19
いきなり目の前に現れた『悪食トロール』。
いや、いきなりじゃない。鍵開けに夢中になっていて近づいたのに気付かなかっただけだ。
自分の愚かさに頭を殴ってバカバカとやりたいところだったが、それどころではなかった。
立ちふさがるトロールがいまだかつてないほどに不気味だったからだ。
パンを包みごと呑みこんでいるので、卵を丸飲みする蛇みたいに顔がパンパンに膨らんでいる。口からはシーツの端が蛇の舌のようにチョロリと覗いていた。
その姿は気持ち悪いとかいう感情を通り越してもはや気が触れそうになるレベルで、
「うわあああああああああっ!?!?」
私は三度目の遭遇だというのにまたナチュラルに絶叫してしまった。
トラウマものの死亡体験がフラッシュバックする。
全身がしびれ、勝手に足がガクガク震えだして動けなくなる。逆に心臓は暴れだして別の生き物みたいにドクドクいいだした。
脂汗がドッと吹き出てきて、鼻の奥がツンとして涙がじわり出てくる。
視界はにじみ、歪んでくる。まわりの音が聞こえなくなって、かわりに甲高い金属音がする。
蛇に睨まれたカエルというのはこんな状態になるんだろう。恐怖のあまり身体も思考も動かなくなり、さしたる抵抗もできないまま食べられてしまう。
身体は動かないが、思考停止だけはしないよう懸命に抵抗する。考えるのをやめてしまったら相手の思うツボだ。
コイツは蛇じゃない。顔だけ見たらむしろカエルのほうじゃないか! と頭の中で繰り返していると、少し身体のしびれが弱まった気がした。
力を振り絞り、強張って動かない身体を引き剥がすようにして私は背を向けた。
ギクシャクする身体でなんとか走りだす。
このまま……呪印のある扉まで……行ければ……!
扉までは数メートルしかないのに、いつまで経っても着かないような長さに感じられた。
結局、トロールはパンを呑みこんでいる最中だったので追いかけてはこなかった。
砂漠のオアシスに飛び込むように、呪印ドアのノブに飛びつく。
ひねって中に飛び込もうとしたが、ガチャリという音とともに阻まれてしまった。
あ……開かない……なんでっ!?
ガチャガチャ回して押したり引いたりしてみてもびくともしない。
勝手に閉まらないように本を挟んでおいたはずなのに……と隙間を見てみたが本はいつの間にかなくなっている。
かわりに足元にはバラバラになった本のページが散らばっていた。
……まさかっ!?
背後を振り返る。いまだ飲みこみ中の悪食トロールのほっぺたには、ご飯粒みたいに本のページがはりついていた。
し、信じられない……!! 挟まってた本まで食べちゃったっていうの!?
『扉でサンドした古本』はヤツにとっては前菜みたいなもので、今食べている『パンのシーツ包み』が主菜なんだ……!!
そのメインディッシュはいまだにトロールの喉をゆっくりと過ぎているが、苦しい様子はなくてむしろ喉越しを楽しんでいるようであった。
薄気味悪いのはその状態で立ちつくしたまま、ずっと私をニヤけた顔で見ていることだ。
まるでティースタンドに乗せられた色とりどりのケーキを物色するようなその視線……ヤツはいまのメンディッシュを平らげたら、私を食後のデザートにするつもりだ。
ごくり……!
私が生唾を飲み込むのと同じタイミングでトロールはパンを飲み下した。
その後ヤツはこちらに向かって一歩目を踏み出す。「ぐしゃり」と水っぽい足音がした。
腐ったトマトを踏みつぶしたような、あまりの不快な音に身震いがする。我に返った私は先ほど入った施工中の部屋に再び飛び込んだ。
持てるだけの角材をつっかえ棒がわりに置き、開かないように両手でしっかり押さえつける。
……しまった。とっさに逃げ込んじゃったけど、この部屋はどこにも繋がってないから行き止まりと同じだ。
ここを突破されたら終わり。もうどこにも逃げ場はない。
扉の向こうから、ぐしゃ、ぐしゃ、と足音が迫ってくる。
や……ヤバイヤバイヤバイ!! こっちに来てるっ!!
ヤツの武器にかかったらこんな扉はウエハースみたいなもんだ。
な、なんとか……なんとかしないとっ!!
打開策を考える。が、なんにも思いつかない。
「どうしよう……どーしようっ!?」
焦りのあまり部屋の中をぐるぐる走り回ってしまう。
夏休みの宿題とかが溜まりに溜まってどうしようもないときにも自室をよく走りまわる。そのまま廊下に出てみんなに泣きつきにいくんだけど。
だけど今は……泣きつける相手はいない。自分ひとりの力でなんとかしなきゃいけないんだ。
頭を掻き毟り、地団駄を踏み、床を転げまわってみたが頭の中は真っ白のまま。
できることなら脳を取り出して、雑巾みたいにギュッと絞りたい。そうすれば今のこのピンチを脱し、かつアイツを倒せる妙案が出てくるかもしれない。
悪食トロールは着実にこちらに近づいてきている。パンでおなかいっぱいになったから今日はもういいやなんて思ってくれてる様子はない。
逃げられたというのに慌てた様子もないから、たぶんヤツはここからどこにも行けないと知っているんだろう。
足音は追いかけるというより追いつめるようにゆっくりで、もうじゅうぶん怖い思いをさせられたのに更に恐怖を煽られる。
獲物はより怖い目にあわせたほうが美味しくなるなんて思ってるんじゃなかろうか。
死神のカマが首筋に押し当てられているような、ヒヤリとした感覚が身体を包む。
いいアイデアは浮かばないくせに、今までの思い出がぐるぐると頭の中をめぐりだす。
最悪の気分。だけど……いっそ殺してくれだなんて思ったりするもんか。
いや、ちょっとは考えたりもしたけど、考えたりするもんか。だって私は決めたんだ。ロサーナさんと共に生きてここから出るって。
おばあさん冒険者の顔が頭の中に描かれると同時に、ふっとあるフレーズが浮かびあがってきた。
ん? んん? そ、そうだ……。まだ……まだ望みはある……かもっ!?
よしっ、いちかばちかだっ!!
次の瞬間、私は四肢を奮い立たせる。大急ぎで板と角材を拾い集め、一心不乱に金槌を振るって木に釘を打ち付けまくった。
ひらめいたアイデアを精査している時間はない。だったらやるしかないんだ。
もう藁にもすがる思いだった。いや、本物の藁ならまだマシだ。いま私がやろうとしているのは蜃気楼の藁にすがるようなモノだった。
作り上げたのは木を釘で打っただけの即席椅子。
見た目が椅子っぽいだけで、脚の高さもまちまちだしグラグラしている。
この座っただけで壊れちゃいそうなモノが、私の最後の望み……!
いまは……これに賭けるっ……!!
つっかえ棒を払いのけてバンと勢いよく扉を開けると、椅子を昇降機ホールめがけて投げ込む。
いびつなソレは昇降機が通る穴のまわりにある手すりの上に乗って、コマのようにクルクル回りだした。
ただでさえアンバランスな椅子は回るたびに穴のほうに近づいていく。
落ちそうになる椅子を見て、トロールは「あっ」という顔をした。
いままで緩慢な動作で歩いていたのが一変、椅子めがけて巨体をゆさぶり慌てて駆け寄る。
その反応を見て、私は確信した。
ロサーナさんが言っていた「脚が大好物のヤツでね。脚のあるものだったら椅子だって食っちまうヤツさ」……それは比喩なんじゃなくて、ホントだったんだ……!!
ぶよぶよしたお腹がぶつかると、老朽化していたのか手すりはあっさり崩れた。残骸が椅子をとともに穴へと落ちていく。
両手をバタバタさせながら慌てるトロールだったが、ゾウの鼻みたいに長い舌を伸ばして落ちゆく椅子を器用に絡めとった。
しかし身を乗り出したせいで自身も穴に落ちそうになる。淵ギリギリのところで「おっとっとっと」とバランスを取っている。
椅子に気を取られているうちに逃げるつもりだったが、もしかしたら絶好のチャンスかもしれない。
成功率は未知数。生存できる可能性でいえばこのまま逃げてしまったほうがいい。だけどそれじゃなんにも変わらない。
ならば……やるしかないっ!!
私は拳を握りしめ、決意を固めた。
「うおおおおおおおおおーーーーっ!!」
裂帛の気合とともに疾走。いまだフラフラしているトロールめがけて渾身の体当たりをかます。
静かな水面に石を投げ込んだかのように背中の脂肪が激しく波打った。まるで体内に取り込まれるみたいに私の身体がめりこんでいく。
トロールの背中は見た目どおりぶよぶよで柔らかく、ヌメヌメしてて腐臭がすごかった。
もし下水に住んでるクラゲがいたとして、全然触りたくなんかないんだけど仕方なく触ったとしたら……同じ感想を抱くだろう。
しかし今はそんなこと考えてる場合じゃない。なんとしても落とさなきゃ!!
「落ちろおおおおおおおーーーーっ!!!」
身体を傾け足を踏んばり、腹の底から絶叫しつつガムシャラに押しまくる。
押す、押す、押す……っ! 押し負けたら……死ぬっ!!
窮鼠猫を噛むという。私はネコに追いつめられたネズミだ。
だけど今なら……虎だって噛んでやるっ!!
「うがぁぁぁああああああああーーーーーーーーっ!!!!」
顔にまとわりつく脂身みたいな身体の一部を大口をあけて噛みつく。
食いちぎらんばかりにアゴに力を入れる。こめかみのあたりがキーンと鳴る。
さらに力を込める……! だけど……落ちない……まだ落ちないっ……!!
口の中に鉄の味が広がる。歯を食いしばりすぎて血が出てきた。
歯なんてくれてやるっ……だからもっと、もっと力を……っ!!
お腹が破裂しそうになる。
爆発してもいい……! だから……落ちて落ちて落ちて落ちて……!!
落ちてぇぇぇぇぇぇぇーーーーーーっ!!!
「んぎゃあぁああやああぁあぁあぁああああああぁーーーーーーーーーーーーっ!!!!!」
狂ったように咆哮する。
声が裏替えり、かすれ、枯れ果てた。
肉はビキビキと硬直し、骨はひび割れた。
……。
………。
…………。
ふっと全身が軽くなる。視界がひらけ、明るくなった。
水の中にいるように潤みきった視界のむこうで、ゆっくりと、むこうに倒れこみ、沈み、落ちていく……悪食トロールの姿があった。
信じられない光景に、しばし呆然と立ち尽くす。
身長は倍はあり、体重にいたっては10倍以上ありそうなあの巨大なトロールが、私に押され落ちていったのだ。
「や、やった……やった! やった! ……やったあーっ!!」
私は嬉しさをこらえきれずにその場でバンザイジャンプをした。
それでも足りずに何度も何度もガッツポーズを繰り返す。
あの、悪食トロールを……あの強敵を……倒したんだ……!
しかも……私ひとりでっ……!
偶然から起きた事故の要素が大きいけど、最後のひと押しは私がやったんだから自力で倒したようなもんだよねっ!
よぉし、さっそく戻ってロサーナさんに報告しよっ!
スキップしたいくらいの気分で踵をかえす私。
身体はボロボロだったが、そんなことは気にならなかった。
達成感と高揚感が心地よく、むしろ最高の気分だった。
不意に、足首に違和感が襲った。
なんかミミズみたいなのが絡んだ感触がする。
見ると、長いピンク色のヌメヌメした物体が足首に巻きついていた。
な……なに、コレ……?
ソレが穴の底から伸びるトロールの舌だと気付いたときにはもう遅かった。
「うわああああああああーーーーーーーーーーっ!?!?」
そのまま強い力で引きずり込まれた私は、トロールと共に深い深い闇へと落ちていった。




