58
森は、冬がひとあし早く訪れたような冷たい空気に支配されていた。
いつもだったら深呼吸したくなるような澄んだ空気も、冷えてピンと張りつめ、それを通り越して刺々しくなりつつあった。風がないのがせめてもの救いだ。
リリーたちは雹のように冷たい雨から逃れ、岩山の窪みで縮こまっていた。
横一列に並び、冬山の猿のように身体を寄せ合う。
少し待ったら雨は止むかと期待したが、雨足はどんどん強くなっていく。
急造でてるてる坊主まで配備したというのに、逆に山の神の怒りに触れたかのように激しさを増していった。
窪みからの光景は滝の裏にいるみたいになり、少女たちの不安も募っていく。
「さむさむさむさむ……ああ、いつまでこうしてなくちゃいけないんだろう」
吐く息がほんのり白くなっていることに気づき、リリーはますます絶望的な気分になった。
「知らないわよ……それよりもっと詰めなさいよ、寒いんだから」
リリーの隣、列の隅にいるイヴが押してくる。
大きくしたシロの翼に覆われているのだが、やっぱり端のほうは寒いのだ。
「ひがちっちゃくなってく……さむいよぉ……」
列の真ん中にいるミントが、焚き火の炎を溶けていくアイスクリームのように見つめ、母親にすがるような声で助けを求めた。
「ああっ、燃やすものがもうなくなってしまって……すみません……」
困り果てたシロは、せめてもの思いでミントを強く抱きしめる。
この雨なので、草木は濡れていて燃やせない。しょうがないので修学旅行のしおりを燃やしたのだが、それももう燃え尽きようとしていた。
隣から青白い手が伸びてきて、火の中にどさりと何かが放りこまれる。
手の主は、黒いローブを深く被ったクロだった。
「あ、クロ!? それ教科書じゃない!」
「……問題ない」
唖然とするイヴに対して、事もなげにつぶやくクロ。
真新しい書物はあっという間に炎に包まれ、火勢を増す燃料となった。
「問題ないって……授業どうするつもりよ?」
「……教科書の内容は、すでに自分のなかにある」
「そういえばクロちゃんって、授業のときも全然教科書開いてなかったね」
「全部覚えておいでなのですか?」
「クロちゃんすごーい!」
「開かないのは教科書だけじゃないよ、クロちゃんって本好きっぽい見た目なのに、本を読んでるところをぜんぜん見たことないんだから」
「本好きっぽい見た目って、なによそれ」
「クロちゃんって、なんとなくそんな感じがしない?」
「まぁ、わからなくもないけど」
「……自分が必要としているものは、本には存在しない」
一瞬の沈黙のあと、ほほぉ……と感嘆の溜息が漏れる。
「そ、それは、本にある知識は全てお持ちになっているという意味ですか?」
「なによクロ、カッコつけてんじゃないわよ」
「もしかして、名言出ちゃった?」
「ねぇねぇ、ひつようって、なーに?」
「その方にとって、なくてはならないもの、という意味です」
「ふぅ~ん、クロちゃんのなくてはならないものって、なーに?」
無邪気な少女の、何気ない問いかけ。
それは仲間たちの興味をくすぐるピンポイントな質問だったのか、誰もが口を挟むことなく黙り込んだ。
黒く濡れ光る岩肌に、溶け込むようなローブの少女が沈黙を破るのをひたすら待つ。
しばらくして、薄い唇がかすかに動く。
「……リリー……」
豪雨にかき消されるような、ひときわ小さな声だった。
肩透かし、共感、よくわかっていない……様々なニュアンスの溜息が、少女たちから漏れる。
「ミントも、リリーちゃんがいなくちゃイヤー」
「はい、私もです」
「く、クロちゃん、ミントちゃん、シロちゃん……あ、ありがとう……」
リリーは感激のあまり泣きそうになる。こんな状況じゃなければ抱きしめたい気分だった。
「どうせ抱きまくらがわりで必要としてるだけでしょ。アタシはいなくても別にかまわないわよ」
しかしお姫様だけは、涙が引っ込むようなことを平然と言ってのける。
「い、イヴちゃん、ひどい……私はイヴちゃんがいなきゃイヤなのに……」
「そ……そうやって突然しおらしくなるんじゃないわよ! そんなことよりクロ! なくてはならないものがリリーだけってことはないでしょ!? 他にもっといいのがあるでしょ!?」
「皆無」
「ウソおっしゃい!」
「まぁまぁイヴちゃん、そんなにムキにならなくても……いいヒマつぶしになったからいいじゃない」
「ムキになんかなってないわよっ! ふん……気を持たせといて、まったく……」
「ミント、まだたいくつー」
「うーん、クルミちゃんみたいにどこでも寝れたらいいんだけどねぇ」
「ええっ!? クルミのヤツ、小屋であんなにバカでかい声で唄っといて、もう寝てるの!?」
「なんかね、雨の日は特に眠くなるって言ってた」
「猫さんみたいですね」
「ああ、それにしても……やっとドッペルゲンガーから逃げれられたと思ったのに、なんでこんな所で雨宿りなんてしてなきゃなんないのかしら」
「ここって『えいゆうの道』のどのくらいの位置なんだろ?」
「知らないわよ……半分くらいは来たんじゃないの?」
「リリーさんになったドッペルゲンガーさんたちが追いかけてこられないということは、もう安全なんでしょうか……?」
「さぁねぇ、リリーのまんまだったらまだ寝てるんじゃないの?」
「いくら私でも、もう起きてるよ……そうだ、ドッペルゲンガーで気になることがあったんだ。なんでドッペルゲンガーたちは私に変わったんだろうね?」
「……ドッペルゲンガーは好意を抱いた者に擬態する。あの集落での生活を通して、リリーに好意を抱いたものと思われる」
「リリーに好意? バカ騒ぎしてただけなのに?」
「……自分たちと同じと考えれば、不思議ではない」
「ぐっ……あ、アタシはそうじゃないわよ!?」
「え? イヴちゃん、どうしたの急に? 話が見えないんだけど……?」
イヴちゃんと話していると突然声を荒らげることがあるなぁ、と内心戸惑うリリー。
心を乱している原因が自分にあるとは、目の前をぴちょんぴちょんと垂れ落ちる雨粒ほども思っていない。
カルシウムが足りてないんだろうなぁ、くらいに考えていた。
「うるさいわねぇ、アンタひとりだけでも厄介だってのに、17人もいたらたまったもんじゃないって話よ!」
「そ、そんな話だったっけ……? まあいいけど……」
「ミント、おなかすいちゃった~」
同調するように、リリーの腹の虫もぼやいた。
「あ、もうお昼かぁ……みんな、なにか食べるもの持ってない?」
クロはローブの袖の下に手を引っ込めたあと、手品のようにニュッと腕を伸ばしてきた。
手には、小さな木板を束ねたような物体が握られている。
「あ、ダイヤモンドパンだ! たべたい!」
シチューに入っていたときの味を思い出し、ダイヤモンドのように目を輝かせるミント。
「クロ、アンタなんでそんなもの持ってんのよ?」
「荷車の中からいくつか抜いておいた」
「ナイス、クロちゃん! あ、でも、そのままじゃ食べられないか……ねぇ、だれか皿とか持ってない? 金属のやつ」
リリーの言葉が終わると同時に「これでよろしいですか?」とシロが皿を差し出してくれた。
尋ねてすぐに皿が出てきたので、リリーは面食らう。
「ちょ、シロちゃん、なんでそんなにすぐ皿を出せるの?」
「これはミントさんのお食事用の取り皿です。修学旅行のときに持ち歩いておりました」
シロが両手を添えていたのは、金魚が描かれた子供用のブリキ皿だった。
「みずをいれるときんぎょがおよいでるようにみえるんだよ!」
「そうなんだ……ちょっと借りるね、シロちゃん、ミントちゃん」
皿を受け取ったリリーは立ち上がり、屋根と雨の境目へと歩いていく。
濡れないように滝壺に手を伸ばし、皿を雨水で満たした。
「アンタまさか、ダイヤモンドパンを雨水で戻すつもり?」
「うん、でも大丈夫だよ、雨水だってキレイなもんだって」
「ウソおっしゃい!」
「……降り始めの雨は大気の汚れを含んでいるが、本降りの雨は蒸留水に近い」
「ホント? まぁ、クロが言うんだったら……」
「それに、そのままじゃないよ、水で戻してもおいしくないと思うから……」
戻ってきたリリーは皿をミントに渡す。雨水に揺らぐ金魚に大喜びのミント。
「なにするつもりよ?」
「まぁ、見てて」
リリーは石を拾い集め、焚き火のまわりに積みあげた。
できあがった簡易カマドの上に皿を置き、お湯を沸かしはじめる。
ふつふつとしたところでダイヤモンドパンを入れ、シロから調味料を借りて味つけした。
「よし、シチュー……とまではいかないけど、ダイヤモンドパン入りスープのできあがり~!」
リリーたちは順番に皿を回してスープを食べた。ミントは猫舌だったので、両隣のリリーとシロがフーフーする。
ダイヤモンドパンがいい塩梅で煮崩れており、食べごたえのあるスープになっていた。
「あったか~い!」
「あぁ、ホント、こんなモノでもあると違うわねぇ」
「ショウガがきいておりますね」
「おっ、それに気づくとは、さすがシロちゃん。クロちゃんが持ってたショウガの粉を入れたんだ」
「なんでアンタ、ショウガなんて持ってんのよ?」
「儀式用」
「いったい何の儀式よ……」
「ぽかぽかの儀式だよ、きっと」
「うん、ぽっかぽか~!」
あたたかいスープに、リリーたちの気は緩みつつあった。
しかし……運命は再び引き締めにかかる。
滝の外に、人影が映ったのだ。




