8
「そっちじゃない」
ラナは結局ラサラスを頼るのをやめ、自力で王宮へと戻る事にした。幸い、ラナの拒絶を受けて彼は彼女に幻滅してくれたようだ。腕を離して彼女に自由を与えてくれた。
「また元の場所に戻ってる」
だが、迷いに迷うラナを見ていられなくなったのか、彼は数歩後ろを影のようについてきて、彼女の行動に逐一口を挟んだ。
「あー、そっちはオアシスだ」
「…………」
ぴたりと足を止めると胡乱な目で後ろを振り返る。するとラサラスが呆れた目でラナを見つめていた。
「絶望的に方向感覚がないのだな。大通りに出て真っ直ぐに行くだけなのに、どうしてここまで迷走する?」
「余計なお世話ですっ! 王都は初めてなんだからしょうがないじゃないですか!」
我慢できなくなったラナは、振り返るとラサラスに真っ赤な顔で文句を言う。
「ほら、前を見ろ。人にぶつかる」
引き寄せられて、ラナはラサラスの胸に囚われた。慌てて胸を押して離れると、彼は悲しそうに顔をしかめた。
「そんなに毛嫌いしなくてもいいだろう。私は他に好きな男が居る女を無理に手込めにしたりはしない。――だが、」
彼はそこで一度口を噤むと、ラナの腰を引き寄せる。ぎょっと目を剥くが、ラサラスは真面目な顔だった。
「こういった場所では、一人で歩かない方がいいんだ」
「え?」
ふと周りを見回すと、舌打ちをしつつ去っていく男たちが数人居た。
「ずっと狙われていたんだよ。この辺は花街も近くて物騒だ。城に着く前に攫われたら、目も当てられないだろう?」
ラサラスは不本意そうに目を伏せる。
「兄に渡すのとどちらがましか、私には分からないけど……そなたが目の前で酷い目に遭うのは嫌だ。だから、城までは送ってやる」
悔しそうに、しかし真っ直ぐに見つめられ、ラナは息が詰まる。
「ありがとう、ございます」
思わぬ優しさに泣きたくなりそうになるのを堪え、ラナは前を歩き始めるラサラスの一歩後ろを進んだ。
*
(いつもの事。いつもの事のはずなのに)
ラサラスは腐りながら、後ろをついてくる娘をちらりと気にする。
今までとなにかが違う気がした。同じ志を持っているように思えた。
(勘違いだ)
外見が好みだから、そんな風に望んでしまっただけだ。
兄の持つ財産と権力と、そして甘い容貌に惹かれる普通の女だと知ったはずなのに。
本人がザウラクに許しを乞うと望んでいるのならば、そうさせてしまえばいい。彼女がどうなろうとラサラスにはもう関係ない。差し伸べた手は振り払われたのだから。
(なのに、なんでこんなに心が騒ぐ?)
酷い苛立ちを抱えながら、ラサラスは歩く。
と、前から見覚えのある近衛兵の制服が見え、彼は僅かに首を傾げた。
(あれは?)
確かザウラクの親衛隊だ。腕に紫の布をつけている。
ラサラスを探すのならば、黄の布をつけた彼の親衛隊が探すのが筋。ならば、彼らが探すのは――
「迎えが来たようだが」
ラサラスはラナを見下ろして言う。最後の確認だった。
「どうする?」
「今までありがとうございました」
ラナは迷わずに頭を下げる。
それを見てラサラスはほのかな恋心に別れを告げようと決めた。
「元気で。兄上に気に入られるといいな」
そんな未来はきっと訪れない。ほの暗い未来を思い浮かべると胸が痛む。
一歩足を踏み出したラナに気が付いた近衛兵と目が合い、思わずラサラスは顔をしかめた。兵はカルマ――先ほどラナに乱暴しようとした男だったからだ。
「これは、これはラサラス殿下。そのお姿は、お得意のお忍びでしょうか? しかも見覚えのある娘まで連れていらっしゃいますが」
「酷い目に遭いかけていたから、見ていられなくて保護しただけだ。罰を与えないでくれないか」
「それはそれは、お優しい事で……しかし我が主人はたいそうお怒りです」
「罰は逃げずに受けます。ですからどうか、ザウラク殿下に謝罪させて下さいませ」
頭を下げて駆け寄るラナをカルマは地面になぎ倒した。
「何を!」
地面を蹴ってラナを抱き起こすラサラスをカルマは見下ろした。
「もう主人から命は受けています。『好きにして良い』とね。気前の良い方です。私どもに下賜して下さるそうですよ」
「どういう、ことだ」
ラサラスの言葉に、にやり、とカルマが笑う。
「ラサラス殿下のお手がついた女は要らないそうです」
「決してそんなことはしておりません!」
ラナが青くなって抗議するが、男は一笑しただけだった。
「疑われるような事をなさるあなたが悪い」
「兄上は最初にお前に襲わせたくせに。臣下は良くて弟は駄目とはどういう理屈だ!」
ラサラスが睨むと、
「冗談に決まっているではないですか。余興の一つだというのに。これだから頭の固い方は」
は、と鼻で笑われた。思わず手に力を込めると、手の中に剣の柄の硬さを感じた。
「おや、その手はどうなさるおつもりです? 今度こそ力づくで奪われるつもりですか」
カルマは爛々と目を輝かせている。挑発に乗ってしまったと気が付いた時にはすでに遅い。
(もしかして、最初からそのつもりで?)
決して認めたくなかった疑いが急激に膨れ上がるのと同時だった。カルマが一歩下がって道をあける。巨体の後ろから美麗な銀髪の男が現れて、ラサラスは悟った。
「……そうか。兄上は、私が嫌いなのか」
「僕の生活をこれだけ脅かしておいて、なぜ気づかないのか不思議でしょうがなかったけどね」
現れた兄の姿に、追いつめられた鼠の気分で、ラサラスはラナの手を握って後ずさった。
「出来の良い弟というのは、目障りでしょうがないよ。昔から消えて欲しかったけれど、お前には隙がない。どうせなら謀反でも起こしてくれればと馬鹿なふりをしていたのに、全く乗って来ない。困ってたところに、ようやく絶好の材料が紛れ込んだ。こんな好機を僕が逃すわけがないだろう?」
ラサラスが幼い頃からずっと慕って来た男はにやり、と冷酷に笑って握られた剣を指差した。
「妃の誘拐に加えて反逆罪。さあ、どう申し開きをする?」
いつしか周囲を紫色を持つ兵に囲まれていた。
ラサラスはふ、と短く息を吐くと剣を抜いた。幸か不幸か腕には自信があり、兵もそれを知っている。ギリと歯を食いしばってにらみを利かせると、兵たちが殺気立つのが分かった。
剣を頭上に構える。冷めた色の月光が白刃を冷たく照らす。均衡を壊したのは、ラサラスの剣。だが彼は脇に積まれていた樽の山を一突きして倒すと、その隙にラナの手を取って裏通りへ駆け出した。