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第7話 マスカス

 アグリッピーナが死んだ後、私は巨大な研究所を与えられ、ネロ様のお墨付きで大っぴらに毒の研究を行なった。

帝国全土から歪んだ情熱を持つ毒使いの卵が集まり、私の指導のもと毒の研究をおこなった。

研究の成果が最初に使われたのは、母親アグリッピーナの殺害に関わったブッルスだった。

これは、抵抗の可能性があったので、私が新作の毒によって暗殺した。

大成功だった。

未だにブッルスは病死だと思われているから、もはや後世においてもそうかもしれない。


その後のネロ様は、家臣のみならず肉親も次々と処刑あるいは自殺を命じて殺していった。

母親を殺してから、ネロ様のタガは外れてしまったのだ。

ネロ様の少年時代の師、長じてからの側近でもあるセネカも、遂にネロ様の勘気を被り、死を賜ることとなった。

セネカは私が持っていった毒杯を拒否し、風呂場で手首を切って死んだ。

セネカは死の間際に言っていた。


「前から覚悟していたことだ。ああも残忍な性格になってしまってはな。ネロ様は弟を殺し、母を殺し、妻も自殺に追い込んだ。あとは、師たる私くらいしか残っていないさ」


しかし、一連の粛清劇の最後を締め括ったのはセネカではなく、ネロ様の親友ペトロニウスだった。

ネロ様の幼馴染、長じては芸術の指南役として“典雅の審判者エレガンティアエ・アルビテール”などと呼ばれた男。


先年におきたローマ大火の後、ネロ様は放火の首謀者として噂された。

狼狽したネロ様は、怪しげな例の新興宗教、キリスト教の信者たちに罪を押し付けた。

ペトロニウスは彼らを庇うような発言をして不興を買い、遂には関係のない反逆騒ぎに連座して自死を命じられた。

ペトロニウスは、例によって私の差し出した毒杯を見て首を振った。


「生憎だが、酒は上物を揃えているのでね」


「誰も私の用意した毒酒を飲んでくれない……死刑は受け入れるのに」


しょげる私を見て、ペトロニウスは笑った。


「思い起こせば、君とも長い付き合いなのに、ご期待に沿えなくて悪かったな」


ペトロニウスは瀟洒な邸宅に友人達を集めて酒を振る舞っていた。

彼は収集した古今の見事な酒器を惜しげもなく使っていた。


「気に入ったのであれば皆さんに差し上げます。私にはもう必要のないものですから。ま、こいつだけは別ですが」


ペトロニウスは煌めく蛍石の酒器を高く掲げた。

それはネロ様がずっと欲しがっていた名器であった。

ペトロニウスはえい、とその酒器を床に叩きつけた。

ネロ様とペトロニウスとの友情と同じように、麗しい壺は無惨に砕け散った。


ペトロニウスの自殺方法もセネカと同様だったが、違うのは連れ合いのいることだった。

彼は愛人らしき解放奴隷の美少女とともに手首を切った。

友人達との別れの挨拶をしながら、時折りギリシア人医師に手首の血管を縫合させ、死の瞬間を調節していった。

私はペトロニウスに尋ねた。


「あの時、キリスト教徒を庇ったのは、あなたの甥が信者だったから?」


「いや、ネロに言ったとおりだよ。芸術のために都を焼いたのなら、そう胸を張って言えばいいのだ。彼が道化から脱皮して芸術家として永遠に名を残す最後の機会だったのに、彼は保身のためにそれを蹴って、おぞましい大虐殺を行なった。嘆かわしいことだ」


道化。

ネロ様が喜劇を演じる道化なら、私はその劇の小道具係だろう。


「君は最後までネロについていくのかい?……神々は彼を道化マッカスとしてお造りになったのに、彼は悪霊マスカスになってしまった。もう……長続きはしないよ」


「わかっているわ」


「そうか……そうだな……テュフォンにだってエキドナがいるのだから……ネロにも……君のような伴侶がいていい」


ペトロニウスの言葉は緩慢になっていった。

いよいよ血がなくなってきたと見えた。

友人達がペトロニウスに取りすがり、私は押し除けられた。


「皆さんお分かりでしょう。我々と共に滅ぶのは……」


ペトロニウスは最期にそう言って、静かに事切れた。

私には、詩だの、美だのというものはわからない。

ただ、何か大切なものが失われた、それだけはわかった。

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