップなの」
そう言って、私の頬にそっと触れるママ。その手はひんやりしてた。
だけどイヤな冷たさじゃなくって、むしろもっと感じたくて……私はママの手を両手で包み込んで、頬ずりした。
…………。
頬ずりしてもなぜか感触がなくて、必死になってほっぺたをスリスリしてたら目が覚めた。
涼しい風が頬を通りすぎ……自分の部屋でいつのまにか寝ていたことを思い出した。
昨日の夜、床の上でタオルケットにくるまって本を読んでるうちに……寝ちゃったんだ。
四つんばいになって窓の方に這っていき、窓枠に手をかけてよっこらしょと立ち上がる。
昨晩は暑かったから、窓を開けたまま寝たんだった。
全開の窓から外を見渡す。空はまだ、薄暗かった。
ここは『ツヴィートーク女学院学生寮』……私が通う学院の寮。
私の部屋は4階にあるので、それなりに街を見渡せる。
スミレ色の空にうっすら見える星。
その下には明かりの落ちた家々。
朝の新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込むと、シャキッとなって……夢の世界から完全に戻ってこれた。
さて……これからどうしよう。
二度寝……はあまりする気にならなかったので、ちょっと早いけど朝の支度でもすることにした。
顔を洗うために部屋を出たけど、まだみんな寝ているのか誰もいない。
無人の廊下を歩くと、キシキシとかすかに軋む音がした。
毎日歩いているはずなのに、こんな音がするなんて知らなかった。
いつもは喧騒にかき消されてるのかな。
洗面所に入っても誰もいなくて、貸切状態だった。
よりどりみどりの白い陶器の洗面台たち。その真ん中に立ってみる。
くすんだ金色の蛇口をひねると、キキキと鳴って、ジャッと水が出た。
ママの手よりずっと冷たい水で顔を洗い、歯磨きをする。
いつもだと大勢のクラスメイトたちがいて、みんなと並んで歯を磨くんだけど……今日は違う。
いまこの空間には私と、鏡に映ったもうひとりの私だけ。
歯ブラシのシャカシャカという音が、普段より大きく聞こえる。
……今日と明日は、学校お休み。
なにを、しようかな。
ここのところ冒険やら何やらでずっと……忙しかったような気がする。
今日は……のんびりしてようかな。
なんて考えていると……鏡のむこうの私と目が合って、ふと我に返った。
ひとりで歯磨きをしていると、いつも意識がどこかへ飛んでしまう。
口をゆすいで洗面所から出る。
のんびりするって決めたから、このまま部屋に戻るんじゃなくて……朝の散歩でもしようかな。
とはいえパジャマのままだったので外には行かず、屋上に行ってみることにした。
どうせ時間はたっぷりあるので、いつもよりゆっくりと、静かに階段をあがる。
私がこんなに音をたてずに階段をあがることは、あまりない。
階段となれば駆け上がりたくなる性分。
登り階段の先にはなにか新しいことが待っているような気がして、ウズウズするからだ。
イヴちゃんやミントちゃんもよく駆け上がってるから、たぶん私と同じなんだと思う。
逆に、シロちゃんやクロちゃんは静々と階段をあがる。
シロちゃんみたいに内股で上品に、クロちゃんみたいに淀みない動きで冷静に、一段一段ゆっくりとあがる。
屋上につながる階段にさしかかったところで、何か聴こえてきた。
耳をすますと、それは笛の音色っぽかった。
だれかが屋上で、楽器でも演奏してるんだろうか。
子守唄みたいな……やさしい音色。
初めて聴くのに……なんだか心が落ち着く。
ちょっと怖くもあったが、もっと近くで聴きたいという欲求のほうが強かった。
なるべく雑音が入らないように注意しながら階段をあがり、私は屋上への扉を開けた。
そこには……顔を出しつつある朝日を背に、横笛を吹く人影があった。
風に揺れる長い黒髪。遠目から見てもサラサラのそれは、朝日を受けてキラキラ輝いている。
私はもうそれだけで、奏者の正体がわかった。
それと同時に……ずっと聴きたかったものが聴けて、嬉しくなった。
私は扉によりかかって、奏者と同じように瞼を閉じて……念願の演奏会を鑑賞する。
観客は私だけじゃなかった。
初めて見たときと同じように周囲に動物たち……いろんな種類の鳥たちが集まり、聴きいっている。
やがて演奏は終わり、奏者は吹き口から唇を離した。
そのタイミングにあわせて私は拍手をする。
その音に驚いたのか小鳥たちはいっせいに飛び立ち、真ん中にいた奏者はビクッ! と小さく跳ねた。
「すごいすごいシロちゃん! ステキな演奏だったよ!」
私はたったいま演奏を終えたシロちゃんの元へと駆け寄る。
「あっ、リ、リリーさんっ!? おっ、お、おはようございますっ」
シロちゃんは仰天しながら立ち上がり、慌てながら頭をペコリと下げた。
「いっ、いつのまに……いらしてたんですか……?」
そう言いながら顔をあげた彼女は、真っ赤っかになっていた。
演奏を聴かれたのが、そんなに恥ずかしかったんだろうか。
「ついさっき来たばかりだよ。シロちゃんは毎朝ここで笛を吹いてるの?」
「は、はいっ。聖堂にいたころは毎朝森で笛を吹いていたので、こちらでも、つい……」
シロちゃんは学院に入るまではずっと聖堂で暮らしてて、外に出ることを許されなかったらしい。
彼女の言う森とは、聖堂の奥にある聖域の森のことだと思う。
「あの、すみません。うるさくしてしまって……」
そう言ってシロちゃんはまた頭を下げた。
……あの音色がうるさいだなんて思う人間は、この世にいるんだろうか。
「全然うるさくなんかないよ! それよりさ、早起きしたときはまた聴きにきてもいい?」
「は、はいっ……人にお聴かせすることがなかったので、少し、恥ずかしいのですが……私の笛でよろしければ、是非……」
はにかみながら微笑むシロちゃん。いつもの控え目な笑顔だったが……私には夏の朝日と同じくらい眩しく見えた。
それからシロちゃんにいったん別れを告げ、自分の部屋に戻って着替えた。
パジャマを脱いで、クローゼットを開ける。
制服のかかったハンガーを取り出したところで、今日が休みであることに気付いた。
制服をしまって、改めて普段着の勇者ルックを取り出す。
ブルーのシャツを着て、ベージュのショートパンツを穿く。
お財布とかが入っているポーチをベルトがわりに腰に巻き、紺のサイハイソックスに足を通す。
ネイビーのマントをばっと翻しつつ羽織って着替えおわり。
つぎは剣と盾……だけどこれは外に出かけることになったら取りに戻ればいいか。
あとは……もわっと広がっている髪をひとつに束ね、三つ編みにする。
チラッと鏡を見て仕上がりを確認したあと、仕上げをするためにベッドの枕元に向かう。
棚の上にある『勇者のティアラ』を両手で丁寧に持ち上げ、頭に装着。
これがなきゃ、はじまんないよね。
そして最後は、
「いってくるね、ママ」
ティアラの隣の写真立てに向かって挨拶をキメる。
よおし、準備完了! 今日も一日がんばろう!!
……と気合いを入れたところでお腹がぐぅと鳴った。
急ぎ足で部屋を出ると、クラスメイトたちが起き出し、活動をはじめていた。
挨拶をかわしつつ廊下を走り抜け、階段を駆け下り、1階の食堂へと向かう。
「おばさんっ、おはよーっ!」
食堂に飛び込みつつ、挨拶一番。
「おはようリリー、今日も元気だね」
いつもマイペースな食堂のおばさんの、のんびりした返答がかえってきた。
寮の朝食はゴハンとパンの2種類がある。
今日はパンの気分だったので……コッペパンを取り、サラダとハムと目玉焼きが盛られた皿をトレイに乗せた。
食堂内を見渡すと、窓際のテーブルでミントちゃんシロちゃんが手を振っているのが見えたので、そこに向かう。
六人用の四角いテーブルの空いているところに座ると、続いてイヴちゃんとクロちゃんがやってきて……朝食とあいなった。
「きょうはなにするのー?」
「そうねぇ、来月のテストに向けて、勉強会なんてどぉ?」
「ちょ、イヴちゃん、せっかくの休みになんてことを」
「……山登り」
「山のぼりぃ? なんで休みの日にわざわざ山なんか登らなきゃいけないのよ」
「シロちゃんはなにかしたいことある?」
「あっ、いいえ。私は特に……皆様の判断に従わせていただきます」
なんてとりとめのない話をして、結局まとまらなかったので姫亭に行こうということになった。
寮の入口で待ち合わせをして、いったん解散ということになったので、私は装備を取りに部屋に戻ることにした。
部屋に入ると、机の上に小包が置かれていた。
誰かが、届けてくれたんだろう。
誰からだろう……? と小包に近づき、差出人を確認した瞬間……私の心臓はドキンと高鳴った。
差出人は……ママリア・ルベルム。
ママからの荷物だった。




