12
「……もう大丈夫です」
密やかにかけられた声に、広間の帳の裏で息を殺していたラナはため息をついた。カペルは周囲を気にするラナにベールを被せると、裏口から邸の外へ出た。
赤々と燃える松明から遠ざかるとカフラマーンの澄んだ空には星が瞬いているのが見えた。宴の熱気に当てられたラナが、冷たい空気で胸を洗っていると、カペルは話を切り出す。
「殿下は思ったよりも重傷のようですね。あれでは簡単に諦めてくださらないかもしれません。不興を買って嫌って頂こうかとも思いましたが、下手すれば王位に興味をなくしかねない。やはり忘れて頂くしかなさそうです」
さすがにラナは顔を強ばらせた。
「あなたはどうしてシトゥラの事情をご存知なのです」
外部には決して漏れないはずのシトゥラの娘の秘密。
人の心を読み、そして、人の記憶をも操る力。
精通している様子のカペルを不思議に思ったのだ。一族の者であれば、赤い髪という特徴があるはず。だが彼の髪は茶色だ。じっと髪を見つめると、彼は少し笑って説明した。
「主人からこんな日がやって来るのではないかと頼まれておりました」
「カーラ伯母さまですか?」
思い当たる人物は二人。シトゥラの者でないならば、あとは国の最高権力者のみのはず。
「いえ。ですが私の主人もまさに今回のような事を心配されていたように思います。何しろ、うちの殿下はああいう真面目で一途な方ですし」
カペルは首を横に振り、立場を明かす。ラナはラサラスの先ほどの言葉を思い出して頷いた。カペルは穏やかで真摯な顔でラナをじっと見つめた。
「汚れ役を共に引き受けて頂けないでしょうか? あの方のおっしゃった理想を叶えるために」
ラナは少しの間じっと胸の痛みと戦った。
「対価を求めても構いませんか」
そう言うと、カペルは安心したように小さく息を漏らす。
「もちろん。あなたにはその権利があります。金でも、宝玉でもお好きなだけおっしゃって下さい」
ラナは僅かに笑うと、急ぎ取り寄せて欲しいものをいくつか告げて夜空を見上げる。そこには青く輝く大きな星があった。澄んだ青色はまるでラサラスの瞳。そしてその輝きの強さは彼の志のようだった。
*
ラサラスは僅かな情報を頼りに街中を彷徨った。長たちは女に振り回されるラサラスにザウラクの影を見たのか、少なからず落胆した様子だったが、構っていられなかった。リュンクスが必死のラサラスに同情したのか、それともただ単に王位を諦めきれなかったのか、ラナの行方を追ってくれた。街を出る隊商を逐一見張り、出て行く娘がいないかを共に調べてくれたのだ。
そして、もう街には居ないのかもしれないと思いかけた五日後のこと。ラサラスは最後の望みをかけてカフラマーンの外れにあるオアシスの畔へ向かった。
満月の月明かりを含み、明るく輝く水面。傍に見覚えのある赤い髪を見付け、それが探し求めた人物のものだと確認すると、ゆっくりと、大きく息をつく。ひりひりと火傷のように痛む胸に冷たい空気が染み込み、ようやく息がまともにできるようになった。
「見つけた」
掠れた声が漏れると、ラナはびくりと震えて振り返った。琥珀色の瞳と目が合った次の瞬間、彼はラナを腕の中に囲っていた。
「どこにいたんだ」
問いつつもラサラスはもはやそんな事はどうでも良かった。
「約束を、していましたから」
ラナは気まずそうに俯く。
「私が約束を破ると、王位に就いて頂けないかもしれないので」
ここ数日ラサラスがラナの事ばかりにかまけていた事をどこかで知ったのだろうか。不満を含められて、ラサラスは笑った。
「そなたがここにいれば、必ず手に入れてみせる」
そう言って胸の中に抱きしめる。ラナは抵抗せずにされるがままになっていて、それが彼女の答えなのではないかとラサラスの胸が期待に躍る。
(あぁ、でも、王位を手に入れるまでとなると、最低でも一年。下手すれば三年か。……とても我慢できそうにないな)
これほどに欲した事がなく、身を焼く熱に困惑した。きっとラナにはラサラスの欲望は伝わっている。
するとラナが苦笑いをした。白い顔に滲む僅かな寂寥にラサラスが違和を感じたとたん、彼女は提案した。
「確約を頂ければ、前払いでもよろしいですが。必ず成し遂げて頂けますか?」
「! 必ず!」
差し出された餌に思わず飛びついたラサラスは、己の調子の良さに顔を赤くした。
*
深夜のパンタシア邸の裏口から、女が一人現れ、待ち伏せていたまったく同じ容貌の女が入れ替わりに入っていく。女たちはすれ違い様に互いを抱き寄せて涙を流した。
「シャウラ。殿下を――それからアウストラリスをお願いね。賢く強いあなたらなきっと出来るわ」
シャウラの目は真っ赤だった。
「私、こんなの許せない。ずっと姉さんが羨ましかった。でも私が代わりになれるなんて、本当は一度も思った事なんかなかったわ」
鷹を飛ばしてカフラマーンまで呼び寄せた妹は、事情を話したあと、散々泣いてラナの頼み事を嫌だと言い続けた。頑固なラナに最後には根負けして頷いたものの、納得はしていない顔だった。
(やっぱり優しい子。この子ならきっと殿下を守ってくれるわ)
ラナは節々の痛む体を引きずるようにして馬車に乗り込む。
『そなたのためにも、私はこの国を富ませてみせる』
ラサラスの腕の中で愛と理想を囁かれる度に心が引き裂かれ、泣くのを堪えるのに必死だった。体の苦痛よりも堪え、ラナは酷く疲れていて、とにかく何もかも忘れて眠りたかった。
馬車は静かに走り始める。椅子に沈み込むラナに、毛布が差し出される。
「本当にお疲れさまでした」
同乗していたカペルの声だった。
「まだ、終わっていないわ」
ラナは残る力で辛うじて口角をあげる。
「むしろこれからが本番、でしょう?」
「あなたはご立派です。本当に。殿下があなたを愛したわけがよく分かります」
カペルの言葉にラナは泣きそうになるのを堪えて、誤摩化すように外を見た。
「殿下が起きられたら、王位を得るために力を尽くして下さるはず。娘を手に入れたのだから、きっとお約束を守って下さる。だから、私もそのお手伝いをするわ。私にしか出来ないのだもの」
ラナは小さく息を吐く。
「殿下の作られる国は、どれだけ豊かになるのかしらね。隣のジョイアにも劣らない、誰も餓えない素晴らしい国になる」
カペルが優しく頷いた。
「きっと。きっとそうしてみせます」
目を瞑ると、まなうらに金の大地と、紺碧の夜空が映った。輝く青い星を思ったとたん、ラナの目尻から一粒の涙がこぼれた。