33
前歯のないイヴはだいぶ老けこんだように見えたが、シロの治癒魔法によってすぐに元の歯と若さを取り戻す。
「こんなの食べ物じゃないわ! ただの石版じゃないのっ!!」
イヴは八つ当たり気味にダイヤモンドパンを岩に叩きつける。しかしヒビひとつ入らない。
それどころか跳ね返ってきて、顔面にビッタンと貼り付いた。
「くうううっ……! クキェェェェェェェーーーーーーッ!!」
奇声をあたりにこだまさせながら、再び闘志を剥き出しにするイヴ。
パンと揉み合うその姿は、お姫様というより暴れ猿のようであった。
「ねぇねぇーっ! これ、よんでぇーっ!」
騒ぎとは全然関係ない所で遊んでいたミントが、遠くの茂みからひょっこり顔を出す。こいこいと手招きしている。
何かを見つけたようだ。おそらくそれは文字で、持ち運べないもののようだ。
身体にくっついた粘着剤を剥がそうとする猫みたいに地面を転げ回るイヴをそのままにして、リリーたちはミントの元へと向かう。
休憩所から、山の中腹へと向かう道。その端にある雑木林に潜り込む。ミントに招き入れられた藪の中には、腰かけるのにちょうどいい高さの岩があった。
ミントはその上に跨ると、これこれ、と岩に彫られた文字を指さす。
リリー、シロ、クロはどれどれ、と前かがみになる。
まるでミントの股の中をこぞって覗き込んでいるような、妙な光景だった。
「えーっと、これは……ああ、これは古代語だね」
真っ先に口を開いたのはリリーだった。きっぱりと言い切り、さきほどの卑屈さが嘘のように自信にあふれている。
「なんてかいてあるのー?」
「クロちゃん、なんて書いてあるの?」
尋ねられたリリーはすぐに仲間にバトンを渡す。古代語であることはわかるが、読めはしないらしい。
「……この岩から向かって右側に進むと『こしぬけの道』、左側に進むと『えいゆうの道』とある。どちらに進んでもカラーマリーには着く、とも書いてある」
風化しかかった文字を、特に苦もなく読み上げるクロ。最後に「グリッサードの名において、ここに記す」とつけ加えた。どうやら、伝説の英雄が残したものらしい。
カラーマリーというのはリリーたちの旅のルート上にある街のことだ。スカート湾の手前にある。
ツヴィートークに行くために、湾を渡る直線ルートを選ぶか、湾を迂回するルートを取るか、判断を迫られる重要なポイントとなる街である。
「これは、道しるべみたいですね。道を進むとどこに着くか、教えてくれる看板です」
垂れてきた髪をかきあげながら、シロが言う。
幼子に諭すような噛み砕いた説明であったが、それはミントに教えるためであった。
「ふぅーん、ミントたちはどっち? こしぬけ? えいゆう?」
ミントは岩の上で足をバタバタさせながら、穢れなき瞳で仲間を見上げる。
「そりゃもちろん、えいゆうだよね」
リリーは即答する。深く考えてのことではなく、言葉の好みを答えただけだった。
シロは上品に頬に手を当て、小首をかしげる。
「あの、この道標によりますと、私たちが登ってきた舗装されている道が『こしぬけの道』にあたるようですね。他に道があるのでしょうか?」
「うん、なんか、あっちにみちがあったよ」
道標に『えいゆうの道』と示されていたのと同じ方角を、紅葉のような小さな手で示すミント。つられてポニーテールも同じ方向を向いている。
リリーが先頭に立ち、示された方向の藪をかき分け調べてみると……舗装されていない獣道があった。どうやらこれが『えいゆうの道』らしい。
リリーたちは道標の前でしゃがみこんで、話し合いを始める。
「この道標……こんな草ボーボーの所にあるってことは、今は使われてない大昔のものってことだよね?」
まずリリーが思ったことを口にすると、クロが頷いた。
「古代語で書かれていることから、古くに打ち捨てられたものと思われる」
「それと、舗装されているのは『こしぬけの道』だから……『こしぬけの道』を通るのが、カラーマリーまでの正しいルートみたいだね」
リリーがシロのほうに視線をやると、シロは眼鏡の位置を直していた。
「あっ、はい、そのようです。ゼン女のロビーで見た立体模型にも、分かれ道はありませんでしたから……『えいゆうの道』は地図にもない、忘れ去られた道ということになります」
シロの記憶力に、リリーは思わず感心する。そして「忘れ去られた道」という言葉に心惹かれた。
「……えいゆうとこしぬけ、どっちがいいのかなぁ、シロちゃんとクロちゃんはどっちがいい?」
「私は、リリーさんの判断に従わせていただきます」「右に同じ」
シロクロコンビの答えは、リリーの悩みをさらに深くする。
「うぅーん……ミントちゃんは?」
「ミント、キラキラがいっぱいあるほうがいいー!」
「う……うぅーん?」
リリーは頭を抱えてしまった。
冷静に考えると、あまり悩む必要の無いことのように思えた。
舗装されていて、多くの人が通っている『こしぬけの道』のほうが快適で安全なのは明らかだ。
リリーもこの道標に気づかなければ、何も気にせず『こしぬけの道』を選んでいた。
自分たちが歩いている道が『こしぬけ』なんて呼ばれていることも知らないまま、旅を続けていただろう。
しかし……一度気付いてしまった以上、リリーは悩まずにはいられなかった。
一流の勇者を目指す少女にとって、「英雄」というのは何よりも引っかかる言葉だったのだ。
「う……ううううう~ん!?」
明らかに茨の道を選ぶのか、どうなのか。
延々とした少女の悩みは突然、晴天の霹靂のように響いた一喝で決着する。
「バカねっ! えいゆうに決まってるでしょ!!」
振り向くと、そこには傷ひとつ付いていないダイヤモンドパンを顔に張り付かせたイヴが仁王立ちしていた。




