1月 Expectation is the root of all heartache.
新しい年を迎えた。
と言っても、所詮は昨日からの地続きの明日に足を踏み入れたに過ぎない。世間は未だに感染症が蔓延し、新しい年を祝うには適さない自粛ムードが続いていた。
僕らはと言えば、卒論を書いていた。
1月2日、まだ正月三が日にも関わらず共同研究者から連絡が来た。
「やって欲しいことがあって」
「今日、ある程度書き上げた論文を共有ファイルにあげておく。細かい修正しておいてくれ。詳しい要件は電話で伝える」
「あとは、研究会用の目次任せた。その間に前刷りやっておく」
あまりの仕事の速さに新年初驚きを奪われてしまったくらいだった。
その後、電話で軽く修正点等の説明を受け、僕は何度も何度もお礼を述べた。
翌日、僕は指示された修正点を修正してその趣旨を共同研究者に伝える。既読だけが付いた。
共同研究者が前刷りを書いている間、何もしていないのも申し訳ないと思ったので卒論発表用のパワポ資料を大まかではあるが作っていた。中間発表に用いたものをベースに、今年度の研究の〆となる内容を選んで発表資料に組み込んで準備をしていた。
ひとまず形だけはできた状態で、共同研究者も見れるように共有ファイルにアップロードしておいた。
共同研究者から「前刷りをアップロードしておいたので確認と修正頼む」という連絡が来た時、パワポ資料を大まかなものではあるが作ってアップロードした趣旨を伝えた。
新年1発目の研究会は僕が資料を出した。内容は、
「今年度の研究はこんな結果でもう無理。卒論頑張るわヨロ」
といったものだ。
ついでに卒論の目次だけの提出もあったが、それは年始には既に準備していたので改めて何かすることはなかった。
そして迎えた研究会。不測の事態が起きたのだった。
「教授…来なくね???」
グループLINEにメッセージが飛ぶ。
開始時間10分を過ぎても教授が来なかったのだ。過去にも何度かあったが、その際は院生が司会をして研究会を進めていた。だが、別に誰かが質問するわけでもないので研究会はとても早く終わったのだ。
ちなみに研究会RTA最高記録は17分。
「これは凄い記録が出るぞ…」
新たな記録をかけた研究会が始まる。院生が「じゃぁファイル提出の速かった順から発表で…」とアナウンスする。
順調に進んだと思われた研究会だった。しかし、あろうことか院生の1人が発表に躓きタイムロスしてしまう。それにより大幅は記録更新には至らなかった。
研究会が終わった後、しばらくして教授から「新年最初の会議が長引いてしまったので出席できなかった」と連絡がきた。さらにその後、目次を見たという趣旨のメールが教授から届く。目立った修正箇所は無かったのでひとまず安心した。
教授不在の研究会の翌日、僕らは前刷りを教授に提出した。教授から指摘を貰うためだ。翌日、日曜日にもかかわらず教授から連絡が返ってきた。休日にもかかわらず働く教授を不憫に思いつつ、前刷りの修正を共同研究者が行う。
その翌日、再び提出し、再び指摘を受ける。しかし、前回の指摘の量と比べると微々たるものであり、共同研究者は俄然やる気に満ち溢れたのか直ぐに修正して提出したのだった。
教授から
「これで提出します。次は卒論です。」
という短いながらもパワーのある返信メールを受け取ったのは、前刷り提出締め切りの9日程前のことだった。
僕も、おそらく共同研究者も「さっさと提出物終わらせて楽になりてぇ~」と思っていたことだろう。
前刷りの提出を終えた翌日 僕らは研究室に向かった。卒論に貼るための足りない写真を撮るためだ。
昼前に研究室に辿り着いた僕は、研究室のパソコンに放置していたクッキークリッカーを確認した。10の44乗程のクッキーが焼かれていた。
正午を過ぎ、昼飯どこで食うか考えながらまだ来ない共同研究者に「昼飯どこ食いに行く?」と連絡をする。共同研究者からは8時過ぎに一度連絡が来ており、今電車の中かそこらだろうと思っていた。
だが、13時前にして驚愕の返信が届く。
「ぜっき」
たった3文字だが全てがわかる言葉だった。
最初の連絡があった8時は、彼が起きた時間ではなく彼が寝た時間だったのだ。
その日は足りない写真を撮るだけだったので、僕が撮影を行い、共有ファイルにあげて共同研究者からOKを貰って帰宅した。
それからの数日間、共同研究者が研究理論やシミュレーション方法などを記載し、僕は実験装置の使用部品等の説明や実際に観測したデータの整理などをして、卒論を修正しては共同ファイルに投げるを繰り返していった。
その間に僕は親知らずを抜いた。昨年抜いたのと反対側の歯を。
親知らずを抜いた翌日、卒論の1回目提出を行った。その2日後、指摘が返ってきた。親知らずの方は尋常ではない頭痛を引き起こしたりはしたものの、前回ほど頬は腫れなくて安心した。
親知らずを抜いたのがきっかけではないが、この辺りから僕の心にもやもやとした感情が生まれ始めていた。
1回目の卒論提出の後、修正を終えた卒論は教授も見れる共有ファイル上にアップロードされていた。しかし僕は、前刷りの時の様に教授からの「これで大丈夫です」というメッセージの様な目に見える安心を欲していた。
共同研究者はただ「教授には共有ファイルに卒論あげたってメールしたよ」と言うだけで、その後教授からどんな連絡が来たかどうかも僕にはわからなかった。
不安はどんどん膨張していった。
僕は仮に卒論が完成したという前提で卒論発表会に用いるパワポ資料の編集を進めていた。提出している前刷りをベースに内容を整え、一応の台本も用意した。「共同研究者には色々お世話になったことだし、せめて発表資料くらいは…」と作業を進めていた。
ある程度出来上がったところで再び共有ファイルにあげる。しかし、ここであることに僕は気が付く。
共同研究者が、一度も僕のアップロードしたパワポ資料を見ていなかったのだ。既に最初のアップロードから2週間以上経っているにも関わらず、ファイルを開いた痕跡がないのだ。記録として残っているのは、共同研究者とは別の他の研究テーマでありながら多くの同期を救い続ける「英雄」と呼ばれる男が開いた痕跡だけだった。
その事実に気が付いてからというものの、日に6回以上は共同研究者がファイルを開いたかどうかをチェックしたのだった。自分でも自分の行いに若干の狂気が含まれていると自覚していた。だが、それでも僕は己の中でどんどん膨らんでいく不安を少しでも拭い去りたかったのだった。早く提出物を、やるべきことを全て終わらせて何も考えずに済むようになりたかったのだ。
ついに辛抱できず、僕は共同研究者に「卒論発表のパワポ資料アップロードしたって言ったっけ?」と連絡をした。もちろん僕は連絡したことを覚えている。
すると、「マジか。さんきゅ」とまるで初めて聞いたかのような返信が返ってくるではないか。
その後もモヤモヤとした感情を内に秘めながら時間は過ぎ去っていく。そして、遂に卒論提出締め切り日になった。
締め切り5時間前、僕は共同研究者にメッセージを送る。
「卒論ってアレで完成で問題ないよね?」
「俺も聞きたいわ。多分良いんじゃないかな」
しかし、僕はひたすらに不安だった。だからこそ、僕は何度も何度も卒論を読み返していた。おそらく大学生活4年間で一番同じ文章を繰り返し読んだだろうと思えるほどには読み返していた。ただひたすらに不安だった。
共同編集者に「どこか修正箇所とかないよね?」と不安を露わにするメッセージを送るも、返信は来ない。
共同研究者から何も連絡が来ない中、僕は何度も何度も卒論を読み返していると、とても小さな、ちょっとした文章の違和感を覚えてた。
時は既に提出締め切り1時間前。しかし、見つけた文章の違和感は見れば見る程気持ち悪く、今まで積み上げてきた卒論全てが台無しになってしまうようなものにまで感じてきたのだった。
共同編集者から返信は来ない。客観的な意見はどこからも得られなかった。
残り30分まできたところで、僕は修正を加えることにした。そして、再度共有ファイルにアップロードし…教授にメールを送った。
「了解しました。」
直ぐにそんな返信が返ってきて、そこでようやく僕は安心したのだった。
ちゃんと提出できた、修正箇所は直せた、そんな色々な感情でようやく満たされたのだった。
こうして、僕らは提出物を全て提出した。それは同時に、最後の戦いまでのカウントダウンがスタートしたことを意味していた。