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その日は意外と早くにやってきた。
──テオドール様との話し合いの日だ。
もう少し時間が掛かると思っていた彼の自宅謹慎だが、これ以上長くなると我が家との話し合いや色々な手続きなどに支障が出るという事で、侯爵様は渋々謹慎を解いたらしい。学園への復帰の前にまずは我が家との話し合いを、と急いで手紙を出したそうだ。
その結果、話し合いは我が家で行われる事となった。私はお父様と一緒に応接室のソファーで彼らの到着を待っている。
……覚悟していたとはいえ、気分はやはり落ち着かない。緊張、恐怖、不安。それに、会える事に対する少しの喜び。色々な感情がごちゃ混ぜになって、心の中は嵐のように荒れている。
どんな顔をして会えばいいのか、何を話せばいいのか、何を話していいのか……正直に言ってまとまっていない。
だけど、お父様もお母様も「どんな選択をしても構わない。我々はシャロンの味方だ」「大事なのはシャロンの気持ちだから。他の事は考えなくていいのよ」と私の気持ちを慮ってくれた。
コンコン、とノックの音が響く。
「ラルストン侯爵家の皆様をお連れいたしました」
淡々とした執事の声に、私はドレスの裾をギュッと握った。
「……ああ。入ってくれ」
お父様の声を合図に、正装姿のラルストン侯爵とテオドール様が入ってきた。一ヶ月ぶりに見た彼は相変わらず美しいが、少し……いや、だいぶやつれただろうか。頬もこけているし、顔色もすこぶる悪い。
私と目が合うと、アイスブルーの瞳がゆらりと揺れた。それを見て、私は何故か泣きそうになった。二人が向かいの席に座る。
「……まずは、こたびの件の謝罪を。愚息が大変申し訳なかった」
お茶の用意を終えた使用人が出て行くと、侯爵はすぐに頭を下げて謝罪を口にした。次いで、テオドール様が頭を下げる。
「私が至らぬせいでこのような事態となってしまい、大変申し訳ございませんでした。そして、話し合いの場を設けていただけた事、深く感謝いたします」
「いや……テオドール君も色々と大変だっただろう。娘にした仕打ちは許し難いが、殿下の命令や魔法が関わっていたのだから少しばかり同情の余地はある」
「……申し訳ございません」
格上の侯爵家の方にこんな物言い大丈夫なのかしらと心配になるが、目の前のお二人は怒るどころかますます申し訳なさそうな表情で項垂れている。
「ある程度のご説明はされているでしょうが、今回の件は魅了魔法によるものだった。情けない事に愚息は魔女に洗脳されていたのだ」
侯爵ははぁ、と溜息をついた。
「操られていたとはいえ、愚息の行動の数々は騎士としてふさわしくない。魔法をかけられる隙を見せたことも、殿下を止められなかった事も含めてな。表向きは良いように発表されているが、各家からは内々で本人に処罰が与えられている。ラルストン家では自宅謹慎処分に加え、卒業後予定していた騎士団への推薦の取消し。それに伴い、王太子殿下の側近候補の件も辞退した」
私は驚きのあまりヒュと息を呑んだ。だ、だって、テオドール様はその実力から卒業後すぐ騎士団に配属され、王太子殿下の側近として護衛騎士になることが決まっていた。それが全てなくなるなんて……。
「これで許してくれなどと言うつもりはもちろんないが、せめてもの償いとさせてほしい」
膝の上で握られた侯爵の拳が震えている。騎士として正義感が強く、曲がった事が大嫌いなラルストン侯爵の事だ。今回の件に対して複雑な思いがあるのだろう。だけど、だからこそ。ケジメとして愛する息子に処罰を下したに違いない。
「二人の婚約についてなのですが……我が家としてはシャロン嬢並びにメイフィールド伯爵家の意見を尊重したいと思っております」
「ありがとうございます。我が家ではシャロンの気持ちを一番に考えておりますので……」
「……あの!」
テオドール様の焦ったような声が響く。
「その件について、まずはシャロンと二人で話す事は可能でしょうか」
「それは……」
お父様が心配そうに私の様子を伺う。私はふぅ、と一つ息を吐くと、口を開いた。
「お父様…………私は構いませんわ」
「大丈夫か? 無理はしなくていいんだぞ?」
「ええ、大丈夫です」
私の言葉を聞いて、お父様は小さく頷く。
「……では、私たちは別室に移動するよ。扉の前には執事を立たせておくから、何かあったらすぐに呼びなさい」
そう言って立ち上がると、お父様と侯爵様は部屋を出て行った。もちろん、扉は少し開けてある。
二人がいなくなった室内は水を打ったような静けさだ。空気がピリピリしていて、居心地も悪い。
「……体調は大丈夫ですの?」
「あ……ああ。問題ない」
再び沈黙が流れる。……会話がまったく続かない。あまりの気まずさに、私はカップの紅茶を一口飲んだ。……うん、極度の緊張のせいで味がしないわ。
「…………シャロン」
テオドール様の低い声が、私の名前を呼んだ。
「今までの事……本当に……本当に申し訳なかった。心から謝罪する。全ては魅了なんかにかかってしまった私の弱さが原因だ」
深く礼をしたテオドール様の銀髪がサラリと揺れる。
「言い訳になってしまうが……私は殿下の指示で監視のためにあの魔女と一緒に居たんだ。あの魔女が入学してから彼女を盲目的に崇拝する令息が現れたり、教師の様子がおかしくなったりと不可解な出来事が多かったから。大体、編入生とはいえ王太子殿下にただの男爵令嬢の世話を任せるなんて異常だろう? 初めの頃は普通に接していたんだが、これらの件に彼女が何らかの形で関わっているんじゃないかと怪しんだ殿下が秘密裏に調査を始めたんだ」
私は静かに彼の話を聞いていた。
「基本四人で行動していたが、殿下が不在の時は私やビリーが魔女と行動を共にし、彼女の様子を殿下に伝えていた。もちろん適切な距離を保っていたし、必要以上の接触はしていない。だが、そのうちビリーが何故か魔女に夢中になり始めたんだ。婚約者を好いていたはずのビリーの変化を不審に思って警戒を強めていたんだが……ある日、魔女に言われた。〝婚約者と仲良くなれる方法を教えてあげる〟と。私は表情がないせいで人から怖がられるし、ただでさえ上手く話が出来ないのに可愛すぎるシャロンを前にすると緊張してしまい、ますます無口になってしまうから……シャロンに嫌われてしまったらどうしようとずっと悩んでいたんだ。だから、そこに付け込まれてしまった」
テオドール様の拳がギリリ、と音を立てた。
「〝仲を深めるのは簡単よ。わたしのことを婚約者だと思って接すればいいの。まずはほら、わたしの目をじっと見つめて甘い言葉を囁いてみて?〟などと戯言を言われて。何をバカな事を、私はシャロン以外の女性と親密になる気はまったくないとハッキリ断ったんだが……おそらくその時に魅了魔法をかけられていたんだろう。暫くすると時々……魔女がシャロンの姿に見えてくる時があって。初めのうちは魔女はシャロンじゃない、違う、しっかりしろと抵抗出来ていた」
その話を聞いて、確かに最初の頃は言動がおかしかったわと思い当たった。マチルダ様と約束があると言いながら私の元を離れようとしなかったり、お詫びの気持ちなのかは分からないけどプレゼントがたくさん贈られてきたり……つまり、あれは魅了に抗っていたという事?
「だが、魔女の近くに居すぎたせいか……時間が経つにつれ魔女をシャロンだと思い込むようになってしまった。そしてあろう事か、この世で一番大切な婚約者であるシャロンの事を〝私に付き纏ってくる令嬢〟だと思い込まされたんだ」
テオドール様は後悔を滲ませた声で続ける。
「本当に申し訳ない。魅了が解けてから……ずっと後悔していた。君に対しての言動一つ一つに対して、ずっと。あれは私の意思で行ったものではないけれど……君を傷付けてしまった事は事実だから」
「……テオドール……様」
「しかし、私は魅了魔法をかけられている間もあの魔女に心を奪われた事など一切ない。私が好きなのは今も昔もシャロン・メイフィールド嬢、君だけだ。それだけは信じて欲しい」
……………………はい?
パチパチと瞬きを繰り返す。……私、耳がおかしくなったのかしら。……好き? 今も昔も? テオドール様が? 私を!? というか、さっきから可愛いとかこの世で一番大切だとか、にわかには信じ難い言葉が聞こえてきたんですけど一体どういう事ですの!? 慌てる私を見て、テオドール様は眉尻を下げた。
「君はこの婚約は政略で結ばれたのだと思っているだろうが、実際はまったく違う」
「え?」
「私がシャロンに一目惚れして、うちの両親と君のご両親に頼み込んでようやく結ばれた婚約なんだ。つまり、この婚約は私の希望と我儘の結果だ」
衝撃を受けすぎて上手く頭が回らない。というか、とてもじゃないが信じられない。
「…………う、嘘」
「本当だ」
「だ、だって。そんな素振り全然……」
思わず言葉をこぼすと、テオドール様は悲しげに言った。
「……私は本当に不器用なんだ。君ともっと話をしたくても上手く言葉が出てこないし、心ではたくさん思っているのに君を褒める事も出来ない。自分の気持ちも素直に言えないし、軽い笑顔さえも浮かべられない。だが、私はシャロンと婚約出来てとても嬉しかった。これ以上ないほどの幸せだと、毎日天にも昇る気持ちだったんだ」
目の前の彼は本当にテオドール様なのかしら? 今まで彼がこんなに話しているのを見た事がない。し、しかもこの婚約は私に一目惚れして結ばれた婚約だったなんて……全然知らなかったし、信じられない。
「だから私は君と……シャロンと婚約破棄なんてしたくない」
アイスブルーの瞳が真っ直ぐ私を捕らえる。
「私が望みを言える立場ではないのは重々承知しているが……これが私の正直な気持ちだ」
私は少しばかり間を置いた後、小さく口を開いた。
「……いくら魅了されていたとはいえ、半年間貴方にされていた仕打ちはすべて事実なのです」
「……っ! ……わかっている。私がした事は最低な事だ。本当に申し訳ない」
「私は貴方の言葉に、行動に……とても傷付いていました。このままでいいのかと、ずっと悩んでいました」
テオドール様の事は……正直に言って今でも好きだ。だけど、私に向ける冷たい目、クッキーを断られた時の事、学院で仲睦まじく寄り添う二人の姿、他の女性に向けたあの笑顔が頭から離れない。当時の気持ちが蘇ってきて、私の双眸からは涙が溢れてきた。
「シ、シャロン!?」
ガタン、と大きな音がして、気が付けば慌てた様子のテオドール様がそばにいた。
「どうか、どうか泣かないでくれ。私が悪かったんだ。本当に申し訳ない」
私の座るソファーの近くに跪くようにして、白いハンカチがそっと渡された。ぼんやりと霞む視界で見えた二本の剣と盾、月桂樹の歪な刺繍が施されたそのハンカチには見覚えがある。
「これ……まだ使っていて下さったのですか?」
「もちろん。初めて君から貰ったものだから、肌身離さず持ち歩いていた」
これは私が婚約した当初、初めてテオドール様に贈ったものだ。何枚も何枚も刺して一番出来の良かったものを渡したのだけれど……改めて見ると未熟さばかりが目立ってなんだか恥ずかしい。
「……他のハンカチもあるでしょうに」
私は刺繍の柄を撫でるように触る。プレゼントしたハンカチは他にもあるはずなのに、こんなものを持ち歩いているなんて……。今は少なくともこの頃よりはマシな出来栄えのはずだわ。
「シャロン」
顔を上げると、テオドール様は真剣な眼差しで私を見ていた。
「……私にもう一度だけチャンスをくれないだろうか」
「え?」
「図々しいお願いだとは百も承知だが……シャロンの気持ちを、信頼を取り戻すためにチャンスが欲しい。二ヶ月……いや、一ヶ月でもいい。私との交流を続けてくれないか? これからの私の言動を見て、婚約を続けるか破棄するかを決めてほしいんだ」
動揺を隠すように彼から目を逸らした。私は一つ息を吐く。
「正直に言って今は戸惑いの気持ちが大きいです。この半年の様子から、私は貴方に婚約を破棄されるのだと思っていましたから」
「違う! 婚約破棄など絶対にしない!! あれは私の意思ではなかったんだ……すまない」
「頭では理解しております。でも、心がついていかないのです」
ハンカチをぎゅっと握り締めると、布にシワが寄った。
「苦しめてしまってすまない。だが、私はどうしてもシャロンを諦めきれないんだ。どうかお願いだ」
今日だけで何度彼のつむじを見ただろう。私は躊躇いながらも口を開いた。
「……少し時間をください。お父様にも話してみますから」
「ああ。……突然すまなかった。……シャロン」
「なんでしょう」
「こんな私と話す機会をくれて本当にありがとう」
「……いえ」
その後、執事に呼び戻してもらったお父様たちと話し合いが続けられ、後日、改めてこちらから返事をするという事でまとまった。