番外編4 ミルクティー(side 絵梨)
その妙に艶めかしい音に釣られ、うっかり翔君を見たときだった。
彼の瞳の中で揺れるオレンジの火の美しさにアッと言う間に心囚われて行くのが分かった。
隣の部屋の玄関のドアがバタンと閉まった音にハッとして一息に蝋燭の火を吹き消した。
電気をつけようと、弾かれるように立ち上がった時だ。
「つけないで」
翔君にそう言われキュッと手首を掴まれた。
そうして翔君はそのまま私の手を引き、私を肩と肩が触れるくらい近く彼の隣に座らせた。
「よくがっかりされるんですよ」
固まる私を見て、翔君はフッと小さく笑い、思いがけない事を言い始めた。
「舞台メイクしてない状態で、明るい部屋でアルベールのファンの人に会うと」
何と?!
そんな失礼な事を言ったヤツがいるのか???
……許すまじ。
確かに翔君はアルベール程顔立ちが整っているわけではないけれど……。
アルベールは二次元の世界の中でもイケメンと言われる人だからね?!
そんなアルベールに舞台用のメイクしただけでなれちゃう翔君は十二分にイケメンさんだと思う。
「翔君はダブルキャストの正樹君のようなどこか近寄りがたい学校一のイケメンではないかもしれないけれど、クラスで一、二を争えるくらいのさわやか好青年の雰囲気イケメンですよ!!」
翔君ならではの素晴らしさを伝えたくて思わずそう力説すれば、何故か翔君が失笑した。
「まぁいいや。ハイ」
突然、翔君がホールケーキにダイレクトにフォークを差し、切り取ったケーキを私の口元に差し出した。
「……ホールケーキ、フォークでダイレクトに行く人初めてみました」
思考がキャパオーバーを起こして、間が抜けた声でそんな事を言えば、
「ツッコむのそっち?」
そう言ってまた翔君は楽しそうに笑った。
その無邪気そうな笑顔に毒気を抜かれで、示されるままに口を開く。
すると翔君がフォークに乗せたケーキで私の唇に、舌先に触れてみせた。
その動作に動揺して落ち着こうとミルクティーを飲もうとしたら、うっかり翔君が伸ばした手と肘がぶつかってしまって真っ白なブラウスの上に少し零してしまった。
「あぁ、ごめん」
翔君が私の髪を優しくゆっくりと払いながら言った。
「……汚しちゃった」
『汚しちゃった』
その言葉に、きっと深い意味は無いだろうに。
そう思うのに。
またしても妙に艶めかしく低められたその声に、思わず頬に朱が走った。
汚さない為の気遣いなのだろうか?
胸元に垂れた髪毛の先を弄ぶように触れる翔君のその綺麗な指先から目が離せなくなる。
すると彼の指先を追う私の視線にに気づいた翔君が、不意にその綺麗な手をすっと彼の目の高さまで上げた。
見えない糸につられたマリオネットのように彼の手を負い顔を上げれば、意図的に避けていたのに、至近距離で簡単に目を合わされてしまった。
再び彼の瞳にあっさり囚われて、自分の意思とは無関係に潤んでしまう目を最早自分の意思では逸らすことも出来ず息が上がり苦しくなる。
そんな私を見た翔君は少し悪い顔をして、どこか自慢げに口元に弧を描いてみせた。
彼に魅了されて、思わず全て差し出してしまいそうになった時だ。
『こんな風に上手に視線の誘導をして見せるなんて、流石人気の役者さんだな』
そう思ってしまった瞬間、スッと頭の芯が冷えるのが分かった。
そうだ。
私は何を調子に乗っているのだろう。
唇が触れてしまいそうなくらいすぐそばにいる様に感じても、彼と私は住む世界が違うというのに。
「本当にありがとうございました。でも本当にもう充分ですから、どうぞこれ以上はもうお気遣いなく」
ほんの少し惜しく思いながらも、いいかげん翔君の償いに甘えるのはお終いにしなくてはと思いそう笑顔で切り出せば
「……僕と付き合ってもらえませんか?」
翔君がそんな思いもしなかった言葉を口にした。
ストレート言葉が頭よりも先に心に刺さる。
それなのに。
「また、そんな冗談ばっかり!!」
思わずそんな事を返してしまい、自分の言った『冗談』というその言葉が胸を抉った。
危ない、危ない。
役者さんのファンサービスを真に受けて、危うく推すところだった。
次に好きになるなら、手の届く人がいい。
決して手の届く事の無い相手に胸を焦がすような苦しみなんて、私は絶対二度と味わいたくない。
だから、彼の事は推さない。
そう決めているというのに。
本当に危ないところだった。
そんな言い訳をしながら、卑屈に嗤った時だ。
「なんでそんなに手ごわいかな?」
ローテーブルの上に頬杖をついて、私の表情をのぞき込んだ翔君がやれやれと困ったように笑った。
「なんでアルベールの気持ちはあんなにも分かってくれるのに、自分の気持ちも分かんないの?」
翔君の手が私の頬にそっと触れる。
その仕草はまるでアルベールがヒロインにキスしようとする時のようで、いたたまれず思わずぎゅっと目を閉じれば、
「目、開けて」
そんなよく通る翔君の声が耳元に落ちた。
今目を開けてはダメだと思うのに。
魅惑的な声に抗う事なんて出来なくて、言われるままに目を開けば、すぐそばに置いてあった手鏡を翔君がこちらに向けていた。
「自分の顔よく見てみなよ。鏡の中の絵梨はどんな気持ちの表情をしてる? 俺は? 冗談言ってるように見える? ……ねぇ、俺はどんな気持ちの顔してる?」
『もっと翔君と一緒に居たい。行かないで欲しい』
まるでそう訴えるかのように頬を赤くし目を潤ませる自分と目が合ってしまい、いたたまれなくなって翔君の手を振り解き鏡から視線を逸らせば、
「ちゃんと見て」
またしても翔君の大きく暖かな掌が、私の頬に添えられた。
「見て」
きっとルシファーの役だって簡単に射止めて見せるだろうその声と眼差しにあっけなく屈し、観念して目を開いた。
鏡をのぞけば、きっと魅惑的に嗤う翔君が見えると思ったのに……
想像とは裏腹に、驚くくらい真剣な瞳をした翔君と目が合った。
「自分の気持ち、自覚した? 俺の思い、分かってくれた?」
手を離され、自由になった頭で小さく頷き
「よ、よろしくお願いします」
思わず緊張で震えてしまった声でそう言えば、無自覚なのだろうか
「こちらこそ」
そう言って翔君が、唇と唇が触れてしまいそうな距離でまた優しく笑った。