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こつこつと扉が叩かれて顔を上げると、扉の隣で彫刻のように立ち尽くしていたカペルが侍従からの伝言を受け取っている。
「ムフリッドから例の者が到着したそうです。今夜の宴の後、さっそく召されるとか」
「その前に一度会っておこう」
ラサラスが立ち上がりかけると、
「いえ、既に作戦は伝えてあります。今接触すれば疑われます」
カペルが渋り、不思議に思う。今までにも似たような事はあり、その度にラサラスが相手の身持ちの硬さを、そして覚悟を確かめた。
「寝返られたら終わりだろう? なにしろ、兄上は女性にもてるから。信用に足るか確認した方がいい」
「ですが、殿下が本人に『裏切らないか』などと尋ねても意味が無いではないですか。今までの事を思い出して下さいませ」
言われてみれば皆が皆真摯に『必ずお役に立ちます』と言った後にラサラス達の期待を裏切った。
少し考え、彼は禁色の赤いマントを肩から取り外す。そして「近衛兵の制服を持て」と命じた。
「例のお忍びですかぁ」とリュンクスが、面白そうに素早く濃紺の衣装を持って来る。
「これならば文句は無いだろう?」
ラサラスは上着を羽織りつつニッと笑うと「お待ちください!」と追いすがるカペルを置いて、部屋を出た。
兄に仕事をさせるためには適切な伴侶を。
最後の手段とばかりにザウラクのところに妃を送り込み始めたのは最近の事。寵姫がいれば、それを通じて少しは扱いやすくなるだろうと選ばれた女には、密かにラサラス陣営の息がかかっている――はずなのだが。
(どうせ、今度も色香ばかり濃い頭の悪い女なのだろうが)
各地で厳選された女だと聞くのに、裏でザウラクを操るどころか、寵姫にすらなれない女ばかりだった。
ラサラスはこれまでに兄の好みに合わせて用意された女たちを思い浮かべる。兄は出るところが出た肉感的な女が好みだった。しかも悉く媚を売る事が好きな女。
すぐに寝台に連れ込むくせに、あっという間に飽きるので、同じような女ばかりが宮に増えて行く。そして寵愛を失った女たちは、夢から覚めたかのようにラサラスに縋ってくる。味わった豪奢な生活を失いたくないばかりに、第二希望でも構わないとなりふり構わずにすり寄るのだ。
嫌な思い出にため息をついて、宴が行われている広間へ忍び込む。だが、ザウラクの隣には花嫁らしき姿はなく、別の女――おそらくは昨日閨へ引き入れた女だろう――が妃の席で侍っていた。
兄の姿に呆れつつ、ラサラスは蔑ろにされた哀れな花嫁の姿を探して広間を彷徨い、やがて窓の外に見慣れない女の姿を見つけた。
夕日に照らされた中庭に回り込むと、小鳥のさえずりのような涼やかな歌声が耳に届いた。誘われるように寄って、思わず目を見張った。視界に広がる極彩色と相まって、幻の霊鳥、不死鳥かと思ったのだ。
だが瞬きをすると幻鳥はすぐに消える。夢のあとには少女と言っていいような華奢な娘が一人、バルコニーに寄りかかって寂しげに歌を歌っていた。
寂しく懐かしい旋律にラサラスの足が止まる。
北部独特の絣織りの衣装を着ている。頭には紗のかかったベールを見て、女性が外では布で髪と顔を隠す地方の古い風習を思い出す。王都あたりではもう見かけない姿だ。
ベールの端からは夕焼けを閉じ込めたかのような穏やかな色の赤髪がこぼれ落ちて、ラサラスの目に瞬く間に焼き付いた。
(赤、か)
禁色の赤は国内では滅多に見かける事が無い。この娘が選ばれた理由がすぐに分かった。
(たまには変わった色の宝石で釣ろうというのか)
どんな顔をしているのだろうとにわかに興味が湧き、一歩足を進めると、女が顔を上げた。
女は歌うのをやめ、寄りかかっていたバルコニーから離れた。動きにバネが有り、やはり鳥か、それか荒野を跳ねるヤクを思わせる。
「近衛隊の方? あの、誰も居ないかと思って……見なかった事にして下さいますか?」
咎められると思ったのか、言い訳するように言う。
ベールは頭と鼻から下を覆っているだけで、目元は隠されていなかった。琥珀の瞳がこちらを注視する。それは吸込まれそうなくらいに透き通っていた。
真剣な面持ちに、何よりその繊細な美しさにラサラスは面食らう。
女はへたり込むように設えられていた椅子に腰掛けた。膝の上で握りしめた手が可哀相なくらいに震えている。
それを見ているとなぜか喉が干上がる。声が掠れそうになり、慌てて息を整えた。
「ええと、シトゥラ家のラナ嬢――でよろしいか」
「は、はい」
外見からの推測を口にすると、少女はどうして解ったのかとでも言いそうに目を丸くした。だが、ラサラスが彼女の衣装に目を落とすとすぐに納得したらしい。生地には禁色が織り込まれていて、彼女の地位を主張していた。
「王太子殿下の妃がこんなところで何をされていらっしゃるのです? 殿下が待たれていらっしゃるのでは」
理由は解っていたがあえて問うと、
「でも、気に入って頂けなかったようで」
ラナは広間の方をちらと見て、自信なさげに俯いてしまう。
(確かに、今までとは毛色が違いすぎる)
大量の布に包まれてはっきりとは分からないが、少女は折れそうに細い。
あの好色な兄は一度くらい試してみるかもしれないが、すぐに捨ててしまうのではないかと不安に思った。
(勿体ない――)
そう思いかけて、ラサラスは驚いた。
だが、惜しがるのも仕方が無いくらいに彼女の瞳が――彼女を取り巻く空気が澄んでいるのだと気が付いた。
ラナは相変わらず震えていて、今にも倒れそうだった。
「気分が悪そうですが、大丈夫ですか」
そう尋ねると、彼女は胸の辺りの服をぎゅっと握りしめる。
「もしこのままお好みに合わなければと思うと、不安で。苦しくて。わたくし、なんとしても気に入って頂かなければならないのです」
「殿下にそれを求められる方は多い。ですがあの通りのお方で――」
ラサラスは現在進行中の兄の所行を遠目に見つめ、苦笑いを浮かべた。だが、ラナは首を横に振ると宣言するように口を開いた。
「あの方を慕われている方が多い事は分かっております。それでもわたくしは諦める訳には参りません。なんとしても寵愛を勝ち取ってみせなければ」
顔を上げた彼女の目が今まで震えていたのが嘘のように凛と輝く。その勝ち気な印象は以前送りこんだ女たちと重なった。健気に振る舞ってみせながら、心の底では王太子妃という煌びやかな身分に心躍らせている女と。
(やはりいつもと同じだろうな。いずれ権力に溺れ、本来の役目を忘れてしまう女だ)
過分に期待しないようにと、ラサラスは自分に言い聞かせる。
とにかく、ここで任務を口にするようなら使えない。
「大変な熱意だ。あなたにはそれほど野心があるようには見えませんが。なぜそれほどまでにこだわられるのでしょう」
探りを入れるラサラスに、女は眼光をふわり、緩ませた。
「ザウラク様をお支えしたいのです。――〝故郷〟と〝国〟のために」
べールの下に美しい笑みが透けて見えた気がして、ラサラスは目を見張った。