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「ともかく、城を出る」
ラサラスはラナに上着を被せると、手首を握って、引きずるようにして城門まで連れていく。
「おねがいです、どうかザウラク様の元へ戻らせて下さいませ」
飛び出してすぐに冷静さを取り戻したらしく、ラナはラサラスへ訴えるが、彼は無視してどんどん進んだ。
通用門では、商人が何人か固まって談笑している。城門の外に出るのは、内側に入る時とは比べ物にならないくらいに警備が緩い。近衛兵に変装していラナらなおのこと。簡単に門を通された二人は、人ごみに紛れて城下町へと急いだ。
後ろから足音が追いかけてくる。きっと護衛がつけていたのだろうと察する。彼は追っ手を撒こうと裏道へ入る。尾行をまくのも慣れたものだった。
「あ、あの」
息の上がった声に、ラサラスは振り返る。見覚えがあったのかラナは一瞬の躊躇いのあとに尋ねた。
「先ほどの近衛兵の方、ですよね? どうして、助けて下さったのですか。捕まればあなたが罰せられます」
「成り行きだ」
そう答えたラサラスだったが、頭の中では自らの行動に疑問符が飛び交っていた。
少し興味があっただけ。顔が見たかっただけ。それだけの理由で覗き込んだ部屋の中。
そこで行われていた兄の非情な行動に頭に血が上ってしまった。
(妃を臣下に譲るつもりか。玩具じゃあるまいし)
そう思ったとたん、自分の企みで塵のように扱われる少女が惜しくてたまらなくなった。
愚かだと思ったが、おかげで少女の顔を見る事のできたラサラスは、後悔はしていない。
なめらかな肌。石榴の実のような瑞々しい唇。赤い髪、琥珀のような瞳から期待していたかんばせは想像通り。いやそれ以上だった。
(兄上にはやっぱり勿体ないだろう)
じっと見つめると、なぜか呆然としていたラナは突如はっと我に返る。そして自らが顔をさらしている事を思い出したのか、じわりと頬を染めた。
ベールはどさくさで置いて来たらしい。慌てたように髪で顔を隠す彼女に、ラサラスはマントを被せる。闇の中であれ、禁色の髪は目立つ。
「これからどうされるのですか」
マントの中から不安そうに見上げられ、ラサラスは足を止めた。
「理由を付けて逃がしてやるから、故郷に戻れ」
「お役目を放り出したままでは帰れません。とにかく、今からでも戻らないと」
苦しげに彼女は言った。
「そして、あに……いや、殿下以外の男にいいようにされるのか? そなたは、弟王子の息がかかっていると疑われていた。戻っても彼はそなたを妃にはしないだろう」
「それならば、余計に潔白を証明しなければ。調べて頂き、何も出て来なければ、疑いも晴れましょう。助けて下さってありがとうございます。戻って頭を下げてまいります」
「馬鹿な事はやめろ。謝って済むはずがない。あの人を甘く見ラナ」
「それでも、戻ります」
「だめだ。そなたは――」
(兄上に渡すくらいなら、いっそ私が貰う!)
思わずそんな事を考えたときだった。ラナは目を見開いて叫んだ。
「いいえ。それは出来ません。ラサラス殿下」
ラサラスは思わず口を押さえてぎょっと目を剥く。
「な、私はまだ、何も言ってな――」
慌てる彼の前で、ラナは顔を真っ赤にして首をぶんぶんと横に振った。
「わたくしどもは、王家の駒である事を十分に理解しております。わたくしの役目は、ザウラク様を陰でお支えする事。ここでお役目を放棄する事はできません」
ラサラスは思わず辺りを見回す。誰に聞かれているか分からない。それに――
(私は、何か王子だと特徴づけるような事を口にしたか?)
思い出そうとするが、心当たりが無い。どうして正体がばれているのかが全く理解できなかった。禁色のマントも外している。そしてザウラクと違って、第二王子である彼の容貌――金の髪に青い瞳――は民に広く知れ渡っている訳ではない。
「え、ええと、まず、私はラサラス殿下ではない」
ラサラスが否定すると、ラナは我に返り、しまったと顔をしかめたが、やがて腹を決めたかのように微笑んだ。
「わたくしに隠し事はできません」
「どうして」
「こうしてわたくしに触れていらっしゃるからです」
頬を染めながら、ラナはラサラスに握られた手首を見下ろす。
意味が分からずにラサラスは首を傾げたが、そのとき、聞き慣れた声が近づいて来た。
「いらっしゃったか?」
「いや、さすがに逃亡は年期が入っていらっしゃるからなぁ。困ったもんだよ。だが殿下なら、下手に街を出ずに人ごみに紛れられるに決まっているから。一応城下町の外も探させてるけどさ」
カペルとリュンクスの声だった。
(読まれているか)
ラサラスは嘆息しつつ、かがみ込んで壁に身体を貼付ける。こうすれば、建物の影に紛れて見つけにくくなる。
「あの娘だけは駄目だと申し上げたのに。だから今回はできるだけ接触されないようにと……それが却ってまずかったのか」
カペルが渋い声で呟く。
「そういや、どうしてなんだ、それ? 確かシトゥラってそんな悪い家柄じゃないだろう? よくよく考えると、過去に妃が出た事がないのがおかしいくらいだ」
リュンクスの問いにカペルは声を顰めたが、後ろにいるラサラスにはその声がはっきりと聞こえた。
「あの家の娘は特殊な〝力〟を持っている。〝王〟になられる方には……相応しくない〝力〟を」
「え? 異能持ち? 冗談だろ」
「……」
カペルが黙り込むとリュンクスは深追いせずに肩をすくめた。
「まあいいけど。おまえが訳ありなのはいつもの事だし。あ、でも、王になられる方ってことは、王位を継がないザウラク殿下相手なら良いって思ってたのか。――結局お前も俺と志は同じじゃないか」
「そんなこと、既に知ってると思っていたが?」
揶揄しあいながら去って行く二人の後ろ姿を見送ったあと、ラサラスはふっと息をついた。
「力というのは、さっきの事? 隠しごとができないというのは、どう言う意味だ」
じっと見つめると、ラナは気まずそうに頬を染めた。
「わたくしは、人の心を読めます。――触れると、その、触れているものの心の声が聞こえるのです」
「は? まさか」
途方もない話だ。ラサラスは半笑いの表情になる。だがラナは至って真面目に続けた。
「簡単に信じて頂けるとは思いませんが」
何の冗談だと笑い飛ばそうとしたが、戯言を言っている顔ではなかった。
(そういえば、先ほど口にする前に求愛を断られた……ような)
思い当たることがあり、彼女に触れてから今までどんな事を考えただろうと、ラサラスは妙な汗をかいた。
こうして連れ去った理由も知っているのだろうかと思うと、羞恥で顔が赤くなり、彼女の手首からそっと手を離した。ついでに一歩後ろに下がる。
すると、ラサラスの手が緩んだ隙にラナは表通りに飛び出し、カペルたちが去った方向に向かおうとする。ラサラスは思わず彼女の二の腕を掴み「駄目だ」と自分に引き寄せる。
ラナはぎょっと振り返ると「お離しください!」と叫んだ。声が響くのを恐れたラサラスはとっさに彼女の口を手で塞いだ。だが、足音が近づくのが分かり、彼はとっさに彼女を物陰に引きずり込み、上からマントを被った。
暴れる彼女に体重をかけて地面に押し付けると、微かに甘い薔薇の香りが鼻に流れ込んだ。理性が飛びそうになるのを必死で堪えて、足音が過ぎ去るのを待つ。
「は、なして――」
手足をばたつかせつつも「ううぅ」と唸るラナに焦躁を隠せないラサラスは、
(いっそ、口づけで塞ぐか!?)
と自棄になりかけた。とたん、ラナはまるでそれが聞こえたかのように大人しくなる。
熱気の籠ったマントの中で刹那、二人は見つめ合う。闇に慣れた目に、澄んだ瞳の中に浮かぶ星が映るとラサラスは妙な気分が沸き上がるのを感じた。手のひらに唇の柔らかさを感じたとたん、身体の下にもっと柔らかなものがあるのを感じて、頭に血が上った。
(華奢だと思っていたけど)
無意識に彼女の形を確かめようとした彼の手が一瞬で阻まれた。ラナが不満げに唸っている。彼は我に返ると、彼女の語った力の事を思い出す。
ラサラスはとにかく別の事を考えようとするが、如何せん刺激が強過ぎる。結局上手くいかず、不埒な妄想はラナの顔を赤らめさせ続けた。
やがて足音が去り、二人は静かに身を起こす。目が合うと凄まじく気まずい。
「すま、なかった……」
「いえ……、でも、あの、そろそろ離して下さいませんか」
真っ赤な顔で訴えられるが、ラサラスは首を横に振った。逃げられたくない、その気持ちは最初に手を取った時と比べて、ますます強くなっていた。
(あぁ、これはなんなんだ)
じっと見つめ返してくる琥珀の瞳からどうしても目を離せない。一瞬で熱病にかかってしまったかのようで、戸惑いを隠せない。そういえばリュンクスが言っていた。あの時は冗談だと流したが――
(まさか――ひ)
「一目惚れ!? それは絶対に勘違いですっ!」
目を見開いたラナから頭をよぎった言葉が返って来て、もう能力については疑いようが無くなる。ラサラスが呆然と手を離した隙に、ラナは通りに向かって脱兎のように逃げ出した。