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オレンジ色の、あたたかい光に照らされた草原。
陰影のハッキリした世界のなかで、ウサギのオバケのような影が跳ねていました。
いや、跳ねているというよりも……突き上げられている、といったほうがいいでしょうか。
アッパーカットを喰らったみたいにアゴを反らせ、ゆっくりと浮き上がっています。
その身体のそばを、何かが縦に貫いていきます。
細長い物体が、ヒュンヒュンと風切り音をたて、回転しながら落ちてきました。
それは、かつては歯だったのですが、身体を離れた今では折れた刀身のようにしか見えません。
スカァン! と乾いた音をたてて、あずまやのテーブルに突き立ちました。
リリーとイヴからはだいぶ離れているのですが、ふたりともビックリしてしまい「わあっ!?」と抱き合います。
あと少しズレていたら、剣が身体に突き刺さっていたかもしれないほどの間近にいたクロ。
でも気づいていないかのように動じていません。
続けざまに、カラン! とテーブルに何かが落ちてきます。
投了された駒のように乱暴に投げ出され、角で立ったままクルクルと回転したあと……パタン、と倒れました。
それは……ダイヤモンドパンでした。
「き……傷ひとつ、ついてないなんて……!」
……ズダアンッ……!!
リリーがつぶやいたその時です。悪魔が地面に叩きつけられたのは。
関節がゆるみきった人形みたいに、ガクン……ガクン……と衝撃に身を任せ、全身をわななかせています。
彼女は、力の象徴である前歯を失ってしまい……瀕死の状態でした。
白目を剥き、ビクビクと小刻みに痙攣しながら……口から泡を吹いています。
悪魔の死に様を目にするのは、少女たちにとって初めてのことです。
きつく抱き合い、何度も喉を鳴らしながら、その様子を見下ろすリリーとイヴ。
クロはナゾナゾ勝負が始まってから、お尻が椅子に接着されているみたいに動かなかったのですが……定時を迎えた事務員のように立ち上がりました。
「逃げる準備を」
クロは悪魔を一瞥すらせず、仲間たちにそれだけ伝えました。
そのままスタスタと、縛りつけられているフタのほうに向かいます。
リリーとイヴはまだ抱きあっていましたが、ふと我に返ったイヴが力任せにリリーを突き飛ばしていました。
生きているフタは、もう逃げることをあきらめたのか、飼い犬のように大人しくなっています。
少し怯えているようにすら見えるフタに、クロは野良犬狩りのように近づいていきました。
……ガシッ!
不意に、足首を掴まれました。
黒いローブを傾け、視線を落とすと……そこには、虫の息のヴォーパルがいたのです。
「……な……なぜだっ……!? なぜ、砕けなかった……!? 私の歯は、鋼すら紙のように切り裂くのに……!?」
ヒィヒィと口の端から息を漏らしながら、ヴォーパルは怨霊のような声を絞り出します。
それは普通の人間なら、失禁してもおかしくないほど恐ろしい姿でした。
でもクロは、まわりにある草に話しかけるくらいの感じで、何の気ない様子で口を開きます。
「ダイヤモンドパンは、昔は『トゥースブレイカー』と呼ばれていた。硬さを特徴としており、歯では絶対に噛み砕けないことを宣伝文句としていた。歯では噛めないことを絶対とするあまり、歯から守る錬成魔法がかけられていた。いまではダイヤモンドパンに改称され、その宣伝文句もなくなったが……錬成魔法だけは、名残りとして残っている。従って……『歯』と認められるものでは、魔法を解かないかぎり……絶対に砕けない」
「な……なんだ……とぉ……!? そんなバカなパンが……あって……たまるかぁっ!? それでは絶対に……食べられないではないかっ!?」
「ダイヤモンドパンにかけられた魔法は、水かお湯で解除されるようになっている」
ワナワナと震えるヴォーパルに、クロは補足までしてあげます。
もはや勝負は決した……とこの場にいる少女たちは誰もが思っていました。
しかしヴォーパルだけは、まだ瞳の輝きを失っていなかったのです……!
「ぐううっ……! こ……この勝負……私の負けだ……! だがっ! 逃さん……! 逃さんぞぉ……! この村からは、絶対に出さん……!」
「ええっ、ちょっとぉ!? 負けを認めたんだったら約束を守ってよぉ!?」
見かねたリリーが、クロと悪魔の間に割って入ります。
「往生際が悪いわよっ! その汚い手を離しなさいっ!」
イヴに至っては、悪魔の手首をグリグリと踏んづけています。
しかし悪魔は手を離すことも、自分を偽ることもしませんでした。
「バカめぇ! 悪魔が約束を守ると思ったかぁ! やはり貴様らは見習い冒険者……まだまだ甘っちょろいわ!!」
「その甘っちょろいのにやられたくせに、何言ってんのよっ!?」
イヴがガンガンと踏みつけても、ヴォーパルの手はガッチリとクロの足首に食い込んだまま離れません。
「もう一戦……もう一戦だぁ……! 私ともう一度、ナゾナゾ勝負しろぉ……!」
「自慢の前歯もなくしたクセに……もうナゾナゾ勝負でも、殴り合いでも負けないわよっ!」
「ぬかせっ! いま私は、この村にあるウサギたちの苦悩を集めているところだ……! 私の歯が、再び生えてきているのが見えるか……!? これが生え揃ったときこそ、貴様らの最後……! 貴様らは永遠にこの村で、私とナゾナゾ勝負をするのだあっ!!」
そう絞り出すヴォーパルの前歯は少しずつではありますが、たしかに元の形を取り戻しているではありませんか。
「なんですってぇ!?」「わあっ、クロちゃんを離して!」
慌てたイヴは、げしげしとヴォーパルの顔を足蹴にしました。悪魔の頬に靴底の跡が残ります。
リリーも加勢し、悪魔の足を引っ張ってクロから引き剥がそうとしました。
しかし離れません。この時ばかりはクロもさすがに焦っているだろうと、誰もが思っていたのですが……相変わらず、無味乾燥したままです。
そして彼女から放たれた、短い一言に……誰もが沈黙してしまいました……!
「おまけの一問」
ヴォーパル、リリー、イヴ……悪魔も人間も、しばらく唖然としていました。
信じられないような顔で、クロを見ています。
「なにいっ!?」「ええっ!?」「なんですって!?」
皆の反応も気にとめることもなく、クロはマイペースに口を動かしました。
「……リリー、イヴ、ミント、シロ、クロ……五人はこの村のウサギを全部、引き連れて逃げ出そうとしています。さて、ウサギをどうやって集めたでしょうか?」
「なっ……なんだとぉぉぉぉぉっ!? そんなこと、させるわけが……!?」
ヴォーパルは途中で言葉を止めました。不穏な音を耳にしたからです。
遠くから、ドドドドド……と地すべりのような振動が、近づいてくるのを感じとっていました。
「あっ!? クロちゃんが『もうじき』って言ってたけど……ホントだ! ミントちゃんとシロちゃんが、ウサギを引き連れてこっちに来てる!」
「なっ……なにいいいいっ!?!?」
この地を揺らしているのはウサギの足音なのかと知り、ヴォーパルは戦慄します。
顔を起こしてみると……剣圧で切り倒されて、広がった景色の向こうから……土煙があがっているのが見えました。
「こっ、この村のウサギは、一万はくだらないはず……!? いったいどうやって……どうやって、ウサギどもを集めることができたんだっ!?」
そしてクロの口から語られる、おまけの一問の答え……それは悪魔ですら考えつかない、奇想天外なものでした。




