1.沼にハマったまでは認めるけれど(side エリー)
友達から悪役令嬢物の漫画が原作の舞台に誘われたとき、私は正直あまり乗り気ではなかった。
その漫画が好きだったから、そのキャラクターを生身の人間がやるなんて違和感しか感じないのではないかと危惧したからだ。
でも、それは杞憂だった。
特に私が大好きだったキャラクター、アルベールを演じた俳優さんのお芝居は素晴らしく、カーテンコールで号泣した私は帰るなりチケットを追加購入すべくネットに齧りついた程だ。
チケットについて調べれば、自然とアルベールを演じていた俳優さんの情報にも辿りついた。
その俳優さんの名前は翔さんと言うらしく、彼について書かれた沢山の観劇レポートを読むうち、あれだけ舞台ではキリッとしてカッコよく見えたその人が実は所謂『天然』キャラであることに気づくまでにそれほど時間はかからなかった。
折り鶴を折ろうとしてヨレヨレの摩訶不思議な生物を爆誕させたり、ちょうちょ結びが出来ず靴紐を固結びにしてしまい早着替えの時に衣装さんに怒られたり、ヒロインにハンカチをかっこよく差し出すシーンでポケットの裏地が度々コンニチハしちゃったり、クリスマスツリーに一人『面白くなりたい』という短冊を大真面目にぶら下げて他の出演者さん達から総ツッコミを受けたり。
それなのに再び見に行った舞台の上では、きっと多くの人はそこまで見ていないであろうと思われるさりげない手の仕草までがアルベールそのもので。
私はあっという間にその舞台の沼の住人と化してしまった。
「あれ? 絵梨は翔君推し?? てっきりダブルキャストの正樹君推しかと思ってた」
私を沼に突き落とした犯人の友人にそう言われ、私はブンブンと横に振り叫ぶように言った。
「私はまだ推してないから!!」
決して手の届く事の無い相手に胸を焦がすような苦しみなんて、私は絶対二度と味わいたくない。
「ただ色々調べちゃってるだけだから! ついつい翔君の天然レポを見守っちゃってるだけだから!! 私はまだ決して、決してまだ推してなんていないから!!!」
次に思うなら……。
この手を伸ばした時に、ちゃんと届く人がいい。
私からばかりじゃなくて向こうからも、その手を差し伸べてくれる人がいい。
詳しい事は思い出せないのだが、友人とそんな話をして少し経った頃だったと思う。
信号待ちをしながら、追チケットをすべく舞台のホームページを見ていた時だった。
人々の悲鳴に驚いて顔を上げれば、車道を大きく逸れたトラックのナンバープレートがすぐ目の前にあった。
私が転生したのは、翔君がアルベールを演じた舞台の原作漫画の世界だったようだ。
十六になり入った学園で同級生と思しきアルベールが目の前を横切って行ったときには、衝撃のあまり心臓が止まるかと思った。
でもそれ以上に驚いたのは、アルベールの靴紐の結び方だった。
ズボンのすそに隠れる為、目立たないのだが……皆が脱ぎ履きしやすいよう蝶結びにしているそれをアルベールは固結びにしていたのだ。
よく見れば、ビシッと着こなしている制服のポケットの裏地が微かにコンニチハしている。
アルベールの手を見れば、そのさりげない動かし方は舞台の翔君の解釈そのものだったから、
「翔君?!」
私は思わずアルベールに向かってそう呼びかけたが、アルベールは自分が声を掛けられたとは気づかなかったようでそのまま歩き去って行ってしまった。
驚いた……。
一瞬、翔君がアルベールとして転生してきたのかと思った。
しかしアルベールの反応から見るに、どうやら彼は翔君とはまた別の人物のようだった。
前世では決して手の届かなかった人が舞台以上にリアルな存在として目の前にいる。
その事に感動して、思わず彼に向けて自分の手を伸ばしかけて……やめた。
アルベールは爵位持ち。
それに対し、私は商家の出。
そう。
せっかく転生したこの世界においても、私はまたしてもモブなのだ。
「辛いな……」
私は思わず声に出してそんな本音を呟いてしまった。
前世では翔君の華やかな交友関係をSNSで見て、
『自分には全く縁の無い世界の人だ』
と必死になって自分に言い聞かせてきたのだけど。
……生まれ変わってもまた手の届かないこの距離か。
「悲惨な末路をたどる悪役令嬢でもいいから、一度くらいその手に触れられる距離にいきたかったな……」
そんな事を思ってしまった後で、私は頭をブンブンと横に振った。
いやいや、何言ってるんだ私!
悲惨な末路なんてダメでしょう。
この世界でも、モブはモブらしく、分相応に楽しく生きていきましょうよ?!
大丈夫、大丈夫。
だって私はまだ推していないから。
だから手が届かなくたってそれがなんだ。
大丈夫。
辛いななんて思ったのはきっと一時の気の迷い。
アルベールの存在に気づいて以降、ついつい彼を目で追っちゃうけれど、彼自身が目立つ人なんだから仕方ない。
彼について色々知っているのも、周りが彼に憧れてしょっちゅう噂話に花を咲かせているのが勝手に耳に入ってくるからで、決して私が自分から情報収集に奔走しているからではない。
彼が困ってたらついさりげなく助けてしまうのは、同じ学校に通う生徒としては当然の務めで……。
ついつい疲労困憊の彼にこっそりポーションをプレゼントしてみたり、ダンジョンの攻略を優位に進めるキーアイテムをプレゼントしてみたのも、私にはそれらが不要だったから必要としている人に譲ろうと思っただけで、決してアルベールを推しているからではない。
その証拠にプレゼントに添えたカードには自分の名前は書かなかった。
ただ前世からの癖のようなもので、彼が頑張っている姿に自分がいかに励まされているか、その感謝の言葉を短く添えただけ。
そうやって彼に迷惑をかけないくらい遠くから時々彼を見ていたら、あっという間に月日は流れて、卒業の日が来てしまった。
三年が経った今も、私からのアルベールへの思いは特に変わっていない。
そう、私はまだ彼の事は推していない。
よく頑張った、私!
それでも……
卒業パーティーで踊る為、誰かが彼の手に触れるのを見るのは何故か酷く辛い気がして、私はパーティーを欠席した。
きっと卒業パーティーは舞台で見た通りの素敵なものだろう。
それを見れないのは少し惜しい気もしたけれど、元々モブの私には分不相応な招待なのだ。
大丈夫。
学園を卒業したら、今度こそアルベールの姿を目にする事すらなくなるから。
そうすれば私はこの胸の痛みを、彼の姿を声を少しずつ日々の忙しさの中で風化させ忘れていくことが出来るだろう。
最後の荷物をトランクの中に投げ込んだときだった。
誰かが私の部屋の扉をノックした。
明日の朝一で学園を離れると伝えておいた友人が、別れを惜しみにわざわざパーティーを抜けて来てくれたのだろうか。
前世も今も、持つべきものは良き友人だ。
そう思って相手が確認もせずにドアを開けたときだった。
ドアの前に、アルベールが立っていた。
混乱する私に彼は、ずっとこうして話がしてみたかったのだとそれはそれは綺麗に笑ってみせたのだった。