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ネット民は全員陽キャである

 「陽キャ」「陰キャ」というネットスラングをご存じだろうか。知っている人も多いだろうが、一応説明しておくと、陽キャ(陽気なキャラクターの略)は性格が明るい人、陰キャ(陰気なキャラクターの略)は性格が暗い人、という意味である。別の言葉で表すとすれば、「根明」「根暗」という言葉が当てはまるだろう。


 さて、私はネット民が全員陽キャであると考えている。ここでは「ネット民」という言葉を「リアルでのコミュニケーション(職場における事務的な会話を除く)以上に、SNSやネット掲示板を利用したコミュニケーションを頻繁に行っている者」と定義づけることにする。ただ単に「ネットを頻繁に利用する人」という意味では使わないので注意してほしい。


 また、「陽キャ」という言葉にも定義づけが必要だろう。なぜなら「性格が明るい人」に客観的な基準がないからだ。「性格が明るい人」の特徴は「よく笑う人」「おしゃべりが好きな人」「ポジティブシンキングが得意な人」など、様々に挙げられるが、ここでは「コミュニケーションを好む人」と定義づけることにする。したがって、「陰キャ」は反対に「コミュニケーションを好まない人」となる。


 さて、私の「ネット民陽キャ論」を聞いた人は、こう反論したくなるのではないだろうか。「ネット民が陽キャなわけないだろう。もし陽キャなら、リアルでのコミュニケーションをもっと大事にするはずだ。どうしてネットでどこの馬の骨とも知れない連中とばかりコミュニケーションを取るのだ」と。


 そのような意見を持つ人は、ネット民を陽キャではなく、陰キャだと思っているということになる。しかし、ちょっと待ってほしい。もし陰キャであるならば、ネットの世界であろうとも、コミュニケーションを取りたがらないはずなのだ。したがって、ネットでコミュニケーションを取りたいと思っている時点で、その人は陽キャだということになる。


 では、一般的に思われている陽キャのイメージ、すなわち「リア充(リアルの生活が充実している人)」に当てはまる人と、ネット民が同じかといえばそうではない。両者の間には決定的な違いがある。それはコミュニケーション能力の有無である。リア充はコミュニケーション能力があり、ネット民にはない。つまり、ネット民は《コミュニケーション能力がない陽キャ》なのである。


 だから、彼らは「陰キャ」という言葉を、相手を罵倒するためによく使用する。もし私のような陰キャが他者から「陰キャ」と言われても、「そうですが、何か?」となるだけだ。彼らが陰キャと呼ばれたくないのは、自分を陽キャだと思っているからであり、事実そうなのだ。しかし、世間一般に思われている陽キャと違って、コミュニケーション能力が伴っていない。だからリアルでは誰からも相手にされず、ネット掲示板やSNSに逃げこむのである。


 もしこれが陰キャであれば、リアルで誰からも相手にされずとも、コミュニケーションを取りたいという欲求が湧かないので、ネットに逃げ込むこともしない。


 さて、ではネット民はネットに逃げ込むことによって満足するのだろうか。答えは否だ。リアルでまともなコミュニケーションを取れない人間が、ネットだからといってまともになれるわけがないからだ。ここから先は、コミュニケーション能力がない陽キャが、ネット民になることによって生じる問題について論じていく。


 もし、ネットで交わされるコミュニケーションの数々が、リアルのそれと同等に質が高いものであれば、ネット民がネットで満足するのも問題ない。しかし、現実はそうではない。なぜならネットに集まる人々は、コミュニケーション能力がないネット民ばかりだからだ。そうなれば当然、リアルに比べて質が低いコミュニケーションしか見られなくなっていく。


 では、質が高いコミュニケーションと低いコミュニケーションとは、いったいどんなものだろうか。質が高いコミュニケーションとは、互いが楽しくなるコミュニケーションのことだ。互いを賞賛して喜びあったり、共通点を探して仲間意識を強めたり、自虐を言って親近感を高めたりする行為のことだ。


 一方で質の低いコミュニケーションとは、互いに心理的損失を与え合うコミュニケーションのことである。相手を罵倒したり、相手の興味などお構いなしに一方的な長話をしたり(今の私もそうかもしれない)、自慢話をして相手にマウントを取ったりする行為のことだ(マウントとは相手より自分が優位であることを誇示し、見下す行為のこと)。


 言うまでもないことだが、コミュニケーション能力がある人は質の高いコミュニケーションを取ろうとし、質の低いコミュニケーションを取ろうとしない。コミュニケーション能力がない人はその反対だ。


 ネットで行われる質の低いコミュニケーションの例を挙げよう。「ggrks」というネットスラングがある。これは「ググレカス」のイニシャルで、一昔前にネット掲示板でよく使われていた言葉だ。意味は「(他人に質問しないで)グーグルで検索して自分で調べろ、カス野郎」というものである。わざわざネット掲示板で質問するよりも、グーグルで検索した方が早いからそうしろ、という発言者の意図が読み取れる。


 これは正しい発言だろうか。私は大間違いだと思う。理由は二つある。一つは相手を「カス」と罵倒しているからだ。これは先ほど述べた質が低いコミュニケーションの定義に当てはまる。


 しかし、それだけではない。二つ目の理由はコミュニケーションの本質が分かっていないからだ。ネット民はそもそも何のためにネット掲示板に集まってきているのだろうか。それはコミュニケーションを取るためだ。情報収集のためではない。もし情報収集のためであれば、わざわざ掲示板などには来ず、それこそすぐにグーグルで検索して調べているだろう。つまり目的はコミュニケーションそのものにあり、質問者は「質問する→回答を受ける→感謝する」という会話のキャッチボールをしたいだけなのだ。


 しかし、コミュニケーション能力がないネット民にそのようなことは分からない。よって「ggrks」とちぐはぐな返答をしてしまうのだ。「会話を楽しみたい」という「目的としてのコミュニケーション」と、「情報収集」という「手段としてのコミュニケーション」を混同している結果である。


 「目的としてのコミュニケーション」は陽キャが好み、陰キャが嫌う行動だ。コミュニケーションそのものを楽しむことを目的とし、それ以外の目的はない。だから、陽キャはよく何の生産性もない雑談を好んでするのである。そして、コミュニケーションに興味がない陰キャは、そのような行動を取らないし、理解もできない。


 一方で、「手段としてのコミュニケーション」は陽キャと陰キャの両方がよく行うコミュニケーションだ。コミュニケーションを目的達成のための手段として利用する。例えば店員に商品の場所を尋ねる、仕事の情報伝達をする、などといったコミュニケーションである。こちらは前者と違って楽しさを求めていない、打算的なコミュニケーションといえる。


 さて、「ggrks」というネットスラングは、質問者が「目的としてのコミュニケーション」を取りたいにも拘らず、相手がその意図をくみ取れず、「手段としてのコミュニケーション」と勘違いすることによって使われる言葉だ。ネット民はよく陰キャを馬鹿にするが、知らず知らずのうちに自分が「手段としてのコミュニケーションしか取ろうとしない」という陰キャ的思考に陥っていることに気づいていない。


 このような現象はネット民にコミュニケーション能力がないことによって引き起こされるわけだが、それだけが理由ではない。なぜなら、もしそれだけが理由であれば、「ググれ」と言うだけでよく、「カス」と罵倒を加える必要がないからだ。ここにネットの怖ろしさがある。


 なぜわざわざ「カス」と罵倒を加えるのか。それはネットが匿名の世界だからだ。「匿名だから発言に責任を持たなくて良い」という間違った認識がまかり通っているのである。また、コミュニケーション能力がないからこそ、誰かに構ってほしいが、その方法が分からず、過激な言葉で他者の興味を引きつけるという幼稚なコミュニケーション方法がよく使われる。


 これによりネットでは、ここにはとても書けないような差別用語が頻繁に使用され、またネット民達は誰かを馬鹿にするような新たなネットスラングを次々に開発するのである。


 そのような誹謗中傷の矛先が、有名人などの第三者にのみ向けられるだけでなく、ネット民同士が互いに向け合うことも多々ある。だから、ネット民はよく「レスバ」と呼ばれるコミュニケーションを取る。これは「レスポンスバトル」の略で、平たくいえば議論に見せかけた口喧嘩のことだ。両者が協力しながら真理を探究するために行う議論ではなく、揚げ足を取ったり論点をずらしたりして反論した気になり、相手を馬鹿にするといった不毛なやりとりを延々と行うのだ。


 このようなコミュニケーションばかり取って、ネット民も満足するわけがない。自分が他のネット民と一緒に誰かを馬鹿にしているときは、心地よい共感を得られるだろうし、誰かにマウントをとれば、自分の自尊心を慰めることもできるだろう。


 しかし、もし自分が馬鹿にされる側に立てば、一転して大きなストレスを抱えることになる。


 ネット民のコミュニケーション能力のなさに、匿名からくる凶暴性が加わることで、ネットの世界は言葉の刃物が飛び交う魔界のような場所と化している。そのような場所に常住すれば、コミュニケーション能力が上がらないどころか、むしろ汚い言葉遣いや差別思想を植え付けられて、その能力は低下していくことになる。馬鹿にされすぎて被害妄想を抱きやすくなり、攻撃的になるきっかけにもなるだろう。


 当然、ネットにリア充はいないから、彼らから正しいコミュニケーション方法を学ぶ機会も無い。一応、リア充もネットを利用することはあるが、その場合自分の素性を明らかにしていることが多く、匿名でのやりとりを求めるネット民とは無縁の世界だ。仮にネット民が有名人のリア充に一方的に突っかかっても、無反応であしらわれてしまう(例えばツイッターではブロックやミュートをされる)。


 ネット民はコミュニケーション能力が無いからネットに来る。しかし、そこにいても満足したコミュニケーションが取れず、それどころかコミュニケーション能力はどんどん下がり、よりリアルに適応できなくなっていく。そのストレスを解消するために、ネットに助けを求める。しかし、その助けに応じてくれるネット民はおらず、むしろ馬鹿にされる。そのストレスを解消するために誰かを誹謗中傷し、またコミュニケーション能力が下がり――。


 このような悪循環をネット民は繰り返す。そして最悪、裁判沙汰に発展する。


 これが陰キャならまだいいのだ。陰キャはコミュニケーション能力は無いが、そもそもコミュニケーションを求めてもいない。よって、プライベートが一人でも、小説を読んだり映画を観たりして余暇を過ごせば満足できる。ただし、コミュニケーションが避けられない仕事の現場においては苦労することになる。


 一方でネット民の場合は、仕事とプライベートの両方で苦労することになる。コミュニケーション能力がないので、陰キャと同様に仕事で苦労する。そしてプライベートにおいても陰キャ同様一人だが、根は陽キャなので、孤独を感じ、承認欲求を満たしたくもなる。だからネットにそれらの解決を求める。そして、前述の悪循環に囚われるのだ。


 そんなネット民にも救われる方法がある。それはネットではなく、リアルでのコミュニケーションを大切にすることだ。そうすれば悪循環を簡単に断ち切ることができる。しかし、こんな説教をネット民が受け入れるわけがない。「それができれば苦労しない」「ネットという水槽から出されても、魚は歩けない」などといった言い訳をするだけだろう。


 ただ、それは仕方の無いことだ。「頼んでいない説教をまともに受け取る人間はいない」。これはネット民に限らず、リア充にも、陽キャにも陰キャにも、誰にでも当てはまる法則だ。ところが、ネット民にもリア充にも、陽キャにも陰キャにも、この法則を心得ている人間が少ないように思える。そのことが、私にとっては不思議である。

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