110 険しい道のり
私は、暗い闇の中を漕いでいた。
まわりにいた仲間たちは、いつの間にかいなくなっている。
ここがどこかもわからない。いまがいつかもわからない。
どこか遠くで、ごうごうと風が鳴るような音が聴こえてくるのみ。
それでも私はペダルを踏んだ。踏んで踏んで踏みまくった。
しかしペダルは重くて……いや、違う、私の足は石化したように重くなっていて、思うように動かせないんだ。
でも、それでも私は足を動かす。
こんにゃろ、こんにゃろと言いながら、髪を振り乱し、肩をいからせ、腰をひねる……全身を使って足を動かす力に変えた。
そうしていると不意に、身体の血が凍りついたような、「ヒィッ!?」となる感覚に襲われる。
心臓なんかはびっくりしすぎて、口から逃げ出しちゃいそうだ。
私は口を閉じて、心臓が飛び出さないよう必死になって抑える。
しかし……息ができない……!
そ……そうだ、鼻だ……! 鼻で息をすればいいんだ……!
そう思って鼻で息を吸い込んだんだけど、ぜんぜん楽にならない。
かわりにツーンという鋭い痛みがあるばかり。
しかし……その痛みのおかげか、私は一気に覚醒した。
「ごぼっ……ごはあっ……!?」
口から息を吐くと、泡となって逃げていく。
ゆらぐ視界は、ボートの中のキャビン。
最初は寝ぼけているのかと思ったんだけど、いつまでたってもなんだかハッキリしない。
そして、さらなる違和感に気づく。
すべての音がくぐもっている。
身体がフワフワ浮いているし、それに凍えるくらいに冷たい……!
こんなに冷たいというのに、そばにいる仲間たちは動かない。
まるで水中花のように浮かんで、ゆらゆらと漂うばかり。
水中花……?
そ……そうか……!
水の中だ……! 私たちはいま、水の中にいるんだ……!
でも、なんで……!?
ボートに乗って、海の上を進んでいたはずなのに……!?
でも、考えるのはあとだ!
みんなは意識を失ってるようだから、助けなきゃ……!
このままじゃ、みんな溺れ死んじゃう……!
私は半泣きになりながら、仲間たちの身体を掴んで外に連れ出そうとする。
しかし、キャビンの外に出ようとした途端、突風のような水流に煽られた。
かなり流れが急のようだ。
このまま連れ出したら、みんなどっかに飛ばされちゃうかも……!?
焦って外に出ちゃダメだ……なにか考えないと……!
なにかいいものはないかと、私はマルシェさんの張り紙が貼ってある棚を開いてみた。
すると……棚の下のほうに、6つの浮き輪があるのが見えたんだ……!
これだ……!
ありがとう、マルシェさんっ……!
私は心の中でマルシェさんに感謝しながら、浮き輪の固定を外す。
巨大な人形遊びでもするかのように、仲間たちの身体を浮き輪に通していく。
念のため、浮き輪についていたロープでお互いを結びつけておいた。
よし……できた……! じゃあいくよ、みんなっ!
私は物言わぬ仲間たちに目で合図。
腰には聖剣のクルミちゃんがいることをしっかり確認してから、キャビンから飛び出す。
数珠繋ぎになった私たちは、台風を受けた芋づるのように流されつつも……浮き上がっていく。
私は手足をバタつかせて、一刻も早く水面に出れるよう足掻いた。
「……ぷはああああーーーっ!!」
水から顔を出した瞬間、待ちに待っていた感覚が肺を満たす。
久しぶりの空気……!
いつも当たり前に吸っていたものが、こんなにありがたいとは……!
いや、ありがたがってる場合じゃなかった!
みんなを助けないと……!
私たちは海にいたはずなのに、いつの間にか川にいた。
なぜかはわからないけど、今はそんなことを考えている場合じゃない。
流されていく中、私は途中にあった岩にしがみついた。
大きな岩は川岸まで繋がっていたので、私は命綱なしのロッククライミングをしているかのように、死ぬ気で岩を伝っていく。
流されようとする仲間たちが、私の身体を引っ張ってくる。
まるで地獄に引きずりこもうとする、天使たちのように。
そのうえ岩が滑るので、気を抜くと一気にもってかれそうだ。
でも手を離したら、私だけじゃない……みんなが死んじゃうんだ……!
そう言い聞かせながら岩に爪立て、時には歯で喰らうようにして、なんとか岸まで辿り着く。
亡者のように河原に這い上がった私の身体はボロボロで、あちこちが血だらけになっていた。
でも……疲れている場合じゃない。痛がってる場合じゃない。
私は最後の力を振り絞って、みんなの浮き輪を引っ張った。
手が縄に食い込み、血で滑って大変だったけど、肩に背負っておぎゃあおぎゃあと絶叫しながら、全員を引き上げる。
仲間たちの身体から浮き輪を外し、河原に寝かせると……私にはもう何の力も残っていなかった。
このままいっしょに寝ちゃいたい気分だったけど……まだやることが残っている。
私は命を削るようにして、仲間たちに心肺蘇生を施した。
まずはシロちゃんだ。彼女がいれば気つけの呪文が使える。
血まみれの手で心肺マッサージをすると、彼女の純白のローブにどす赤い血が染み込んだ。
ごめん、シロちゃん……! でも助けるためだから、許して……!
しばらくして、シロちゃんはこほこほとむせながら意識をとりもどした。
こんな時まで、彼女はなんだかおしとやかだ。
しかし何が起きているのか事態は飲み込めていないようで、大きな瞳をパチクリさせている。
「シロちゃん! あとで説明するから今は気つけの呪文をかけて!」
「はっ……はひっ!? かしこまりましたっ!」
私はシロちゃんと協力して、みんなを次々と叩き起こしていく。
気つけの呪文の効果はてきめんで、仲間たちは尻に火がついたウサギのように飛び起きてくれた。
直後、私は……緊張の糸に、死神の鎌が振り下ろされるのを感じる。
今までは気を張っていたから大丈夫だったんだけど、みんなが無事だったことで、
「は……はふぁ……あと……よろし……く」
言い終わるか終わらないかのうちに、意識がブラックアウトした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
次に意識を取り戻したときには、あたりは夕暮れに包まれていた。
そしてなぜか、素っ裸だった。
私だけじゃない、みんなも生まれたまんまの姿で、私に寄り添っている。
「あっ……リリーちゃん、おきたー!」
コアラのように私に抱きついていたミントちゃんが、にぱっと笑った。
「もう、起きたんだったらあっち行きなさいよっ!」
私の右側で、きつく抱きしめていたイヴちゃんの腕が離れ、乱暴に突き飛ばしてきた。
左側で抱きしめていたクロちゃんが、よろめいた私を受け止めてくれる。
「よかった、気がつかれたんですね。おかげんはいかかですか?」
肩越しに、やさしい声が耳をくすぐる。
シロちゃんだ。彼女は背後から私を抱きしめてるんだ。
「あ……ありがとう、もう大丈夫。みんな、なにがあったの?」
尋ねると、四方にいる仲間たちが同時に、わいわいと教えてくれた。
私が意識を失ったあと、このままじゃ風邪をひくと思い、手分けして薪を集めて火を焚いてくれたそうなんだ。
びしょ濡れだった服も脱がせてくれたんだけど、私の身体がどんどん冷たくなっていくので、みんなで集まって温めてくれていたらしい。
よく見ると、私たちのまわりにはこれでもかと焚き火が設置されていた。
まるで火に取り囲まれているようで、儀式の生贄にでもなった気分だ。
頭上には、木に結んだツタが張られていて、みんなの服が掛けられている。
どうやら、服を乾かす役目も果たしているようだ。
この過剰なほどの焚き火のおかげで、寒空で裸だというのに全然寒くない。
みんなの肌のぬくもりと、シロちゃんの羽毛のあたたかさもあるので、まるで天国にいるみたいだ。
「リリーちゃん、くんくんしてるー!」
「なによアンタ、犬みたいにニオイ嗅いで……」
「いや、みんなの肌のニオイを嗅いでたんだ」
「す、すみません、においますか?」
「あ、クサいって意味じゃないよ。むしろいい香り。みんなの肌のニオイ、実は大好きなんだ」
「なによそれ」
「肌のニオイって、お母さんみたいなニオイがしない? やさしい香りで……嗅いでいると、なんだかホッとするんだ」
するとミントちゃんは、私の鎖骨のあたりにぴたっと鼻をあてて、すぅ~っと息を吸い込みはじめた。
私はおかえしに、彼女のうなじに鼻をあてて、すぅすぅ息を吸い込む。
「……ほんとだー! いいにおーい!」
いつの間にかクロちゃんも私の肩に鼻をくっつけて、「芳香」と感想を述べていた。
「でしょ、でしょ? イヴちゃんもシロちゃんも嗅いでみて!」
「よろしいのですか……? 失礼いたします」
背後から遠慮がちに、シロちゃんの声がする。
「うんうん、どんどん嗅いで! ほら、せっかくなんだから、イヴちゃんも……!」
しかし、彼女はあからさまに苦い顔をしていた。
「なにがせっかくなのよ。嫌に決まってるでしょ。なんでアンタのニオイなんて嗅がなきゃいけないのよ」
「もう……イヴちゃんってニオイのことになると、ことのほか嫌そうな顔をするよね」
「……気持ちの悪いヤツのことを思い出しちゃうのよ。身の毛がよだつような、おぞましいヤツのことをね」
「ふぅん、そうなんだ……」
イヴちゃんはしょっちゅう嫌そうな顔をするけど、その『気持ちの悪いヤツ』のことを言うときの顔は今まで見たことがないほど嫌そうだった。
まるで飛んできたゴキブリが顔に張り付いたときみたい……いやそれ以上かもしれない。
イヴちゃんにそこまで嫌悪感を抱かせるなんて、いったいどんな人なんだろう……?
私はなにごともなかった安心感からか、そんなどうでもいいことに思いを巡らせていた。




