六月、恐怖の大王来たる。
「ついに、来るのね……。」
「……ああ、始まる」
東京都庁第一本庁舎のツインタワーの屋上。
それぞれに青年と女子高生が立っていた。
風は異様に静かだった。
この高さ特有の強風も、鳥の鳴き声もない。
まるで世界が息を潜めているような、嫌な静寂だけがあった。
ピシッ……。
梅雨の合間の青空に、『ひび』が入ったのは、正午ちょうどだった。
新宿という大都会でありながら、最初に気づいたのは新宿南口のカラスだった。
それは偶然でも、比喩でもない。
カラスは一度だけ鳴き、一瞬だけ空を避けるように羽ばたいた。
ピシピシッ……。
次に気づいたのは、寝転んでいたホームレスだった。
新宿駅西口の高架下。
段ボールを敷いたその男は、空を見ていなかった。
正確には、朝から酒を飲んで、まどろんでいた。
だから彼は、わずらわしい音と認識した。
ピシッ、ピシピシッ!
だが、周囲の空気が変わった。
通行人の足が止まる。
スマホを掲げたまま固まる者がいる。
誰も声を出さないのに、ざわつきだけが増えていく。
男はようやく、重い体を起こした。
そして見た。
空に『ひび』が入っていた。
最初は一本。
次に三本。
気づけば無数。
それは『ひび』というより、空そのものが『割れ始めた状態』だった。
「……は?」
声が漏れたのは、自分でも驚くほど自然だった。
******
午後一時十三分。
気象庁は緊急会見を開いた。
『梅雨前線によるプラズマ視覚化現象』と発表したが、誰も信じなかった。
記者会見場には、異様な静けさがあった。
フラッシュは焚かれているのに、誰も質問を発しない。
「……では、これは安全な現象なのでしょうか?」
ようやく飛んだその質問に、担当官は一瞬だけ言葉を失った。
安全かどうか。
その定義すら、分からなかった。
「現時点では、危険性は確認されておりません」
原稿通りの回答。
だが、その言葉を発した直後、会見場のスクリーンに映るライブ映像の空に『亀裂』が走った。
ビシッ!
そこから、『亀裂』が全方位に広がってゆく。
ビシビシビシビシビシッ!
記者席の一人が小さく呟いた。
「これ、プラズマじゃないだろ……」
誰も否定しなかった。
否定する余裕がなかった。
******
午後一時二十一分。
SNSでは既に関連投稿が数千万件を突破。
『空が割れた!』
『世界終了のお知らせ』
『人類は滅亡する!』
『な、なんだってぇっ!?』
そんな言葉が飛び交う。
『加工だろ』
『全米が大興奮! 君も終末を見届けろ!』
『終末系ユーチューバー、今が稼ぎ時』
『会社に行かなくていい?』
『終末……。つまり、明日は土日!』
『今日、火曜日だぞ』
『空気読め』
『えっ!? 空気嫁っ!?』
『はい、>>812は無視してください』
『解散』
人類は案外しぶとかった。
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午後一時三十四分。
『亀裂』は東京だけではなく、大阪、札幌、福岡、那覇。
そして海外でも観測され始める。
ニューヨーク。
ロンドン。
パリ。
シドニー。
地球全体の空に、『亀裂』が広がっていた。
もはや逃げ場はない。
それは地域災害ではなく、世界規模の現象だった。
******
午後一時三十七分。
空の裂け目の奥で、何かが蠢き、地球を見下ろした。
誰かが息を呑む。
誰かが祈る。
誰かが泣き出す。
誰かが会社に電話した。
「すみません。今日、休んでいいですか?」
「……代役の用意は?」
上司は三秒黙った後、そう答えた。
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午後二時三十分。
空の三割が割れていた。
各国首脳は時刻を合わせて緊急会見を開く。
「何も心配はいらない。落ち着いて行動せよ」
誰もがそう口にした。
その裏で、軍が忙しなく動き始める。
迎撃システムが起動される。
戦略兵器の封印が解かれる。
しかし、何に対して備えればいいのかは誰にも分からなかった。
あらゆる宗教が必死に祈りを捧げる。
教会では神に。
寺では仏に。
神社では八百万の神々に。
それぞれが異なる言葉で祈りながら、願いは同じだった。
どうか世界をお救いください。
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午後三時五十一分。
世界は、もう止められないところまで来ていた。
海面がわずかに逆流し始めた。
ビルの窓ガラスが一斉に鳴り、風が止まる。
鳥が一羽も飛ばなくなる。
犬は吠えるのをやめた。
猫はどこかへ姿を消した。
動物たちは、人間よりも早く異常を察知していた。
空を覆う『亀裂』は、もはや青空を青空として認識できないほど広がっている。
誰もが見上げていた。
老人も。
子供も。
兵士も。
政治家も。
「……コンビニって、シャッターあるんだな」
そして、都内のあるコンビニでは、アルバイトが退勤準備をしていた。
「ゴミ出し、頼む」
「へーい」
閉店まで、あと九分。
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午後四時四十九分。
パリーンッ!
空は、完全に割れた。
空だった向こう側に、無限の闇が広がる。
人類は初めて、『終わり』を見た。
その瞬間だった。
新宿のある町中華の入口が開き、親父が出てきた。
手には一枚の貼り紙。
親父は慣れた手つきで、それを入口のガラス戸に貼る。
『冷やし中華 始めました』
墨で書かれた、やけに達筆な文字。
「へへっ……。夜には間に合ったぜ」
親父は、満足げに鼻の下をこする。
「にょほほ! 勇者よ、来てやったぞ!
お前が自慢していたヒーヤシチュカーはどこじゃ!」
世界にロリ声が響いた。
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午後五時三十分。
「にょほほ! こりゃ、美味いの!」
新宿のある町中華で、ゴスロリ少女が冷やし中華を一心不乱にすすっていた。
「ほら、魔王ちゃん。こぼしてるわ」
「ぬぬっ!? すまぬ!」
都庁の屋上にいた女子高生が、ゴスロリ少女の口元を拭く。
「親父さん、ギョーザ一枚追加ね」
「あいよ!」
そして、都庁の屋上にいたもう一人の青年は、ビールジョッキを傾けていた。
『終末現象と思われるものは、現在停止しています。原因は不明です』
店の隅のテレビでは、何やら偉い人が汗を拭いながら会見を開いている。
だが、この店では関係なかった。
「にょほほ! 追加じゃ!」
「もう三杯目よ。まだ食べるの?」
「当然じゃ!」
「あっ、ザーサイもお願い」
「お前は、酒が飲めるようになっても、ザーサイだけは子どもの頃から変わんねーな」
親父は満足げに頷き、新しい冷やし中華を作り始める。
店の外では、夕暮れの風が暖簾を揺らしていた。
夏が、始まる……。




