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まさか、イヴちゃんと殴り合い……いや、拳闘試合をするハメになるなんて。
正直、ぜんぜん気が進まない。なんで仲の良い女の子と拳を交えないといけないの。
こういう時、イヴちゃんは全然手加減してくれない。むしろ全力でボコボコにしようとしてくる。
たぶん殺しさえしなければシロちゃんが治してくれると思ってるんだ。
だからといって顔の形が変わるくらいまで殴られるのはごめんだ。だって、メチャクチャ痛いんだもん。
でも、ここで逃げるのは得策じゃない。逃げたらイヴちゃんたちは追っかけてくるだろう。
脚は私のほうが速いのでひとりだったら逃げきれると思うんだけど、5人相手だとどうなるかわからない。
なんとかして、痛い思いをせずにこの場を収める方法はないものだろうか。
私がファイティングポーズも取らずに立ち尽くしているのが気に入らないのか、シャドーを続けるイヴちゃんが不満そうに声をかけてきた。
「なによ、散歩を嫌がる犬みたいな顔して……いいわ、やる気を出させてあげる。もしアンタが勝ったら姫亭の野菜チップスをおごってあげるわ」
自分の眉がぴくんと動くのがわかった。
野菜チップスというのはスライスした野菜を油で揚げたスナックのこと。
手軽で美味しくて、お茶うけにつまむにピッタリなので、姫亭でも名物になっている大人気メニューだ。
シロちゃんとの会話ですでに姫亭に想いを馳せていた私は、さらに野菜チップスまでもを思い出して生唾を飲み込んでしまった。
ああ、野菜チップス、食べたい……!
野菜の素朴な甘さと、ほんのりした塩味……!
揚げたてでホカホカ、口に入れるとサクサクのやつを、ジュースと一緒に頬張りたい……!
あ、でも……野菜チップスは食べたいけど、その程度で殴り合いをしたくなるほど食いしん坊ってわけでもない……いや、だいぶ心を動かされちゃったけど、やる気を出させたいなら、もうちょっといいメニューじゃないと……。
ん……まてよ……。
「ねぇ、イヴちゃん……ブルーベリーパイも付けてくれる?」
私が顔色を伺うように尋ねると、
「ブルーベリーパイ? いーわよ、そのくらい」
イヴちゃんはすんなりご褒美の追加を飲んでくれた。
ブルーベリーパイというのは姫亭の庭で栽培しているブルーベリーをどっさり乗せて作ったパイのこと。
頬張ると甘酸っぱいのが口いっぱいに広がって、プチプチの食感がまた絶品なんだ。
私はさらに尋ねる。
「……えっと、あとは、パーティサンドもいい?」
パーティサンドというのは、パーティの人数分盛り付けしてくれるサンドイッチのメニューのことだ。私たちは5人パーティなので5人前ということになる。
パーティが何人でも普通のサンドイッチ2人前ぶんの値段なのでお得。姫亭でも人気のランチメニューだ。
「パーティサンドもぉ? ……まぁ、いいわよ」
イヴちゃんは少し考えてから、さらなる追加も飲んでくれた。
私はさらにさらに追加を要求する。
「え……えーっと、それと、デラックスチョコケーキも付けて」
デラックスチョコケーキは高級チョコをふんだんに使ったホールケーキだ。
外はパリパリなんだけど中はしっとり。甘いチョコとほろ苦いチョコが渾然一体となって、幸せな甘さを引き立ててくれるんだ。
姫亭ではデラックスショートケーキと対をなす存在で、パーティメンバーの誕生日を祝う場合によく注文される。
「誕生日でもないクセになによ……うーん、まぁ、それでやる気が出るんだったら、しょうがないわねぇ……いいわ」
イヴちゃんは渋々と追加を飲んでくれた。もうひと押しかもしれない。
「じゃ、じゃあ最後に、ゴールデンアップルジュースも付けて!」
ゴールデンアップルジュース。ゴールデンアップルという珍しい黄色いりんごがあるんだけど、それをすりおろして作ったジュースだ。
滅多に手に入らないゴールデンアップルが入荷したときだけ姫亭に並ぶメニューで、値段も普通のりんごジュースの5倍くらいする。
ツヴィ女の生徒みんなが憧れる幻のメニューなんだけど、あまりに高いので私はまだ飲んだことがない。
飲んだ子によると、ほっぺが落ちてどこかにいっちゃうくらい美味しいらしい。
「ええっ!? ゴールデンアップルジュースですってぇ!?」
イヴちゃんも、これにはさすがに難色を示す。
そこが私の狙いだった。
ご褒美の追加を拒否されたら「えーっ、じゃあやる気でなーい」とダダをこねるつもりだ。
そしたらきっとイヴちゃんも呆れて「だったらもういいわよ! やらなくて!」となるはずだ。
我ながら情けない気もするけど、殴られるよりはマシだ。
イヴちゃんはウンウン唸っている。なんでも即断の彼女がこんなに悩むなんて、このおねだりはかなり効いたようだ。
「うううぅーん……もうっ、しょうがないわねぇ……。いいわ、いいわよ! アンタが勝ったら、ゴールデンアップルジュースでも何でもおごってあげるわ!」
「え……ええっ!?」
「なによそんなにビックリして、アンタが言い出したんでしょうが」
しまった、まさかゴールデンアップルジュースまで承諾してくれるとは。
まったくの予想外だった。これ以上高いメニューは姫亭には存在しない。
今度は私のほうがウンウン唸っていると、イヴちゃんがフンと鼻を鳴らした。
「でも、アンタもやるようになったわね。このアタシ相手に掛け金を釣り上げるだなんて」
「え? 掛け金って……もしかして、私が負けたら私がイヴちゃんにおごるの?」
「当たり前でしょうが! 何でアタシだけがそんな大盤振る舞いしなきゃいけないのよ!?」
「ええーっ!? そんなつもりじゃなかったのにぃ!?」
「うるっさいわね、今更言っても遅いわよ! アタシはもうやる気満々なんだから! さっさと構えなさいっ!!」
しまった。イヴちゃんをあきらめさせるはずの作戦が、裏目に出てしまった。
逆にやる気にさせてしまったようだ。
最悪、私はボコボコにされたうえに、彼女にごちそうするハメになってしまう。
「ううっ……!!」
私は二の句を告げずにいた。
完全に詰んでしまったように思えるけど、あきらめてたまるか。
この状況で、素直に殴り合いをする以外の手はないものか。
いや、あるはず。まだ、悪あがきをする余地はあるはずだ……!
頭の中にいろんなものがグルグル駆け巡り、そして閃いた。
「あ、そうだっ! ちょ、ちょ、ちょっと待ってイヴちゃん! ちょっとだけ待って!」
私は殺気立っているイヴちゃんたちを手で押しとどめたあと、背を向けて走り出す。
イヴちゃんたちは「あ! ちょっと待ちなさい!」と案の定追いかけてきた。
私はログハウスに駆け込むと、自分のリュックからキッカラの村で買ったお土産を取り出した。
追いついてきたイヴちゃんにそれを差し出す。
「こ……これ! これを付けて!」
新たに私が提示したのは、カエルのぬいぐるみのハンドパペットだった。
本来の用途ではないけど、これを手に付ければクッションになって拳の威力も軽減されると考えたのだ。
「なによこれ? もしかして、グローブのかわりのつもり?」
「うん、イヴちゃんのパンチって威力があるから、まともにやったら1ラウンドも持たないよ。……このくらいのハンデはいいでしょ? ね?」
「情けないわねぇ……でもまぁ、いいわよ」
イヴちゃんはいぶかしげだったか、オングローブでの戦いを承知してくれた。
……よし、うまくいった。
なんだかどんどんドツボにはまっていってるような気もするけど……もはや戦うのは避けられなくなってるような気もするけど……この調子で私のペースに持ち込むんだ。
私とイヴちゃんはリングへと戻った。リングといっても地面に線を引いただけのものだけど。
対戦相手である、カエルグローブを手にはめたイヴちゃんと向かい合う。
間に、レフェリー役のイヴちゃんが割って入った。
「まず、ここがリングだけど、地面に引いてある線はロープ際だから、そこから出ちゃダメよ。まぁ出てもいいけど、無理矢理リングに戻すからね」
線の外には観客兼戻し役のイヴちゃんたちが立っていて、手をワキワキさせている。
「それと肝心のルールだけど、相手が意識を失うまでの時間無制限勝負よ、いい?」
対戦相手のイヴちゃんは「いいわよ」とカエルグローブをボスボスしながら答えていた。
あまりにさらっとルール説明されたので私もつい頷いちゃいそうになったけど、慌てて異を唱える。
「ちょ、ちょっと待って! ラウンド制じゃなくて時間無制限!? それに、10カウントでノックアウトとかじゃないの!?」
ラウンド制だったら時間切れまで逃げまわるとか、10カウントだったら1発くらった時点で倒れてあとは寝ていようとか、いろいろ考えてたのに、全部封じられてしまった。
それにこのルールだともはや拳闘なんかじゃない、完全にケンカじゃないか。
「アタシたちはそのルールでやってんのよ。だいたい殺し合いだったらラウンドなんてないし、ましてや10カウントで立ち上がらなきゃいけないなんてこともないでしょ」
とうとう殺し合いとまで言い出た。
なんで好きな子と殺し合いをしなきゃいけないの。
顔に出てたのか、私の不満を察するイヴちゃん。
甘えるなとばかりにカエルの頭で私の胸を小突いてきた。
「いいこと? アタシたちは一歩外に出ればモンスターと戦うのよ? ヒマさえあれば人間を探しまわって、こっそり様子を伺って、スキあらば腹に爪を突き立て、心臓をえぐって、喉笛を食いちぎろうとしてくるような奴らとね! アンタに必要なのは剣術練習用の人形とジャレあう時間じゃないわ、ようは実戦……相手を殺す気合が足りてないのよ! それなのに殴り合いひとつにビクビクして、どーせ今もケガしたくないと思ってるんでしょ!? そんなだからいつまで経っても落ちこぼれ勇者なのよ! 少しは気合を見せてみなさい!」
「ううっ……!」
私は言い返せなかった。
これはドッペルゲンガーの企みで、私たちに殺し合いをさせるために考えたルールなんじゃないかと一瞬疑いかけたが、イヴちゃんの鬼軍曹のような言葉で思い直した。
間違いない。これはイヴちゃんが考えたルールだ。
実にイヴちゃんらしい思想と理論で考え出されたルールなんだと納得してしまった。
イヴちゃん肝いりのルールなんだったら、それに従ってあげたい気持ちもあるけど……待っているのは風船のように腫れあがった私の顔だ。
こうなったら、イヴちゃんの熱い想いに対して、私なりの答えを返すしかない。
まともにぶつかることはしないけど、自分なりに一生懸命やって、気合を見せるんだ。
私は決意し、イヴちゃんに向かって頷いた。
「わ……わかった。そのルールでやるよ。でも、ひとつだけ追加させて。カエルグローブを付けて戦う以上、イヴちゃんはカエル語以外はしゃべっちゃダメだよ。しゃべった時点で反則負けだからね」
「なによそのルール」
「ふふ、私にぶたれて、いったーい! って言ったら負けだからね?」
「言うわけないでしょ! いいわ、カエル語だけでやってやるわよっ!」
私が挑発すると、追加ルールにすんなり乗ってくれた。
……よし!
カエルグローブを見て咄嗟に思いついたことだけど、これで私のなりの気合を見せることができそうだ。
うまくいけばイヴちゃんに勝つこともできるかも……!?
意地っぱりなイヴちゃんのことだ、私にひっぱたかれたくらいじゃ絶対にカエル語以外を口にすることはないだろう。
だからそれ以外の方法で、人間の言葉を引っ張り出してみせる……! そのための手だては、すでに私のなかにあった。




