プロローグ
喫茶店にはコーヒーの香りと、ジャズピアノが流れていた。ヨーロッパのお洒落なカフェのような造りで、平日の午後でも多くの客が来店していた。
外にあるテラス席で、一馬芳雄は飲んだコーヒーカップを置き、向かいにいる相手を見て言った。
「もうあれから10年ですか……」
「10年経とうとも、わたしにとっては昨日の事のようです」向かいの席に車イスで来ていた常澄明夫が、右手で膝を擦った。「あの事件でわたしは貴子と、この足をなくした」
「婚約者を亡くした辛さは計り知れない。だからこそ、常澄さんが行っている活動は大変、すばらしいことだとわたしは思います」芳雄は大変という言葉を強調した。
「そう言っていただけて嬉しいです。一馬さんのご支援があってこそです。今後ともよろしくお願いします」
2人は固い握手を交わした。
常澄明夫は、わたしが呼びだしたのだから、と言って料金を支払った。
別れると、芳雄は歩き始めた。
横断歩道を2つ渡った先に彼の宿泊するホテルがあった。陽が落ちて、ビルの隙間から心地よい涼しい風が芳雄を包み込む。
ホテルは、地上20階建てで、地下3階建ての都内でも屈指の高級ホテルだ。中に入ると、赤い絨毯がしかれ、天井に大きな複数のシャンデリア、ロビーには花瓶に色鮮やかなバラが生けてある。
芳雄がエレベーターの方へ歩くと、ロビーから待ち受けていたかのように1人の線の細い体の男性が近づいてきた。服に清潔感はない。
「記者をしているものです。少しだけお時間よろしいですか?」
「待ち伏せか。いただけないな」
「失礼であることは承知しています」
芳雄はその場で立ち止まった。
「記者に話すことなどない。君はどこの記者だ?苦情の連絡を入れる」
次の瞬間、芳雄に付きまとうように歩いていた男性記者が芳雄の懐に入る勢いで、胸ぐらを掴んだ。芳雄は動じなかった。
「知ってんだぞ。10年前のあの事件、アンタが……」
「警備員」芳雄が大声を出した。「助けてくれないか」
近くにいた2名の警備員が、男性記者を取り押さえた。
「お客様、お怪我は?」総支配人が芳雄のもとに慌ててやってきた。
「大丈夫だ」芳雄は答えた後、男性記者に視線を移した。「急いでいるんだ、失礼するよ」
大男2人に取り押さえられた男性記者は為す術なく、エントランスの方まで連れていかれた。掴まれながらも男性はホテル内に響き渡るように言った。
「この人殺し」
男性記者は警備員の腕をほどき、ホテルを後にした。
芳雄はその声を聞くことなく、エレベーターの箱の中へ入っていった。
数時間後、一馬芳雄は、鍵が閉められた密室で多くの謎を残し死亡することになる。