番外編 私には姉がいた 上
ヴィオレットは下級貴族の令嬢である。大きな屋敷に住んでいて、食べるものは沢山あって、クローゼットいっぱいにドレスがかかっている。お庭は広くていつも綺麗で、沢山のメイドや執事がいた。家のことは詳しくは教えてくれないけれど、年頃になったら跡継ぎとして勉強させるから、と言われて、勉強も礼儀作法も頑張って身につけていたのだ。執務に追われて忙しいけれどヴィオレットを沢山甘やかしてくれる父。家を切り盛りし、父を支える優しい母。
――それが正しい家族の形であると、誰に言われずとも信じていた。
その幻想が崩れ去ったのは、ヴィオレットが9歳になった時だった。
部屋で勉強していると、何やら騒がしい声が聞こえた。暫く留守にしていた父が帰ってきたのだと侍女から聞き、ヴィオレットは嬉しくなって部屋を飛び出した。父母は玄関ホールにいた。父が微笑みながら跪いて母に何かを渡している。母は涙ぐんでいるようだった。よく分からないけれど、周囲の雰囲気を見る限り、悪いことではなさそうだ。ともあれ帰ってきた父に甘やかしてもらおうと急いで階段を下ろうとしたヴィオレットは、思わぬ言葉を聞いて足を止めた。
「――これでようやく君を妻にできる」
一瞬、意味が分からなかった。ようやく、妻にできるというのは、どういうことだろう。それではまるで、今まで母が妻でなかったような物言いではないか。
「いいの......? 奥さまは、お亡くなりになったばかりなんじゃ」
「1年は待ってもらわなければならないが。それでも、君に公爵夫人の座をあげられるんだ。そうすれば、どこに行くのも一緒だ」
「ユス様.......! 嬉しい」
ヴィオレットは混乱した。両親のやりとりが、全く理解できなかった。
奥さまというのは誰だ。公爵夫人とはどういうことだ。父は公爵なのか。奥さまが死んで、それで母が父の妻になるというのなら、それはつまり、
「――あぁ、ヴィオレット。そこにいたんだな」
「ぁ.......おとう、さま。お帰りなさい」
ただいま、と言って父は晴れやかな笑みを浮かべた。
「いい知らせがあるんだ。1年したら、もっと広いお屋敷に移れるよ」
「そう、なの?」
「あぁ――実はね、お父様は公爵なんだ。ザイツェフェルト公爵。名前は覚えているかな?」
ヴィオレットは目を見開いた。ザイツェフェルト家は古くから続く名家だ。王太子妃もその家の出身で、貴族名鑑にも初めに載っている。そしてそう――そこには、妻と子供の名前も記載されていた。
ヴィオレットでも母でもない、妻子の名前が。
「公爵令嬢になるから、勉強は大変だが――大丈夫だね?」
ヴィオレットは頷くこともできず、その場から身を翻した。両親の声が聞こえたが、振り返る気には到底なれなかった。
「はあっ......はあっ......」
走って部屋に戻り、ヴィオレットは貴族名鑑を開いた。ザイツェフェルト――あった。
当主嫡子 ユスタフ・ブラオ・ザイツェフェルト(29)
妻 dディアーナ・ザイツェフェルト(29)
娘 ベルローズ・ヘルブラウ・ザイツェフェルト(10)
記憶に間違いなどなかった。
ヴィオレットは震える手で貴族名鑑を閉じた。
吐き気がこみ上げてきた。娘の欄に記載されている少女は、ヴィオレットとひとつしか年が違わない。つまり、正妻の妊娠中に父は母に手を出し、子を産ませたのだ。そして妻子共々放置している。だって、ヴィオレットは父がいないことを寂しく思った日が、数えられるくらいしかない。逆に言えば、ずっと父は家に帰っていないのだ。妻と娘が待っている家に。母はそれを知っていながら、父を家に留めていた。そして今、父は妻が亡くなったからと母に求婚し、母はそれを喜んで受け入れた――
「うえっ......」
ヴィオレットは堪らず嘔吐いた。
1年というのは、妻子の喪に服す期間だ。つまり、父の妻は亡くなったばかりなのだ。だというのに、両親はその死を悼むどころか、ようやく夫婦になれると喜んでいる。
理解できなかった。人の死を喜び笑う姿は、とてもではないが直視できるものではなかった。
そして何より、自分はそんな両親の血を引いているということが—―嫌で嫌で仕方なかった。
その日から、ヴィオレットは出来るだけ部屋から出ないようにした。父と母と顔を合わせたくなかった。両親は何故なのか理解できていないようだが、その理解のなさこそが、ヴィオレットがふたりを嫌う理由であった。
公爵令嬢になるということで、覚えるべきことが更に増えた。ヴィオレットは勉強に没頭し、周囲のことを忘れるようにした。
1年は、瞬く間に過ぎた。
喪が明けて早々に、父はヴィオレットと母を連れて公爵邸に移った。これまでの家が納屋に思えるほど、公爵邸は広く豪華だった。執事やメイドの数も段違いで、公爵家という地位を改めて思い知らされた。用意された部屋も、これまでの部屋の何倍も広く、ドレスも沢山置いてあった。
「あの......」
屋敷を見て回り部屋に戻ったところで、ヴィオレットは気になっていたことを侍女に尋ねた。
「なんでしょうか、お嬢様」
「お嬢様は、どこにいるの?」
「は?」
「ベルローズ様......その、もしもお嬢様が私を視界に入れたくないとお考えなら、離れた部屋の方がいいだろうし......」
年嵩の侍女は瞠目した。
「......ベルローズお嬢様は、屋敷の2階、北の隅のお部屋にいらっしゃいます。ご用事がなければ、部屋からお出になりません。お食事も、部屋で召しあがられています」
「そ、そうなの......ご挨拶したいけれど、やはり、お嫌かしら」
これに対し、侍女は暫し沈黙した。怪訝に思ってヴィオレットが侍女を見つめると、侍女は困ったように眉根を寄せる。
「......正直なところ、ベルローズお嬢様が何をお考えなのか、わたくし共には分かりません。旦那さまの使いからリラ奥さまとヴィオレットお嬢様を迎えるとお聞きになったときも、ああそう、としか仰いませんでした」
この返事にヴィオレットは驚いた。何かしら拒否反応を示されているとばかり思っていた。
「......嫌がられたり、泣いたりとかは」
「ございません」
「で、でも、お嬢様からしたら、私もお母様も、憎むべき存在で」
「いいえ、違います」
否定の言葉は明瞭だった。
「お嬢様は旦那様をお父様とお呼びしたことがございません。そもそも、好きや嫌いといった感情をお見せになったことがなく、泣いたり笑ったりしたところも、見たことがございません――幼い時からです」
「う......嘘でしょう?」
思わず声が裏返った。
「奥さまがお亡くなりになった時も......?」
「はい。その、奥さまも、愛人を囲っておいでで、お嬢様のことを構っておられませんでしたので......」
「で、でも、素晴らしい方だと聞いたわ。まだ11歳なのに、色々と発明をしていて、魔法院にも出入りされていると」
「事実でございます」
「.....なのに、笑ったり泣いたりしないの?」
「はい――恐らく、ですが」
侍女は目を伏せた。
「ベルローズお嬢様は、すべてがどうでもいいのだと思います」
その侍女が生まれた時からベルローズに仕えていて、父の嫌がらせでヴィオレットに配属されたと知るのは、まだ先のことであった。
「――まあ、ヴィオレットちゃん! 初めまして。ずっとあなたに会いたいと思っていたのよ」
父が母と結婚してすぐに、ヴィオレットは王宮に参内した。王太子妃は父の妹であり、母の古い友人であるという。赤い髪に父と同じ金色の瞳をした美しい人だ。
「お兄様ったら、いつもヴィオちゃんとリラの惚気をしていたのよ。アークも......陛下もうんざりするくらいだったんだから。でも、お兄様が惚気ばかりするのも分かるわね。とっても可愛いもの!」
満面の笑みを浮かべる王太子妃は、多分悪意などないのだろう。だが、ヴィオレットからしてみれば、なぜ兄の浮気をそうも喜べるのかてんで分からず、返答に困った。結局愛想笑いと社交辞令で誤魔化して、王太子妃との面会は終わった。
「そうだわ! 年も近いし、オスカーと話してみない? きっとオスカーもヴィオちゃんを気に入るわ」
「そんな、恐れ多いことです」
「いいのいいの。ねえ、オスカーを呼んできてくれない?」
「畏まりました」
驚くべきことに、王太孫のオスカーと話す機会を得た。両親と王太子妃が奥の部屋で話し始めたのと入れ替わりに、王太孫がやってきた。
「あぁ、君がヴィオレット嬢だね。初めまして、王太孫オスカーだ」
「お初お目にかかります。ザイツェフェルト公爵の孫、ヴィオレットと申します。クラルヴァイン王国の若き太陽に栄光あれ」
「そう畏まらないでくれ。母上から話は聞いているよ。可愛らしい姪がいるって」
王太孫は親しみやすい人柄だ。誰にでも笑顔で接し、ひとつ年下だが、まるで太陽のような存在感があった。
「――殿下」
「なんだい?」
「殿下は、私の存在をお聞きになった時、私の父に対して何も思わなかったのですか?」
王太孫は少し困った顔になった。
「うーん、実を言うと、小公爵が話す家族は君と君の母上のことばかりだったから、特には何も。ベルローズ嬢と夫人が哀れとは思うが、夫人は夫人で愛人を囲っていたようだしね。それに......君の姉上であるベルローズ嬢が、僕は少し苦手なんだ」
「え?」
「以前、婚約話が持ち上がったのだけどね。ベルローズ嬢は僕に、というより何にも興味がないみたいで、人形と話しているみたいに思えてしまって。一度しか会っていないのにすぐ決めつけたのは、子供の愚かさだとは思うんだけども」
ヴィオレットは息を飲んだ。侍女と同じような発言だったためだ。
「そう、なのですね」
「勿論、だからといって前夫人が懐妊中に他の女人に手を出したのはどうかと思うが......恋は人を狂わせるというからね」
「そうですね......」
王太孫は屈託ない笑みを浮かべた。
「従姉弟だから、多分婚約が結ばれることはないだろう。友人になれたら嬉しく思うよ」
「ありがたいお言葉です」
一度しか会っていない姉を人形と評する王太孫と、もっと話をしてみたいと思った。そして、まず、自分が姉と会いたい、とも。
異母姉との邂逅は、思いの外早く訪れた。昼餉を食べるための部屋の前を、たまたま異母姉が通りかかったのである。
肖像画で見ていたよりもずっと、異母姉は美しい人だった。雪のように白い肌、腰まで伸ばされた艶やかな水色の髪、吊り目がちな金色の瞳、桜桃のように淡い紅色の唇。水の妖精と言われても信じられそうなほど、神秘的で儚げな雰囲気の令嬢だった。
「ベルローズ。いたのか」
父の声は、今まで聞いたことがないほど冷ややかだった。これに返答する姉も、淑女の鑑のような美しい礼をしたが、その顔には何の表情も浮かばない。
「はい。閣下におかれましてはご機嫌麗しく」
「ちょうどいい、挨拶しなさい。今日からお前の母になるリラだ」
「は、初めまして、わたし、リラといいます!」
「初めまして。ベルローズと申します」
「ベルローズさん、よろしくね。わたしをほんとうのお母さんだと思ってくれたら嬉しいわ」
何を無茶な、と思わず口走りそうになった。彼女から父を奪ったのは母とヴィオレットなのだ。どの面下げてほんとうの母だと思えなどと言えるのだろう。
「こっちは娘のヴィオレット。仲良くしてあげてください」
「初めまして、ベルローズ様。ヴィオレットと申します」
仲良くなんてとんでもないことを、と言いたいのを堪えてヴィオレットは深く頭を下げた。姉からの返事はなく、顔を上げた時に興味深そうな視線が向けられたばかりだった。
「先に申し上げておきますと、わたくし、一度も公爵閣下を父と思ったことはございません。ですので屋敷ではこれまで通りお過ごしください。わたくしはいないものとして扱っていただければ結構でございます」
ベルローズは微笑みながら言った。けれどその笑みは愛想笑いだと一目瞭然の笑みだった。
「それでは失礼いたします」
父は不機嫌そうに、母は呆気に取られたような表情だったけれど、さもありなん、と言う他ない。
玄関ホールに向かう姉を、ヴィオレットは何も言わず見送った。




