10
「脱水ですね」
介抱した村の女の言葉にラサラスは舌打ちする。休憩中必ず水袋を渡していたのに飲んでいなかったらしい。口をつけていたから飲んでいるものかと思っていた。
「殿下の水が無くなると思って、飲めなかったのでしょう」
「……馬鹿だ」
ラナに対しても、気づかなかった自分に対しても腹が立ち、思わずこぼす。
「とにかく早く飲ませないといけません」
女がラナの口元に水差しを当てるが、彼女は既に飲む力がなく、唇の端から水が溢れ出た。
「私がやる」
ラサラスは口に水を含み、ラナの唇に自らの唇を重ねる。
摘みたての石榴のようだと思った唇は、今は渇いてひび割れていた。ラサラスは執拗に唇を重ねる。元の瑞々しさを取り戻すまで水を与え続けると、彼女はようやく苦しげな表情を和らげた。
それを端から見ていた女は、ほっとした様子で口を開いた。
「もう大丈夫でしょう。しばらくすれば回復します。とにかく、殿下はすぐにお発ちくださいませ。ここは知られていないとはいえ、殿下をお守りするだけの力がありません。一刻も早くカフラマーンへお戻りいただかないと。あの場所ならばいくら王太子殿下でも簡単には手は出せませぬ」
「……置いては行けない」
「ですが、砂漠の旅に慣れていないようです。間違いなく足手まといになります。それに……その女はシトゥラの娘でしょう」
女はラナの赤い髪にちらりと目をやった。例の偏見はこんな僻地にまで蔓延っているらしい。
「それがどうした?」
舌打ちしたい気分でラサラスが睨むと、
「いえ、なんでもございません」
迫力に圧された女は慌てて口を噤む。
「とにかく、夕方まで休ませてくれ。夜になったら発つ。それまでに二人分の荷物を用意しておくように」
岩をくり抜いて出来た家は昼でもひんやりと冷たさを保っていた。
ラサラスはラナの傍に寄りそうように自らも横になると、再び水を口に含んで唇を重ねる。
心地良さそうに目を瞑るラナには、水はもう十分なはず。なのに、唇の甘さを味わうために、何度も水を与えてしまう。卑怯だと自分でも思うが、自分を拒み続ける唇を奪う言い訳が出来るのは今だけなのだ。
(未練がましいな)
このまま一緒にカフラマーンへ逃げ果せたら。そしてあの広大な領地で羊やヤクに囲まれて、貧しくとも慎ましく生きていければ。
廃位すれば、兄もラサラスを捨て置くに決まっている。きっと妻にラナを迎えたとしても文句は言わないだろう。むしろ祝いに喜んで贈ってくれそうだ。
「だめ、です」
ぐいと胸を押されたあと、耳に凛とした声が響き、口づけの甘さに夢中になっていたラサラスははっとした。
琥珀色の瞳と目が合ったとたん、後ろめたさに飛び退くようにして壁際に下がる。
「あなたは、王にならねば駄目です」
突然何を言うのだろうとラサラスは目を見開く。
ラナは半身を起こすと、その大きな瞳からぽろぽろと涙を流した。
「あなたはわたくしたちの、アウストラリスの希望の星なのです。どうか、ザウラク様から、あなたの使命から逃げないで。そんな情けないことを言わないで!」
ラナが何に怒っているのか分からなくてラサラスは問う。
「そなたは、兄を支えると言っていなかったか」
「そうです。皆にそう託されてわたくしは使命を果たすために王宮に参りました。ですが、もうそれは叶いません」
「使命?」
「あなた様を王にして差し上げることです」
「え?」
ラサラスは耳を疑った。
「表向きはご存知の通り、ザウラク殿下の寵を得て、裏で御す事でした。ですが、本当のところは彼の周辺を探るためでございます。ご存知でしょう、塩の値が高騰し続けている事を。それに、岩塩の採掘権を設定されると議題に出されたとたんに、陛下が謎の病に倒れられた事も」
「……そなたがそれを探ろうとしていたのか? 女の身一つで?」
それこそ無茶だろうとラサラスが顔をしかめると、ラナは不敵に笑って、ラサラスの前に手のひらを翳した。
(ああ、例の〝力〟を使おうとしたのか)
「女の身一つならば殿下も油断されます。わたくしにしか出来ない事なのです」
ラナは誇らしげにしたが、ラサラスは彼女がザウラクに触れられているのを想像して酷く不快になった。
彼女の犠牲の上に自分の王位があると思うとさらに不愉快だった。
「私は王にはならない。そなたが犠牲になるほどの恩恵を民に返せない。そんな器ではないのだ」
ラサラスが拗ねると、ラナはその目に炎を宿し、急に憤慨した。
「どうして、どうしてそんなにご自分を卑下なさいます」
「どうしてもこうしてもない。皆が兄を選んで来た。だからそなたもそうだろうと思った」
「胸を張って下さいませ。堂々と前を向かれればよろしいだけなのに。そうすれば誰もがあなたに夢中になりますわ」
わたくしのように――最後にそう付け加えると、頬を染めて、ラナは目を伏せる。
誘われるようにラサラスは口づけを落とす。だが、そのまま藁で出来た褥に押し付けると、彼女は急に抵抗した。
「だ、だめです!」
「誘っておいてどういう事だ? 酷いな」
「さ、誘っていないです! 大体それどころじゃないでしょう、今は!」
そういえば、とラサラスは逃亡中の身である事を思い出す。
「じゃあ、カフラマーンへ逃げ切ったら?」
「だめです」
ラナはつんと顔を背ける。どうやら『逃げる』という言葉がとても気に食わなかったらしい。
ラサラスは深呼吸をすると言い直した。
「それなら――王太子になったら?」
「…………!」
覚悟を決めたラサラスにラナは目を見開く。
「〝褒美〟があれば、多少の苦労くらいは我慢する。私に足りないのは、自信だ。そなたは私の傍で励ましてくれるのだろう?」
にやりと笑うと、ラナが戸惑いを見せる。
もう一押しだろうかと考えたとき、ラナは僅かに逡巡したあと、顔を赤くして頷いた。
「それが、本当にご褒美になるのでしたら」
念を押しつつも、本心を彼自身より知っている顔をしているラナに、もう一度口づけをするとラサラスは立ち上がった。
「そうと決まれば、急ごう。カフラマーンに改革派を集め、反撃の体勢を整える。時間が惜しい」
(それに――一刻も早く、手に入れたいし)
建前を口にしながらも本音は繋いだ手から駄々漏れたようだった。
「どうか本懐をお忘れなく」
ラナが呆れたように顔を赤くするが、ラサラスにとっては王位を手に入れること、一人の女を幸せにすること、それは同じくらいに大事な事だったのだ。