10
狂っている。
狂っていた。
頭の破裂した男は手を鳥の様に羽ばたかせ、往来にぶつかりながら何処かへと消えていった。ぶつかられた一人の女性は、猿の様な声を上げながら、近くで店の呼び込みをしている男性に掴みかかる。それをはやし立てる男達が手に手に箒を掲げて踊っている。別の場所では電柱に掴まってけたたましく笑う女が居る。それをしきりに眺めながら何やら画用紙に絵を書きなぐっている男が居る。他を見れば、裸になって抱き合う姿も見えた。嘔吐しながら転げまわっている者も居る。
狂っていた。
狂っている。
恐ろしくなって逃げようとした時に、横合いから腕を掴まれた。さっき頭を破裂させた男だった。男は無くなった頭に満面の笑みを浮かべて、優しげに語りかけてきた。頭が無いはずなのに、何故かそこに笑顔が見える。
「さあ、君も一緒に」
法子は悲鳴を上げて掴む手を振り剥がそうとするが、力が強く引き剥がせない。男は蛆の湧いた瑞々しい首の断面を法子に近付けてくる。
法子がもがく。男は放さない。
助けて。思わず法子は祈っていた。具体的な姿にではない。イメージは湧いたが、そのイメージに明確な姿は無かった。浮かんだのは、自分に語りかけてくれた刀の優しい声。助けてともう一度繰り返す。だがタマは反応しない。男の傷口が迫って来る。
その時、乾燥した木の枝を複数まとめて押しつぶしたような、そんなひしゃげた音が響いた。目の前の頭の無い男の頭があるはずの場所に、一本の矢が突き立っていた。
次の瞬間に、世界がひび割れ、崩れ落ちる。気が付くと何ら変わりの無いネオンの灯った繁華街。ただ通行人は居ない。その代わりに道路には沢山の人が倒れている。そして法子の目の前にピエロが立っていた。頭には矢が突き立っている。
「ひひ、僕の邪魔をするのはだあれ?」
ピエロが奇妙にねじくれた動きで横手を見上げた。法子の視線もそれに釣られる。
ビルの上に誰かが立っていた。良く見えないが、人の様だ。黒い姿が闇夜に滲んで、おぼろげにしかその姿を把握できない。
その人影が消えた。法子がビルの上の人影を見失った瞬間、法子の体に衝撃が走った。続いて宙に浮く心地がして、気が付くと元居た場所から遠く離れていた。遠くにピエロが見える。訳が分からない。足がつかずに混乱した。
「大丈夫か?」
法子へ優しい声がかけられる。その声の出所は法子のすぐ前にあった。法子に技を教えた漆黒の騎士が子を抱きかかえて西洋兜の合間から見える口元を微笑させていた。
「大丈夫……です」
熱に浮かされた様にはっきりしない頭で、法子はそれだけ答えた。
騎士は頷くと、法子を地面に下ろして呟いた。
「危ないからそこから動くな」
剣を構えてピエロへと向く。ピエロが腹を抱えて笑いながら、近くに転がる人間を蹴り上げた。その瞬間、騎士が消えた。
ピエロが宙に浮かぶ。一拍遅れて、ピエロが居た場所に、剣を払った状態の騎士が現れ、大きな破裂音がした。
それが、剣で切ろうとした騎士と回避したピエロの一瞬の攻防だったと法子が気付いた時には、ピエロは近くのビルの中へと逃げ込み、騎士もそれを追って消えていた。
ビルの奥から笑い声と金属音と爆発音が断続的に聞こえてくる。しばらくしてビルの窓という窓から何かが流れ出てきた。それは血だ。鉄錆の匂いが外にまで充満する。
やがてビルの内部が光り輝き、しばらくしてから騎士が飛び出してきた。そうして法子の前に着地する。
「とりあえずあの魔物は帰した」
騎士がそう言った。法子は安堵して騎士を見上げた。人と面と向かえない法子だが、兜に隠れて目が見えないから、平気でその顔を見る事が出来た。
「で、何で君はここに居るんだ?」
突然、騎士がそんな事を言った。法子はその意図が読み取れずに何とも答えられない。
「中……いや、君はまだ学生だろう? 夜にこんな所に来たら危ない。早く帰……りなさい」
心配してくれてるんだ。厳めしい鎧を着たまるで物語に出てきそうな騎士が、そんな素敵な存在が自分なんていう惨めな存在を心配してくれていると思うと、法子はそのちぐはぐさがおかしくて、そして嬉しかった。
「はい、帰ります。どうせ用事なんかなかったから」
「ならどうして」
「それはアウトレットに行こうとしたけど、どう行けば良いか分からなかったから、とりあえずここに」
高揚した気分の所為でそこまで言ってしまってから、自分がとても恥ずかしい事を言っている事に気が付いて法子は口を噤んだ。
笑われるかなと思った。けれど騎士は微笑を崩さず、そうかとだけ言って法子に背を向けた。
「とにかく早く帰った方が良い。じきに皆起きて混乱するだろうから」
その言葉を残して、騎士が闇夜に消えた。
法子が空を見上げていると、辺りからうめき声が聞こえてきた。確かに騎士が言った通りの様だ。混乱する前にと、法子は急いでその場を離れた。
家への帰り道、法子はぼんやりと空を見上げながら、騎士に助けられた事を思い出していた。カッコ良かった。悪党から人々を守るヒーロー、まさにそんな感じだった。まさしく法子がなりたい理想の姿だ。
あんな風になれたら良いなと思った。その為にどうすれば良いのかは分からない。けれど何となく具体的な目標が見つかって、法子は満足していた。いっそあの騎士に弟子入りしようかと考える。
人を守るヒーロー。誰かが危険な目に遭っていたら、真っ先に駆けつけて守ってあげる。数あるヒーロー像の内の最も単純で最も普遍的な姿だ。けれどその見飽きたヒーロー像が今の法子にはとても新鮮に感じられた。心の底に確かに灯る英雄の形が出来た。
朝、昨日の事がニュースでやっていた。意識の混濁や怪我等の軽症者が多数に、重傷者が幾らか。最近の魔物の事件ではかなり大規模な被害だったと告げている。魔物の出現は増え始めると加速度的に増加するので一帯に住む人々は注意するよう呼びかけている。
そんな大事件だったのかと今更ながらに恐ろしくなった。だが法子の顔はにやついてしまう。騎士に助けられた事と明確なヒーロー像が浮かんだ事を思い出して。
準備をして外に出ると、寒さが昨日よりも一段と強まっていた。寒さに体を縮こまらせながら、さっきの嬉しさは何処へやら法子は今日の事を思って憂鬱な気持ちになる。
法子が装飾された教室のドアを開けると、そこには沢山の物が置かれていた。教室の中はキッチン側と客席側がカーテンで区切られている。法子は今キッチン側に居る。荷物を置いて、手持無沙汰になって、カーテンを潜って客席側に行った。客席側では生徒達が思い思いの場所に座り、立ち、だらけた調子や高揚した様子で文化祭の始まりを待っている。
法子は居心地が悪いので、教室の外へと向かう。だが外に出る為の引き戸に生徒が数人、まるで塞ぐ様にして立ち話をしていた。行きづらかった。塞ぐ者達は以前法子の事を大声で批判していた者達だった。益々通り抜ける事が出来ない。法子は途方に暮れて、立ち止まる。
その時、教室の戸が開かれた。
登校時間で出入りの多い今、誰もそんな事気にしない。目もくれない。戸の前に立っていた者達と戸を見ていた法子だけがそれを見た。
ピエロが立っていた。それはまさしくピエロ。何処からどう見てもピエロ。そして、昨日大量の負傷者を出したピエロの魔物と同じ姿をしていた。
昨日の事を思い出して法子はすくみあがる。逃げる事も、周囲に避難を促す事も、魔物に立ち向かう事も出来ずに、法子はただその場ですくみ上って動けなかった。
一方で扉の前に立っていた生徒達は入って来たピエロを見て、文化祭の出し物だと思った様で、おかしそうに笑いながらピエロの事を取り巻いた。
「笑うな」
甲高い声が響く。ピエロの言葉だった。その言葉を聞いたピエロの周りの生徒達は更に大きな笑いを響かせた。
次の瞬間、ピエロの前に立っていた一人が吹き飛んだ。血を吹き散らしながら教室の中を飛び、ガラス窓に激突して突き破り、ベランダに飛び出した。ピエロが生徒の腹を殴り飛ばした所為だった。
唐突な非日常に、教室中のざわめきが止まる。ピエロの周りに集っていた生徒達が後ずさりをし始めた。客席側に居る生徒達がピエロに視線を送り始めた。キッチン側の生徒達が物音を聞き付け、客席側を覗き始めた。
そして悲鳴があがった。まず初めに、客席側の生徒達がキッチン側から覗き込む生徒を突き飛ばしてカーテンの奥へと逃げ込み始めた。続いてピエロの周りを取り巻いていた生徒達がその後に続いた。最後にキッチン側から覗いていた生徒達が慌ててキッチン側に引っ込んだ。最後の最後に法子が急いで、客席とキッチンを区切るカーテンをくぐる。
カーテンを潜る瞬間、背後を振り返ると、ピエロは法子の事など気にせずに、ベランダに倒れた生徒へ近付いていくところだった。きっと酷い事をしようとしている。きっと酷い事になる。
怖かった。これから行われるだろう事も、自分が標的になってそれと同じ目に遭わされる事も。食い止めたいという思いも微かにあった。だがそれ以上に怖かった。見ていられなかった。
法子は振り切る様にしてカーテンを閉めて、キッチン側を走る。廊下に通じる扉を目指す。キッチンにはもう誰も居ない。みんな逃げてしまっている。廊下の方から悲鳴が聞こえ、それが次々と連鎖した。きっと逃げた人達の混乱が伝播したのだ。法子は急がなければと焦った。このままではきっと、学校の外に逃げるまでの道程は大混乱になる。その混乱に阻まれている間にピエロが次の標的を探しに来るかもしれない。もしそうなれば混乱で逃げられない中で、襲われる事になる。
法子が急いで戸に向かおうとした時、甲高い金属音が響いた。音の出所は足元で、見れば剣型のブレスレットが下に落ちていた。手首のブレスレットが落ちたのだ。だがそんな事に構っていられない。今は何よりも逃げる事が優先だ。ブレスレットは後で取りに来ればいい。
ふと頭の中に英雄という事が閃いた。けれどそれはすぐに霧散して、しかし確かに法子の心に明確な重さを残していった。ここで逃げては取り返しのつかなくなる予感があった。
法子の足が止まる。法子の頭は呆然としていて、今自分が何をしているのかもわからない。ただ逃げなくちゃと頭の中で繰り返しながら、体だけは無意識の内に立ち止まっていた。
その背後、カーテンの向こうから何かを引きずる音がする。きっとピエロが生徒を引きずっている。それが分かって、法子の中に言いようのない焦りが湧く。英雄という言葉が再び頭の中に閃いた。
法子の足が動いた。
教室の外へ向けて、法子は再び走り出した。今の自分に何が出来る? 何も出来ない。助けに行っても返り討ちに遭うだけだ。二人共死んでしまう位なら、一人だけでも生き残った方が良い。誰だって同じ様にするはずだ。だから、だから逃げても悪くない。法子はそう心の中で念じながら、背後の物音を聞かない様に必要以上に足音を立てて、教室の外へと逃げ出した。
背後から獣の唸り声の様な悲鳴が響いた。